命のカウントダウン
朝の陽光は無駄なほどに眩しく、吹き抜ける風も澄み渡っていた。
けれど、この場所に流れる空気はまるで腐敗した泥のように重く、息苦しい。
線香の煙が立ち上る中、黒い喪服に身を包んだ大人たちが、涙を浮かべた目で俺を殺気立って睨みつけている。
やはり、あの悪質な噂は根強くこの町を蝕んでいるらしい。
俺はそんな突き刺さるような視線を意にも留めず、静かに抹香をくべ、合掌した。
遺影として並べられた二つの遺影。今野と、久城の顔だ。
……まったく、久城の奴はピンピンして生きているというのに、本人のいないところで葬式が挙げられる始末とはな。人生で二度も自分の葬式を体験する男なんて、後にも先にも久城くらいのものだろう。
腹の奥底でこみ上げてくる黒い笑いを押し殺しながら、俺は一礼して焼香台を離れた。後でたっぷりからかってやることにしよう。
式場を出るやいなや、ポケットからスマホを取り出し、久城へメッセージを打ち込む。
『久城さんの葬式に出て来ました』
送信ボタンを押して数秒もしないうちに、画面が光った。
『どういうことですか!』
『死んでることになってるからですよ』
『僕、生きてますよね!?』
画面越しの悲鳴を無視してスマホをポケットに放り込み、前を向く。
そこには、数人のGメンを従えた海馬が、静かに佇んでいた。
……やれやれ、見逃してはくれそうにないか。
「海馬さん、こんにちは。奇遇ですね」
「宮野さんじゃないですか。……もしよろしければ、これから私の屋敷でお茶でもいかがです?」
行ってたまるか。そんな分かりやすい罠に誰が好き好んで飛び込む。
「こんな痛ましい日に、お邪魔するような空気読めない男ではありませんよ」
海馬は整えられた白髪混じりの顎を撫でながら、蛇のように粘着質な視線で俺を射抜いてくる。
「それでは……明後日の昼はいかがです? 今度こそ、じっくりとお話ししたい」
「……ええ。構いませんよ。お邪魔させていただきます」
「楽しみにしているよ」
海馬は短くそれだけ言い残すと、俺の返答を待つ風もなく、悠々と葬儀場の中へと消えていった。
掴みどころのない男だ。いや……腹の底で何を考えているのか、全く読めない危険な狂人と言うべきか。
「海馬さんと、何を話していたんですか?」
背後から届いた凛とした声に振り返る。
「石井さん。見てたんですね」
眉をひそめ、不安げにこちらを見つめる石井の姿があった。
「屋敷に招待されたんですよ。お茶を飲みに」
「……行くんですか?」
俺が軽く頷くと、石井は一瞬だけ唇を噛み締め、それ以上は何も言わなかった。
引き止められるかと思ったが、これまで幾度となく死線を潜り抜け、策を練ってきた仲だ。彼女は俺の意図を察してくれたらしい。
「大きい餌が飛び込んだ方が、魚も警戒を解いて食いつきますから」
石井はしばらく黙り込んだ後、あきらめたように小さく息を吐き出した。
「……あまり、無理はしないでくださいね」
俺はポケットの中で指に挟んでいた一枚の小さな紙切れを取り出すと、彼女の手の中に滑り込ませ、そっと指を折りたたませた。周囲に悟られないよう、囁くような声で告げる。
「もし警察が動かなかったら、この番号に助けを求めてください」
石井は掌の中の紙切れを見つめ、首をかしげた。
「誰の番号ですか?」
「私の友人のものです」
俺は少しだけ口元を緩めた。
「まあ、電話が繋がらなくても……たぶん向こうから勝手に突っ込んでくると思いますけどね」
この後、淳に屋敷へ行く日程を伝える。あの男なら、俺が何も言わずとも状況を察して警察署へ向かうはずだ。そこでうまく石井と合流できれば、バックアップとしては十分すぎる。
「では、失礼します。明後日は仕事を休ませてもらいますね」
歩き出そうとすると、石井が静かに、しかし力強い声で背中に言葉を投げかけてきた。
「明後日ですね。……もし帰ってこなかったら、私が助けに行きますから」
俺は振り返らず、ニヤリと口角を上げた。
「それは頼もしい。期待して待ってますよ」
自宅に戻り、静まり返った部屋でソファーに深く腰を下ろすと、俺は淳の番号を呼び出した。
数回のコール音の後、ガサゴソという雑音とともに声が聞こえる。
『あ! 宮野さんですか!?』
聞き覚えのある、どこか情けない声。
「……なんで久城さんがでるんですか。淳はどうしたんですか?」
『あはは……酔いつぶれて寝てるんすよ。宮野さんと別れてから、ずっと俺、酒に付き合わされてて……。それより! 俺の葬儀ってどういうことなんすか!?』
「それより」で済ませる話ではないのだが、まあ元気そうで何よりだ。
「久城さんは、世目的には無事に『死亡』したことで処理されました。おめでとうございます」
『酷いっすよぉ……! 俺、こんなに元気に生きてるのにぃ……!』
電話の向こうでぐずる声をあっさり切り捨てる。
「分かりましたから、淳を起こしてください。頭から水をぶっかけてでも叩き起こして」
ガラガラとスマホがテーブルに置かれる荒い音が響き、遠くで「起きてください! 淳さん!」と叫ぶ久城の声が聞こえる。直後、ドサリと何かが倒れる重い音がして、受話器からだらしない男の声が復活した。
『……ふぁあ、どうした宮野? 何かあったか?』
「『何かあったか』じゃないだろ」
呆れを通り越して思わず声が大きくなる。
「こっちはこれから命懸けの死地に向かおうって時に、呑気に酔い潰れてるんじゃない」
『お! いよいよ決まったのか?』
カチッ、とライターのジッポ音が響き、深く息を吐き出す音が聞こえた。煙草を吸い始めたらしい。
『おいおい、勘弁してくれよ。すでに一匹、面倒なヤツを囲ってるんだぞ?』
「けど、今回は男じゃなくて女だ」
『女ぁ!?』
さっきまでの眠気はどこへ吹き飛んだのか、淳の声が一瞬で跳ね上がった。
『どこで知り合ったんだ? 可愛いのか!?』
「ああ、実に可愛いぞ。だが……残念ながらお前にはなびかない」
『なんでだよ!』
「すでに忠実な飼い犬がついているからな」
受話器の向こうの淳には届いていないが、もしこの会話を久城が聞いていたら、きっと『俺は犬じゃないっすよ!』とムキになって怒るだろうな。そんな光景を思い浮かべ、俺は思わずニヤリと口角を上げた。
「まあ、横から奪い取る自信があるなら好きにしろ。その人に警察が動かなかった時用にお前の番号を渡してある。助けが必要なら連絡がいくはずだ」
『ふん、情報屋を舐めるなよ。連絡を待つまでもなく、ヒーローみたいに颯爽と現れて助けてやるさ』
久城の時とはまるで違う現金な温度差だ。
「なら、ついでに頼みがある。この町の地主の裏事情と、人身売買の引き渡し先を洗ってくれ。そこに侵入してほしい」
『侵入? 俺が?』
「現場のやり取りを映像として証拠に残したい。隠しカメラを仕掛けてきてくれ」
『お前の身体に盗聴器でも仕込んどけば、場所くらいすぐ割り出せるだろ』
「それだけじゃ証拠として弱い。……そうか、お前には荷が重かったか」
俺はわざとらしく溜息を吐いてみせた。
「……それなら仕方ない。別の奴を当たる」
数秒の静寂。直後、みしりと缶ビールか何かを握り潰す凶暴な音が響いた。
『……おい。喧嘩売ってんのか?』
低い、本気の声。乗ってきた。
「売るも何も。できない奴に無理強いはしない主義だ」
『……やってやるよ。ハメやがって』
クツクツと笑う俺に、淳は吐き捨てるように言った。
『で、タイムリミットは?』
「明後日だ。相手と接触して、そのまま俺は身柄を拘束されるだろうな。ここまで情報を掴んだ人間を、奴らが生かして逃がすはずがない」
ソファーの背もたれに体を預け、天井を見上げる。
『ククク……ハハハ! いよいよ、お前の命のカウントダウンってわけか』
人の命をまるでカジノのチップみたいに面白がりやがって。
……だが。
淳のその言葉を聞いた瞬間、胸の奥で眠っていた狂気が一気に跳ね上がった。
ドクン、と心臓が強く脈打つ。
怖い。当然だ。明後日、俺は捕まり、無惨に殺されるかもしれない。
それなのに――全身の血が激しく巡り、口元が勝手に歪んでいくのを止められない。
ゾクゾクとするような冷たい緊張感。
一歩足を踏み外せば死に至る、圧倒的な非日常。
たまらない。この感覚をずっと求めていたのかもしれない。
「……そうだな」
俺は低い声で笑った。
「たまには、こういう命を賭けたゲームも悪くない」
明後日が待ち遠しくてたまらない。
奴らは俺をどこまで追い詰めてくるのか。
俺はその地獄の中で、どこまで悪あがきして生き残れるのか。
滾るような高揚感を胸に抱いたまま、俺は通話を切った。
静まり返った部屋の中、俺は一人、明後日始まる死のゲームに思いを馳せながら、静かに笑い続けていた。




