絶望への一歩
朝食が届き、今日も特に動きはない。
俺は無機質なコンクリートの壁にもたれ、そのまま床に座り込む。
子供は俺に慣れたのか、もう泣くこともなくなった。ただ黙って、吸い寄せられるように俺の隣に座っている。
「随分と懐かれましたね」
初めて会話をしてから、隣の牢のおばさんとのやり取りも少しずつ増えていた。
「どうでしょうか」
俺は素っ気なく答えながら、頑丈な鉄扉へ視線を向ける。そろそろ巡回のはずだ。
そう思った瞬間——重厚な金属音が響き、扉が盛大に開かれた。
「私の商品は、まだ生きているか?」
海馬だ。周囲の空気を一瞬で凍りつかせるような声だった。
その声に、斜め向かいの牢にいた男が跳ね起きる。今野を殺した男だ。
「海馬様! どうかお助けください! 私に情けを!」
男はコンクリートの床に激しく額を擦りつける。だが海馬は哀れむような一瞥すら与えず、靴音を響かせて俺の牢の前まで歩いてきた。
「宮野さんも、ここ数日元気でしたか」
「仕事の休暇には、ちょうど良かったですよ。三食昼寝付きでしたから」
「そうか」
海馬の冷ややかな視線が、俺の背後へ向けられる。そこには、俺の影に隠れるようにして小さくなっている子供がいた。海馬は鼻を鳴らす。
「暇で子供の面倒まで見ているようだ」
まるで路傍のゴミでも見るかのような視線。不愉快だ——頭の隅に、苛立ちが薄く浮かび上がる。だが、俺は顔に出さずに受け流した。
「この子は随分とおとなしくてね。隣にいても苦にはならないんですよ」
俺は足元へ視線を落とす。
「話し相手としても、ちょうどよかった」
そして、額を床に擦り付け続けている斜め向かいの男へ視線を移した。
「子供はおとなしいのに……あっちの大人は、子供よりわぁわぁ喚いていて、うるさくて敵いませんでしたよ」
海馬はゆっくりと男を見下ろし、くっ、と鼻で笑った。
「アイツは気が弱くてな。俺の駒には相応しくなかったんだよ」
男は反論の言葉すら失い、ただ震えながら床にひれ伏している。
「そうですか。それで……わざわざお越しになられたということは」
海馬の口元が、歪んだ笑みでぱっと明るくなった。
「そうだ! お前達の取引先が決まってな!」
随分と上機嫌だ。よほど都合のいい条件で買いたたかれずに済んだらしい。
「随分と儲かったみたいですね」
「今回はいい商品が多かったからな」
海馬は楽し気に語り出す。
「一人は殺しの経験がある。一人は若い。一人は盗人で、イカれたやつだ」
まるで競り市で家畜の性能を説明するように、海馬は一人ずつ指を折っていく。
「使い道のある人材は高く売れるんだよ」
「なるほど」
俺は小さく頷く。能力に応じて、商品の値段も上がるというわけか。人間そのものではなく、何ができるか。それがこの男にとっての価値だ。
「そういうことで、ついて来い」
海馬が顎で指示すると、鍵が外され、牢の扉が開かれた。
その中には、佐藤もいた。結局……逃げなかったのか。惜しいが、仕方ない。それも佐藤が選んだ道だ。
俺は自ら牢を潜り、外へ出る。
服の端を掴んでいた子供は、そっと手を離した。だが、その場から動こうとしない。売られる——その言葉の意味を、幼いながらに理解しているのだろう。
俺は檻の入り口で立ち止まり、子供が出てくるのを待った。
すると、ここへ放り込まれた時に俺の顔を殴った大男が、横から横暴に割り込んできた。
「さっさと立て!」
男は子供の細い手首を乱暴に掴み、無理やり引きずり起こす。子供の小さな身体が、ぐらりと宙に浮いた。手加減など微塵もない。まるで、重い荷物を雑に放り投げるような扱いだ。
子供は恐怖に顔を歪ませ、必死に身体を捻らせる。
「いや……やめて……許して……!」
狭い地下通路に、悲痛な泣き声が響く。
俺は一歩踏み込み、無言で男の手首を掴むと、そのまま容赦なく捻り上げた。関節が鳴る。
「なッ……何しやがる!」
男は悲鳴を上げて子供の手を振りほどくと、血走った目で俺の胸ぐらを掴みかかってきた。
……俺は、本当に何をやっているんだか。自分でも可笑しくなる。
「随分と大人気ないと思っただけだ」
俺は胸ぐらを掴む男の手を鼻で笑い、静かに両手を突き出した。
「俺に手錠をかけなくていいのか?」
牢から出された他の者たちは、全員両手に重い金属の手錠をはめられていた。俺は戸惑うことなく、手首を揃えて見せる。
「……お望み通り、はめてやるよ!」
男は苛立ちをぶつけるように、腰から取り出した冷たい手錠を俺の両手首へ乱暴にはめ込んだ。金属の重みと冷気が肌に食い込む。
俺はかまわず、ゆっくりと子供へ近づいた。
「来い」
手錠の嵌められた両手を、静かに差し出す。子供はしばらく恐怖で身体を震わせていたが、やがて小さな両手で、俺の固い手をすがりつくように握りしめた。その温もりが手に伝わる。
「そうだ。俺がいる」
俺の言葉に、子供の激しい震えが僅かに収まっていく。
それを見た男が、腹いせのように子供の手首へも手錠をかけようと踏み出してきた。俺はその短い身体を遮るように、すっと間に立ち塞がる。
「まさか、子供にまで手錠をつけないといけないほど、お前達は無能なのか?」
俺は海馬の顔を正面から見据え、挑発するように口元だけを僅かに吊り上げた。
海馬の目が細くなり、冷酷な光が宿る。
「……子供ぐらい放っておけ」
吐き捨てるようなその一言で、男は苦々しく手を引いた。
俺は子供の手を握ったまま、牢屋をあとにした。
俺達は海馬の後に続き、歩き出す。連れて行かれるのは、俺たちが運ばれてきたルートとは真反対の扉だ。
やっぱり、そうか。出口も搬入路も、複数用意してあるわけだ。
「ほら、さっさと歩け! 交渉に遅れるだろ!」
背後から黒いスーツの男に背中を小突かれる。先ほどの手首の件が相当気に食わなかったらしい。
扉を抜けると、闇の奥へと深く下っていく階段が伸びていた。




