今後の話
駅前を離れ、俺たちは雑居ビルの2階にある個室居酒屋へ移動した。
なぜこんなことになったのかと言えば――淳が「せっかく合流したんだから飲もうぜ」と、駅前で大声で騒ぎ出したからだ。
「……それで、帰りはどうするんですか」
俺は運ばれてきたアルコールには一切手をつけず、温かいお茶の湯呑みを両手で包み込んでいた。
隣へ目をやると、久城も手元の箸を弄ぶばかりで、料理にはほとんど手をつけていない。直前の惨劇の記憶が、胃の腑を冷たく締め付けているのだろう。
この場で陽気にジョッキを傾けているのは、一人だけだった。
「どうするって。そりゃ運転して帰るだろ」
「……」
あれだけ煽るようにビールを煽っておいて、本気で言っているのか。俺が呆れ果てた視線を向けると、久城がおそるおそる、消え入りそうな声で口を開いた。
「……あの、俺が運転します」
「お! そうか? 助かるわー、じゃあ任せた!」
淳は何の疑念も抱かず、満足そうに喉を鳴らして酒を飲み続ける。俺は深く、隠すように小さくため息をついた。
普通に考えれば、酔っ払いの隣に黙って乗せられる方がよほど恐怖だ。久城が自らハンドルを握ると申し出たのも、至極当然の生存本能と言えた。
しばらく下品な音を立てて酒を飲んでいた淳だったが、ふいにカタンとグラスをテーブルに置いた。
その瞬間、彼の空気がガラリと変わる。
さっきまでの浮ついた陽気さが潮が引くように消え去り、サングラスの奥の鋭い視線が俺を射抜いた。
「で? 今の状況は」
個室の中の温度が、一気に数度下がったような錯覚を覚える。
俺もゆっくりと湯呑みを置いた。ここからが本題だ。話した内容を、明日には酒と一緒に綺麗さっぱり忘れている――なんてことにならなければいいが。
「一人、やられました。俺たちは今、完全に目をつけられています」
「久城さんも死んだことになっているので、道中で追われる可能性は低いと思いますが……」
淳が顎をしゃくり、冷ややかな声を落とす。
「それも、逃がした奴が『ちゃんと久城は死んだ』って上に報告してたら、の話だろ」
「……」
そうだ。あの男が本当のことを吐いていれば、この前提は崩れる。だからこそ、久城をあの町から一刻も早く引き剥がす必要があった。
「正直、あの口を全面的に信用していません」
俺は湯呑みを持ち上げ、冷めかけたお茶に口をつける。
「ただ、あの男はどう見てもただのクズです。自分が殺されるかもしれないと脅えていた以上、あの場でわざわざ虚勢を張って嘘をつくメリットもないでしょう」
俺たちのやり取りを、久城は目を白黒させながら交互に見ていた。やがて、小さく口を開く。
「あの人……言わないと思います」
「どうしてですか?」
「ほんの少ししか、一緒にいませんでしたけど……」
久城は言葉を選ぶように、一度深く俯いた。
「……自分のことしか、考えていない人に見えました。自分が助かるためなら、平気で仲間のことも売るような……そういう人です」
久城の言葉に、俺は無言で頷いた。ならば――少なくとも現時点では、急追を心配する必要はない。
まあ、今度海馬のツラを拝む時に、全てはっきりすることだ。
「淳こそ、ちゃんと久城さんを匿う準備はできてるんだろうな?」
淳は残りのビールを一気に飲み干し、プハッと息を吐いた。
「お前なぁ、さっき電話で言われてすぐ完璧にこなせると思ってんのか?」
「思ってますよ」
俺は冷えたお通しの小鉢に箸を伸ばし、淡々と咀嚼しながら答える。淳はちっと派手に舌打ちをした。
「……出来てるよ。少し古臭いアパートだが、表の連中の目が届くような場所じゃねぇ」
「なら、問題ないですね」
会話のテンポについていけない久城が、ぽつりと呟いた。
「……お二人、すごく息が合ってるんすね」
「そりゃ、もう長いつきあいだからな」
淳も俺の考えることの八割方は察している。言葉を最後まで尽くさずとも、互いの腹の探り合いは済んでいるのだ。
「そう思うか?」
淳がニヤリと口角を上げ、久城を覗き込む。
「お前も、俺たちの仲間に入るか?」
俺は即座に割り込み、淳を鋭く睨みつけた。
「やめてください」
コンマ一秒の躊躇もなく拒絶を叩きつける。
「久城さんは、日陰ではなく日向で生きる人間です。それに……この世界には向いていません」
久城は何も言わず、ただ固まっていた。
「優しすぎますから」
久城は必死に平気な顔を作ろうとしている。だが、誤魔化せてはいない。
いつものハキハキとした元気はなく、肌の血色は最悪だ。膝の上に置かれた拳が、時折ピクりと小さく痙攣している。本人は必死に隠しているつもりなのだろう。
目の前で上司である今野を惨殺され、自分自身も死の淵を覗き込んだのだ。その脳裏にはまだ、鮮血と恐怖の光景が焼き付いて離れないはずだ。
淳はそんな久城の震えを、冷徹かつ興味深そうに見つめていた。そして、不敵に口元を歪める。
「そういう奴ほど……俺は、案外最後まで生き残ると思うがね」
「……」
久城が弾かれたように顔を上げた。淳はその反応を楽しむように、ニヤニヤと視線を絡ませている。
「私が留守にするからといって、変なことを吹き込まないでくださいよ」
自分でも驚くほど、俺は「久城」というパーツを気に入っているらしい。だからこそ、この手垢のついた男に余計な毒を注入されるのは極めて不快だった。
俺は椅子をわずかに旋回させ、久城と正面から向き合った。
「久城さん。何があっても、この男の甘い話には乗らないでください」
そして、横の淳を鋭く射殺すような目で見据える。
「こいつは、人間の心の隙間を見つけると、躊躇なくつけ込んでくるハイエナのような男ですから」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
淳が大声で笑う。
念のために言っておくと、淳は俺たちのような泥棒や小悪党とは種族が違う。自ら手を汚すのではなく、情報を売って立ち回る情報屋だ。ただ、昔いくつかデカい件で組んで以来、裏の処理や根回しで何度も世話になっている。
悪人ではない。……単に、性格が反吐が出るほど悪いだけだ。
「……分かりました」
久城は素直に首を縦に振った。
だが――そのあまりにもあっさりとした素直さが、逆に俺の心に小さな引っかかりを残す。
久城は良くも悪くも、他人の言葉に流されやすい。今日だって、俺の差し出した言葉をそのまま信じて、こうして身一つでついてきたのだ。
もし、俺の目の届かない東京で、巧みな言葉で誘導されたら。
「……」
余計な懸念か。
俺たちはその後、事件の核心には触れず、他愛もないくだらない雑談で時間を潰してから居酒屋を後にした。
夜の冷気の中、少し先を歩く久城の小さくなった背中を見つめながら、俺は静かに息を吐き出す。
今は、これでいい。
そう自分に言い聞かせるようにして、俺は闇の混じる街へと足を踏み出した。




