畏怖の目
俺はベッドに横になり、ただじっと天井の木目を眺めていた。
結局、一睡も出来なかった。
海馬の屋敷で不毛な腹の探り合いをし、そのまま久城を救出するために夜の山へ突入した。果ては酔っ払いの介護まで押し付けられたのだ。……完全に疲れすぎて、脳のスイッチが切れなくなっている。
目を閉じても、頭の奥だけが嫌にギラギラと冴え渡っていた。
今野が死んだことについて、何も感じていないわけじゃない。なんだかんだ面倒見の良い奴だったし、俺も色々と世話になった。だから、胸の奥が痛まないと言えば嘘になる。
ただ――惨劇の現場で冷たくなった死体を目にした時、世間一般が抱くような『ショック』や『恐怖』があったかと言われれば、驚くほど無だった。
自分でも少々壊れているとは思う。だが、今の状況でそんな感傷に浸る余裕などどこにもなかった。
重い身体を力任せに起こし、リビングへ足を踏み入れる。
「おは……よ」
声を出してから、虚空に消える自分の声に苦笑した。
ここ数日、当たり前のようにあいつが居座っていたせいで、つい癖で声をかけてしまったらしい。頭を軽く掻き、何事もなかったかのようにキッチンへ向かう。
誰もいない家が、ほんの少しだけ広く感じられた。
身支度を整え、職場へと向かう。
さて……今野が『処理』された後、海馬の連中はどういう根回しをしてくるだろうか。
突発的な転勤として誤魔化すか、それとも怪しい失踪事件として片付けるか。どちらにせよ、まともな終わり方をするはずがない。
そんな思考を巡らせながら職場の敷地に足を踏み入れた時だった。
「宮野さん!」
背後から切迫した声で名前を呼ばれる。
振り返ると、そこには血相を変えた石井が立っていた。呼吸を乱し、肩を上下させている。
「話があるんです……昨日、久城さんが家に戻ってなくて……!」
やっぱり、その件か。
俺はさりげなく周囲に誰もいないことを確認してから、石井との距離を詰めた。
「大丈夫ですよ」
声を一段落とし、宥めるように告げる。
「逃げていた久城さんは、俺が保護して安全な場所に隠しました」
石井の顔が、一瞬だけ硬直した。安堵というよりは、事態の重さに追いついていない顔だ。
「それと……街で、今野さんが事故で亡くなったって噂が流れていて……」
久城が無事だと知っても顔色が晴れないのは、そのせいか
。
『事故』とは大きく出たものだ。本当に他人の命を記号か何かだと思っているらしい。
「その件も含めて、仕事が終わってから話しましょう」
職場の中にまで海馬の『犬』が紛れ込んでいる可能性は十二分にある。
改めて石井の手元を見ると、目に見えるほど激しく震えていた。不安と恐怖が、彼女のキャパシティをとうに超えている。
「……分かりました」
絞り出すような返事を聞き、俺は事務所の重い鉄製ドアへと手をかけた。
ドアノブを押し込み、室内へ足を踏み入れ――その瞬間。
事務所内にいた職員全員の視線が、一斉に俺へ突き刺さった。
恐怖、嫌悪、あからさまな敵意、そして底意地の悪い好奇。
エアコンの風とは違う、じっとりと肌にまとわりつくような冷気が室内を支配している。ピリピリと肌を刺す緊迫感に、俺の脳の奥がゾクゾクと熱く痺れた。
……いいぞ。たまらないな。
生命の危険を感じれば感じほど、身体の底から勝手に興奮が湧き上がってくる。
この一瞬の空気だけで、俺はすべてを悟った。
なるほど、そう来たか。
後ろから続いて入ろうとした石井に対し、振り返ることなく、唇だけを動かして小声で囁く。
「俺を無視してください」
「え……? どうしてですか……?」
石井が動揺を隠せない声を漏らす。
「おそらくですが――俺が今野さんと久城さんを殺した『犯人』に仕立て上げられています」
それだけ言い残し、俺は何の疾しいこともない清々しい顔で自分のデスクへと歩を進めた。
誰も声をかけてこない。まあ当然だ。一晩で二人を殺したと思われている危険人物に、自分から挨拶する馬鹿はいない。
噂を流し、孤立させ、精神的に追い詰める。小さなコミュニティにおける人間の脆弱さを、海馬は実に熟知している。気に入らない人間を排除するときの、いつものやり口だ。
デスクの引き出しを開けようとした時、目の前に影が落ちた。一人の男性職員が、顔を真っ赤にして立ちふさがっている。
「何かご用でしょうか? 何か分からない業務でもありましたか?」
極めて穏やかに尋ねると、男は俺のデスクを「パンッ!」と激しい音を立てて叩いた。
「ふざけるな! 今野さんと久城さんを殺しておいて、何事もなかったみたいな顔してここに来てんじゃねえよ!」
怒号が事務所内に響き渡る。
まあ、怒る気持ち自体は理解できる。二人とも根が優しく、周りから慕われていたからな。
「なぜ、それをやったのが私だと決めつけるのですか?」
「街中で噂になってるからだろ!!」
噂。予想通りの単語だ。俺は静かに首を傾げて見せた。
「なるほど。では、その噂が真実であるという『確証』は、どうやって得られたのですか?」
「それは……っ」
男の言葉が詰まる。勢いだけの詰問。穴だらけで、議論にすらならない。
「いいですか。あなたが今、私にぶつけているのは単なる『噂』……つまり根拠のない都市伝説や空想と同義です」
俺は立ち上がり、事務所全体に朗々と通り抜ける声で言葉を紡いだ。
「もし私を殺人犯として糾弾したいのであれば、客観的な証拠を持ってきてください。それすら無しに人を殺人犯扱いするのは――」
あまりの無知と滑稽さに、思わず鼻で笑ってしまった。
「――ただの駄々をこねる子供と一緒ですよ」
男は顔を真っ赤にしたまま、固まった。周囲の職員たちも息を飲み、目を泳がせている。
言い返せるロジックなど、最初から持ち合わせていないのだ。くだらない茶番劇だ。
「言いたいことはそれだけですか?」
俺はゆっくりと椅子に座り直した。
「なら、無駄話はやめて仕事をしてください」
男は拳を握りしめ、震える声でボソリと漏らした。
「じゃあ……宮野さんは……犯人じゃないんですか……?」
「本物の犯人が、こんな早朝からのうのうと出勤してデスクワークを始めますか?」
俺は冷ややかな視線を男に突き刺す。
「私なら、とっくに夜逃げして遠くへ高飛びしていますよ」
場の主導権を完全に握ったことを確信し、俺は追撃をかける。
「誰がそんな悪質な噂を流したのかは知りませんが……この手の噂は、最初に言い出した出所こそが一番怪しいと決まっています。皆さんも、根拠のない噂に踊らされて足元をすくわれないよう、ご注意ください」
気まずい沈黙が流れた後、職員たちが視線を逸らし、小さく頷き始めた。
これでよし。当面の間、余計な干渉は受けずに済む。
欠勤した二人分の膨大な業務を押し付けられる覚悟をしていたのだが、どうやら今日はそれどころではないらしい。二人を弔うための急造の葬儀が行われることになり、本日の業務は実質免除、参列のみとなった。
俺はポケットからスマホを取り出し、画面を伏せたままLINEを操作する。
石井へメッセージを送信した。
『洞窟まで来てもらえますか。二人で話をしましょう』
事務所を出た俺は、石井とは時間差を空けて例の洞窟へと向かった。
相変わらず、肌にまとわりつくような湿気と、特有の冷気が漂う場所だ。
洞窟の入口に差し掛かった時、背後から足音が近づいてきた。
「宮野さん、待ってください。一緒に行きましょう」
振り返ると、石井が息を切らせて立っていた。……一人でこの暗闇に入るのが恐ろしいという気持ちは理解できる。
「ええ、行きましょうか」
ズズ……と、足裏にへばりつく泥を踏みしめる音が、薄暗い洞窟内に反響する。
「すみませんね。話し合いの場にここを選ぶのは、少々配慮に欠けていました」
以前、久城に初めてここへ連れて来られた時のことを思い出す。あの時俺は「スーツ姿で来るような場所じゃない」と文句を言ったのだった。まさか自分が同じ過ちを犯すとは。
申し訳なさと可笑しさが混ざり合い、俺は口元を手で覆ってクスクスと笑った。
「そうですね……あの時の久城さんみたいに、私が宮野さんを注意しましょうか?」
石井が柔らかいトーンで応じる。
彼女もまた、あの時の久城の姿を思い出しているのだ。そう思うと、強張っていた表情が自然と緩む。
「勘弁してください」
ひんやりとした静寂が支配する洞窟の奥深くへ辿り着き、俺は足を止めた。
石井が、静かに、しかし重々しい声で切り出す。
「昨日……あの一日で、一体何があったんですか?」
少しの間を置き、彼女は自責の念を込めるように言葉を続けた。
「私は……久城さんを引き留めることが出来ませんでした。そのまま、行かせてしまって……」
組まれた彼女の手が、後悔に苛まれるように細かく震えている。
あの極限状態だ。石井が居合わせたところで何も出来なかっただろうし、下手をすれば人質に取られて全滅していた。
「昨日、俺は久城さんから救信号を受け取ったんです」
俺は言葉を選びながらゆっくりと話し始めた。
「前もって、久城さんにはGPSを持たせていましたから」
石井の眉間に、深いシワが刻まれる。考え事をする時の彼女の癖だ。この数ヶ月の付き合いで、それくらいは嫌でも覚えた。
「宮野さんは……こうなることを最初から予測していたんですか?」
「確信があったわけではありません。ただ、最悪の可能性として考慮していただけです」
俺は足元の泥の中に、今も眠っているはずの『缶』の埋没場所にちらりと視線をやった。掘り返された形跡はない。
「久城さんは以前から海馬さんの裏を探っていましたからね。いずれ衝突し、巻き込まれるリスクは高かった」
「……はい」
「今回は、その懸念が最悪の形で現実化してしまった……それだけのことです」
正直、想像していたよりは遥かにマシな着地点だった。
いや……もし俺がもっと早い段階で淳に久城を預けていれば、今野が命を落とすこともなかったのかもしれないが。
「俺が山に入った時には、既に今野さんは息絶えていました。犯人の男は、殺人に一切の躊躇がない手慣れた人間です。これまでにも何人もの命を奪ってきたでしょう」
石井の顔色が、さらに青ざめていく。
「そして久城さんを見つけた時、彼は追い詰められ、恐怖に震えていました。あの男は……獲物を追い詰め、絶望させる過程を楽しんでいた」
一度、深く息を吐き出し、過熱した思考を冷ます。
「久城さんを救出した後、隣町へ向かい……信用できる俺の友人に預けました。これが昨夜の全容です」
手短に経緯を説明し終えたが、石井は一向に安心した様子を見せない。自分の両腕を強く抱きしめ、ぬかるんだ泥の地面を食い入るように見つめている。
「……分かりました。では、その犯人の男はどうなったんですか? 逃げられたのですか?」
俺は静かに首を横に振った。
「意図的に逃がしました。海馬の目を欺くために」
――次の瞬間。
ガバッ、と激しい音を立てて、石井の手が俺の胸元に伸び、スーツの襟を強く掴み上げた。
「……どうしてですか」
想像を遥かに超える強い力だった。
あの常に理性的で、感情を表に出さず、誰に対しても礼儀正しかった石井が、これほど荒々しい行動に出るなど思いもしなかった。
「欺くためと言ったでしょう。あの男を利用して『久城は死亡した』と海馬に誤認させ、彼を完全に追及から切り離したんです」
石井ほどの頭切れなら、この合理的判断の価値が理解できるはずだと思っていた。
だが――俺の認識は甘かったらしい。
石井の手にさらに力がこもり、シャツの生地が悲鳴を上げて引っ張られる。
「そんなこと……分かってますよ! 話を聞けば、それが一番確実だってことくらい……!」
なら、一体何が気に入らないというのか。
石井が、まるで救いを求めるかのように、絞り出す声で叫んだ。
「そうじゃない……っ! 罪も償わないで……今野さんを殺して……他にもたくさんの人を殺して……っ!」
石井の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、頬を伝って落ちていく。
「自分だけ……あの男だけが、のうのうと生き延びるなんて……っ!」
その瞬間の石井の瞳に、俺は完全に目を奪われた。
そこにあったのは、仲間を失った悲しみの涙ではない。
純度の高い、苛烈な『復讐心』
暗がりの中で、彼女の瞳の奥にどす黒い炎がメラメラと燃え上がっているのが見えた。
――最高だ。
俺の胸の奥で、歓喜の感情が跳ね上がった。
久城のような、綺麗事で生きている純粋すぎる人間じゃない。
理性の仮面の下に、ドロドロとした暗い欲望と殺意を秘めている石井のような人間こそが――
俺たちの側(こちら側)の世界に向いている。




