牢屋の中でも
昼か夜かの区別すら、ここには存在しない。
陽光の届かない地下の牢獄は、冷たいコンクリートと、どこかの配管から滴る水の音だけが支配する暗闇だった。
「……ようやく、寝たんだね」
不意に声をかけてきたのは、隣の牢に閉じ込められている年配の女性だった。少しふくよかで、本来なら家庭的な温かさを感じさせる雰囲気のおばさんだ。ここへ入れられてから、一度も口を開かなかった彼女の喉が、微かに震えている。
「ええ。私には、あまり話しかけない方がいいですよ」
「どうして?」
「ろくな人間じゃないからです」
包み隠すつもりもなかった。ここで何を明かそうと、分厚いコンクリートの壁と重い鉄格子の外へ声が漏れることはない。仮に脱出できたところで、俺のような人間の証言など誰も信じはしない。
「私はね、危険な橋を渡るのが好きなんです」
「……そう」
おばさんは深く追求せず、ただ短く息を吐いた。鉄格子を握りしめる彼女の指関節は、恐怖で白く強張っている。こんな場所に放り込まれて、取り乱さずにいられる人間などいるはずがない。
牢の中を見渡す。打放しのコンクリート床に伝わる冷気。俺とおばさん以外は、極度の緊張と疲労に耐えかねて泥のように眠りこけていた。
しばらくの沈黙の後、配管を伝う水滴の音に混じって、おばさんがぽつりと呟いた。
「それでも……たくましいね。こんな状況なのに、ちっとも怖がっていない」
彼女の視線が、俺の足元へ落ちる。そこに転がっている小さな影——俺の隣で眠る子供を見つめるおばさんの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「それに、優しいんだね」
「優しい?」
思わず鼻で笑った。布団にくるまり、疲れ果てて規則正しい寝息を立てている子供を見下ろす。
「そんなわけないでしょう。私はこの子を助ける気なんて、微塵もありませんよ」
「……でも、さっきからずっと背中を撫でてあげていたでしょう?」
「泣き声がうるさかっただけです」
俺は素っ気なく言い捨て、無意識に子供の背をさすっていた自分の右手を、ポケットの奥へ突っ込んだ。
助ける気なんてない。善人ぶるつもりも、ヒーローになるつもりもない。
……ただ、目の前で小さな身体を丸めて泣きじゃくられるのが、胸の奥で苛立たしかっただけだ。
「あんた、少し素直になりなよ。……さっきの男との話、聞こえてたよ。あんたより後に売られたら、この子は助かるんだろ?」
狭い空間だ。ひそひそ話のつもりでも、コンクリートの壁に反響して耳を澄ませば通じてしまう。
「ええ。先に取引されてしまえば、もう追えませんからね」
「だから、自分の牢に引き取ったんだね」
「買いかぶりすぎです」
溜息を吐きながら苦笑する。
「あんた、あの物腰の柔らかい見張りとも仲良さそうに話していただろう? あの男も、この子のことを気にかけていたみたいだしさ」
なるほど、伊達に年を重ねてはいない。取り乱しているように見えて、このおばさんは静かに周囲の人間関係と観察を続けていたらしい。
「少し聞いてもいいですか。あなたは、いつからここに?」
「もう何日になるか分からないねぇ。ただ……ご飯が届く回数を数えれば、たぶん四日目だよ」
四日。
「その間、誰かが連れ出されるのを見ましたか?」
「ううん、誰ひとり」
一人ずつの個別売買ではない。となれば、ある程度の数が揃った段階でまとめて搬出する気だ。
そこまで分かれば十分だった。俺たちがここへ運ばれたルートを考えれば、連れ出す際も人目につかない専用の搬入口を使うはず。あとは、実際に動きがあった時に仕掛けるだけだ。
それにしても、この無機質なコンクリートに囲まれた地下牢は、妙に管理が行き届いている。
清潔な服、三食の食事、厚手の布団。申し出れば見張りがトイレまで連れて行く徹底ぶりだ。古代の奴隷市場のような惨状を想像していたが、現代の人身売買は思いのほか衛生管理にうるさいらしい。
商品としての価値を落とさないため——そう考えれば、この不気味なほどの丁寧さにも合点がいった。
だが、どれほど小綺麗な衣服を与えられようと、ここが狂気と強欲の蠢く檻であることに変わりはない。現代の死角でこのようなシステムが平然と稼働しているという事実に、冷たい寒気が背筋を撫でた。
俺はここから五日間、一度も外に出されることはなかった。




