選択肢の先
男は観念したのか、湿った土の上でダラリと力を抜いた。膝から崩れ落ち、荒い息をつく。
「……知りたいか?」
風が木々を揺らす音だけが漂う山の中に、俺の声だけが低く響く。
「お前が……言ったことだろ」
男は地面を睨みつけたまま、力なく答えた。
俺はナイフの刃先を突きつけたまま、ゆっくりと身体を引く。男は惨めそうに起き上がると、全身についた湿った土やカサついた落ち葉を手払った。戦意を失っているようには見える。
――それでも、目は離さない。
少しでも怪しい動きをみせれば、即座に頚動脈へ刃を滑らせられる距離を保ち続ける。
「一つ。今すぐ海馬の目の届かないところまで、自分の車で逃げろ」
男の顔が歪んだ。納得がいかないのか、血の引いた唇を震わせ、声を荒げる。
「ふざけるな! 仕事だって、家族だっているんだぞ! はいそうですかって、捨てられるわけないだろ!」
……これだから、考えることをやめた奴は嫌いだ。
仕事。家族。
こんな状況に陥ってまで、ぬくぬくと守られてきた日常の記号を口にする。
「まだ一つある」
俺の声にも、自然と冷たい刃のような鋭さが混じる。
「久城を殺したことにしろ。追い詰めた先で海に落ちたとでも言えばいい」
「それでも……言い訳が通じなかったらどうするんだよ!」
「そんなもの、適当な嘘で誤魔化せ」
男は固まったように黙り込んだ。
一人じゃ何も決められない。誰かに命令されなければ、自分の身の振り方すら選べないのだ。
「それは自分で考えろ」
俺は感情を排して淡々と言い切った。
「どちらも、お前が生き残るための提案だ。その後の人生まで保証するつもりはない」
男は深く俯いた。言葉を失い、喉をヒックと鳴らす。
「……」
「お前の後ろについている奴を信じて、正直に話すのもありだろ」
それを選べば、俺たち三人全員の命が危うくなる。
……それでも、俺だけなら逃げ切れる自信があった。そのための工作は、すでにいくつか仕込んである。
あとは、この男がどちらの地獄を選ぶかだ。
俺は、さっきから不安そうに濡れた瞳を向け続けている久城へ、視線だけを投げかける。
「久城さんは、何も心配しなくていいです。久城さんが死ぬとか、これ以上怖い目に遭うなんて……絶対にありませんから」
そう口にした瞬間、自分でも心の底から呆れた。
――いつから俺は、こんなお人好しになったんだ。
「え……それって、どういうことっすか……?」
「後で話します。今は、あの男の返事次第です」
俺は男へ意識を戻す。
男は靴底でつま先を何度も地面に打ちつけ、爪を噛んでいた。爪が肉に食い込むのも構わず、ガチガチと音を立てている。痛々しいほどの動揺。
その醜態を見ていると、こいつが海馬にとってどんな存在なのか、嫌でも理解できてしまう。
――ただの、使い捨ての駒だ。
「まだか?」
「……」
「まさか、ここでまた泥沼の殺し合いに戻るつもりですか?」
俺は一歩、男との距離を詰める。威圧感を込めてナイフの握りを確かめた。
「そうなったら困りますよね」
刃を起こし、鈍い光を反射させる。
「何も持ってないお前と、人数もいてナイフもある俺たち。どっちが生き残るかなんて、考えるまでもないでしょう」
男は頷かなかった。ただ、額からボタボタと冷や汗を滴らせ、視線だけを忙しなく泳がせている。さっきまで貼り付けていた薄浅い余裕は、もう微塵も残っていなかった。
「分かった……お前の意見に協力する。久城を……久城を殺したことにしてくれ」
男が家族というしがらみを捨てられないことは、最初から分かっていた。だからこそ、揺さぶりとして最初にあの提案を挟んだのだ。
――俺自身、最初から死亡を偽装するつもりで動いていた。
「分かった。現場の工作は俺がやっておく。お前はそのまま、久城を殺したと報告しろ」
俺は男の目を射抜くように見据える。
「今野さんの遺体があれば奴らも信じるだろ。『今野が裏切って久城を殺した』。そう報告すればいい」
男はもう何も言わなかった。ただ一度だけ、怯えたような目で俺たちを振り返る。そして、縋るものを失った獣のように、なりふり構わず山道を走り去っていった。枝をなぎ倒す音が遠ざかっていく。
俺はいつもの平然とした調子を作り直し、久城へと向き直った。
「久城さん。ここから近いところに、海が見える崖があるのを知ってますか?」
久城の表情から、ギリギリで繋ぎ止められていた張り詰めた糸が、少しずつ解けていくのが見えた。
次の瞬間だった。
「……宮野さん……今野さんが……っ」
かすれた絞り出すような声が、静まり返った山にぽつりと落ちた。
久城の目には溢れんばかりの涙が溜まっている。汚れ、ボロボロになった服の袖で、乱暴に目元を何度も拭った。
「知ってます。ここへ来る途中で見つけました」
こんな場所に長居するのは危険だ。頭では分かっている。
それでも、目の前の久城はもう、自力で立っていることすら限界に見えた。
「俺の、せいなんす……っ」
激しく肩が揺れる。
「今野さん……俺を、助けてくれるって言って……っ」
言葉の途中で完全に声が詰まった。堪え続けていた恐怖と罪悪感が、堰を切ったように溢れ出したようだった。
俺は何も言わず、久城の頭にそっと手を乗せた。そして、自分でも驚くほど優しく、泥のついた髪を撫でた。
このままじゃダメだ。
本当なら、海へ続く崖まで走って向かわせたかった。けれど、今の精神状態の久城にそれを強いるのは残酷すぎる。
それに――プロの追手が来れば、足跡の深さや歩幅を見ただけで「走った」のか「歩いた」のかくらい即座に見抜かれる。今のガタガタな状態で走らせれば、不自然な痕跡が残るだけだ。
「久城さん、もう少し我慢してください」
俺はしゃがみ込み、久城の顔を覗き込む。
「今は、とにかく早くここから離れないといけないんです」
久城は何度も袖で顔を擦り、目頭を赤く腫れ上がらせていた。袖口はすでに涙と汗でぐしょりと濡れている。
「あ、分かってます……っ。崖、っすよね」
振り絞るような小さな声。久城は鉛のように重い足を、どうにか前へと踏み出した。
俺は無言のまま、その頼りない背中を追う。
やがて、樹木の切れ目から荒々しい波音が聞こえ始め、海へ切り立った崖が見えてきた。
ここで二人が激しく争ったように見せる。
足跡を乱雑に交差させ、茂みの枝を折り、地面の土を荒らし掘り返す。
最後に久城に頼み、指先をナイフで軽く傷つけてもらった。ポタリと地面へ血の滴を落とす。
これで――ここで久城が追い詰められ、争いの末に殺されて海へ投げ捨てられたように見えるはずだ。
「……もう、いいです」
俺が声をかけると、久城は力なく小さく頷いた。
帰りは、俺が久城を背負う。
二人で歩いて戻れば、地面には当然「帰り道の二人分の足跡」が残ってしまう。それじゃせっかくの偽装が台無しだ。
行きは二人分。帰りは一人分でなければならない。
久城の足が絶対に地面につかないよう、ぐっと背中で背負い直し、俺は来た道を慎重に戻り始めた。残っている「行き」の足跡の上を踏みつけ、自分の足で二人の痕跡をできる限り消し込んでいく。
背中の久城は、もう何も言わなかった。
ただ、俺の首元に顔をうずめ、小さく、愛おしいほど弱々しく息を震わせていた。
その重みと温もりを感じながら、俺たちは黙々と車へと戻っていった。




