商品の価値
海馬はタバコを灰皿に強く押し付けた。
ジュッと短い音を立てて火が消え、部屋には吸い殻の不快な残り香だけが重く漂う。
「仲間にならないのに……私どもの情報を持たれては困るんだ」
「言いふらされた日には、大惨事になるだろうな」
「仲間になる気はない。協力関係なら、話に乗ってもいいが」
山で久城を襲った男。周囲の住人の異常な動き。ここまで揃えば、嫌でも察しがつく。こいつらの仲間になったところで、ろくな結末が待っていないことくらい。
「困ったな……。俺は君が盗人だと言いふらすと脅せば、おとなしくこちら側の仲間になってくれると思っていたんだが」
そう思うのが普通だろう。普通の人間なら、秘密を握られれば怯え、脅されれば大人しく従う。
ただ――俺は、そうならない。
「言われても、ちっとも焦らないな」
海馬が怪訝そうに眉をひそめ、俺を睨みつける。
盗人だとバラされる。警察に捕まる。それで人生が終わる。
……いや、違うな。
捕まることそのものが恐ろしいんじゃない。危険を承知で足を踏み入れ、逃げ場が完全に塞がれる――その瞬間に脳を灼く、あの感覚。胸の奥が熱くなり、全身の血が跳ねるような感覚だ。
「どうせ、ここで仲間になるのを断ったら殺されるんだろ?」
俺は自分でも気づかないうちに、口元を歪めていた。
「それも……また一興だ」
頬が緩むのを抑えられない。海馬の顔を見つめながら、俺は胸の中で嘲笑う。
――さて。こいつはどこまで俺を楽しませてくれる?
海馬が、腹から響くような野太い声を上げて笑い出した。
「ははは! そうか。君は……狂っているのか」
笑っていた海馬の目が、一瞬で冷たく冴え渡る。
「狂っている人間には、脅迫など無意味だ。恐怖すらもエンターテインメントにしてしまうのだから」
「その通りだ」
俺は素直に笑みを深めた。
「俺は今、この瞬間がたまらなく楽しい」
殺す気なら今すぐにでも殺せる状況だ。逆に言えば、俺の命は今、海馬の手のひらの上にある。
それなのに――楽しくて仕方がない。
そうなると、海馬はどう動く?
きっと……俺が期待している通りの『地獄』を用意してくれるはずだ。
「そういう奴は、生きたまま地獄を味わわせて、己の無力を思い知らせるしかない」
海馬は、悪魔のような笑みを浮かべた。
「どうするつもりだ?」
「君を奴隷として売ってやろう」
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、全身の血が沸騰するような熱を持った。
――たまらない。海馬……お前は本当に、扱いやすい男だ。
「それは……予想外だな!」
口では大袈裟に驚いてみせる。だが、抵抗する気など微塵もない。
海馬は満足そうに口元を歪めた。
「これほど頭が切れるなら、買い手もすぐに見つかるだろう」
「それは光栄だな。俺を買った主人は、さぞ幸せになれるだろうよ」
「……っ!」
海馬が猛然とテーブルを叩いた。
ドンッ! と重い音が部屋に響き渡り、奴の顔がみるみる怒りで赤く染まっていく。
「奴隷になって、そこから抜け出せると思っているのか!」
俺は組み直した足の上に肘を乗せ、無邪気に微笑んだ。
「どうでしょうかね」
これから遊び場に向かう子供のような笑顔。それを見た海馬の手が、屈辱と怒りで激しく震え始める。
「笑っていられるのも今のうちだ! 牢へ連れて行け!」
ドアの前で控えていた佐藤と、もう一人の男が即座に動いた。
左右から両腕を強く掴まれ、身動きを封じられる。
俺は一切抵抗せず、促されるままゆっくりと立ち上がった。海馬の苛立ちに満ちた顔を見つめ、静かに言い残す。
「海馬さん」
一歩、牢へ向かって歩みを進める。
「次に会う時が、楽しみです」
重厚なドアが閉まる瞬間――
俺の背後から、ガチャン! と何かが激しく床に落ち、砕け散る音が響いた。海馬が灰皿かカップを投げつけたのだろう。
俺が振り返るより先に、隣を歩いていた佐藤がチラリとこちらを見た。
「宮野様……今からでも、謝罪すれば……」
意外だった。海馬に絶対服従だと思っていた佐藤が、俺を庇うような口振りを見せるなんて。
「いえ、大丈夫です。このまま牢へ案内してください」
俺は歩調を崩さず歩き続ける。もう一人の男は、さっきから俺の異常性に引き気味で、あからさまに警戒した視線を向けていた。
……できれば、佐藤と二人きりになりたいんだがな。
「ご飯は出ますか?」
唐突な問いかけに、男が呆れたように鼻で笑った。
「これから奴隷として買われていくって時に、随分と呑気な野郎だな」
実に面倒な見張りだ。
「誰もが怯えて震えていなきゃいけない、なんてルールはありませんよ」
俺がさらりと言うと、佐藤が口元をサッと手で覆った。
……肩がかすかに揺れている。笑いを堪えているな。
すぐに真面目な顔に戻った佐藤が、落ち着いたトーンで繋いだ。
「食事の心配はありません。後ほど、私が責任を持ってお持ちしましょうか?」
俺の意図を完璧に汲み取った発言だ。
「助かります。人間ですから、腹は減りますので」
会話を続けながら、案内される通路に視線を走らせる。
「以前、通してもらった客室の方に向かっているんです
ね?」
佐藤ではない方の男が、苛立ったように声を荒らげた。
「余計な口を叩くな! 黙って歩け!」
佐藤は申し訳なさそうに、俺へ軽く頭を下げた。
仕方ない。これ以上の刺激は無用か。俺は黙って男の背中についていく。
そして――屋敷の見取り図には記載されていなかった、見覚えのない不自然なドアの前で足が止まった。
……そういうことか。
隠し通路。普通なら気づかない作りになっている。
男が腰から鍵束を取り出し、解錠する。
「何人の『商品』が、そこにいるんですか?」
鍵が回るカチャリという音を聞きながら、何気なく尋ねた。
「あぁ? 入れば嫌でも分かる!」
男が俺の肩をぐっと押し込んだ。ドアの向こうには、地下へと続く暗く狭い階段が伸びている。二人が並んで通るのがやっとの幅だ。
階段を下り始めると、地上とは明らかに違う、ひやりとした湿った空気が頬を撫でた。
――やっとだ。
ついに海馬の隠された『闇』に手が届いた。ここには確実に、奴を追い詰める証拠が眠っている。
「変な気を起こすなよ。下に着いたら服を着替えろ」
外からの持ち込み品を没収するのが目的だろう。やはり、この手の管理だけは抜かりがない。
だが、問題ない。今の時代、隠し通す手段などいくらでもある。
地下の小部屋に着くと、俺は見張りの視線を意に介さず、用意されていた服へと着替えた。ドラマに出てくるようなボロ布ではなく、安物だがしっかりとしたTシャツとスウェットパンツだ。
「ありがとうございます。正直、あのスーツのまま過ごすのかと思っていましたよ」
部屋に不快そうな舌打ちが響いた。
「コイツ……自分が置かれてる状況が、マジで分かってねぇのか?」
俺は新しく着た服の袖を引っ張りながら、周囲を見渡す。
「分かっていますよ」
淡々と答える。
「売る前に商品を傷つければ価値が下がる。使い物にならなくなれば困るし、死なれでもしたら処分費がかかった上にクレームが入る。……そういう意味では、ペットショップの犬や猫と同じ扱いですね」
言い終わった瞬間――
ドンッ!
視界が激しく揺れ、顔面に重い衝撃が走った。
男の拳が正確に頬を撃ち抜いたのだ。口の中に、一瞬で生臭い鉄の味が広がる。
俺は床に膝をつき、溜まった血を吐き捨てた。
「……殴ることくらいは、できるんだな」
「調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
「なるほど……これが、商品価値を落とさない程度の『調教』というやつですか」
吐き捨てるように笑うと、男の顔が怒りで真っ赤に沸騰した。拳を握り直し、蹴りを叩き込もうと足を引き上げる。
まずいな、加減の利かない馬鹿だ。
その瞬間――すっと間に割って入った影があった。
「そこまでにしなさい。商品を傷つければ、海馬様からどう処分されるか分かっていますね?」
佐藤が男の前に立ち、静かだが拒絶を許さない声で制した。
男はちっと舌打ちをし、握りしめた拳を強引に下ろす。
佐藤は男を背中で牽制しながら、床に伏せる俺へゆっくりと手を差し伸べた。その瞳の奥には、海馬への服従ではなく、俺という『異端』に対する強い興味と、かすかな企みが光っていた。
「宮野様。こちらへ……牢へご案内します」
「……感謝しますよ、佐藤さん」
俺は口元の血を拭い、差し出された手を取って立ち上がった。
頬は激しく痛む。だが、胸の奥で渦巻く熱は、さらに激しさを増していた。
地下の暗がりへ続く廊下を歩きながら、俺は静かに口元を緩める。
奴隷、暗い牢獄、そして協力的な牙を隠した従者。
お膳立ては完璧だ。
さて――ここからどうやって、この地獄をひっくり返してやろうか。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
これから結末に向かって物語が進んでいきますので、最後まで応援していただけたら嬉しいです。
コメント、評価、ブックマークも励みになりますので、よろしくお願いします




