逃げ道
薄暗くなりかけた山に、湿り気を帯びた温い風が吹き抜ける。
暑さと緊張が混ざり合った嫌な汗が顎をつたい、足元の土へポタリと落ちた。
これから、ナイフを持った男を取り押さえる。
改めて自嘲する。こちらには拘束具の類など何一つない。
仮にナイフを奪って車で逃げたところで――口封じという意味でも、この男をここで殺してしまうのが一番確実なのだ。
スリル自体は嫌いじゃない。だが……生憎と、誰かを殺すことに快感を覚えるような異常者の趣味は持ち合わせていないはずだった。
本音を言えば、説得で引き下がらせるか、海馬の手が届かないところまで逃げ出してくれれば一番ありがたい。
――だが、あの男の目を見る限り、甘い期待は捨てた方が良さそうだった。
上手く拘束して放置できたとしても、野垂れ死にされたら後味が悪い。
逆に俺が海馬の立場なら、失敗した奴は殺すか売る。こうした危険な裏稼業において、口封じは鉄則中の鉄則だ。
俺が思考の海に沈んでいる間にも、ナイフを握りしめた男は、今にも久城へ飛びかからんとする勢いで間合いを詰めていた。
俺は背高い茂みからそっと手を出し、男の死角から久城だけに自分の存在を知らせる。
久城が気づいた。
……途端に、その間抜けな顔がぱあっと明るくなる。
――あのバカ! 勘づかれるだろ!
案の定、男も久城の急激な表情の変化を見逃さなかった。
「あ? この状況で何がおかしい。恐怖で頭でも狂ったか?
」
「い、いや……怖いっすよ……?」
相変わらず、誤魔化すのが下手くそすぎる。
俺は男から見えない角度のまま、久城へ素早く手振りの指示をする。
「おい、後ろに何かいるのか?」
男が不審そうに振り向きかけ、久城が慌てたように声を荒げた。
「ちがう! どうやって逃げるか考えてただけだ!」
男の気味の悪い高笑いが、鬱蒼とした山に不気味に響き渡った。
「ハハハ! 追い詰められて『どう逃げるか考えてる』なんて正直に言う奴、初めて見たぞ!」
腹を抱えるような、見下した笑い方。
確かに、逃走経路を思案している最中にそれを口にする奴なんていない。
……どんだけ気を張ってるんだ、久城の奴。
いや。それだけ余裕がないってことか。
男が油断して笑いこけているこの一瞬。俺は茂みの底から、手のひらに収まる手頃な石を硬く握りしめた。
深く息を吸い込み、茂みを蹴って飛び出す。
本当ならナイフを持つ手首を正確に狙うべきだ。だが、俺にそんな神業のような投擲技術はない。
なら――狙うべきは、一番デカくて硬い場所。頭だ。
腕を振り抜き、男の頭部目掛けて石を全力で投げつける。
「久城! ナイフを奪え!」
叫んだ瞬間。
ガッ!
鈍い打撃音が響き、石が男の側頭部を捉えた。
「ぐっ……!?」
男は苦悶に顔を歪め、頭を押さえてその場にドサリと跪く。
久城が一瞬怯んだように目を見開いたが、すぐに野生的な勘を取り戻して飛びかかった。
ナイフを握る男の手首へ、体重をのせた拳を容赦なく叩きつける。
「っあ!」
激痛に男の指が弾けるように開き、刃物がカランと甲高い音を立てて地面を転がった。
久城がすぐさまそれを拾い上げる。
その隙を逃さず、俺は男の背後へ回り込んだ。
頭髪を鷲掴みにして地面へ叩きつけ、そのまま自重をかけて背中に乗り直す。
「ぐあっ!」
腕の中で、男が生き魚のように必死で暴れ始める。俺はその腕を背中に回し、関節が悲鳴をあげる角度まで容赦なく引き上げた。
「あまり騒ぐな。……骨、折るぞ」
耳元で低く囁くと、男の動きがピタリと止まった。
身体が硬直している。力で勝てないと悟ったのか、それとも痛みの脅迫に身体が拒絶反応を起こしたのか。
どちらにせよ、関係ない。
「人を刺すのは得意な癖に、自分が痛い目に遭うのは慣れてないのか?」
久城が目と鼻の先にいることなど頭から吹き飛び、自分の中に潜む冷酷な『素』が溢れ出す。
男は泥にまみれた顔を必死に動かし、接地した頬を横へずらした。顔面に湿った土と腐葉土がねっとりと張り付いている。
「お前……誰だ……っ」
声を震わせながらも、虚勢を張ろうとする男。
「聞かれて素直に答えるバカがどこにいる」
ここで舐められたら終わりだ。いつまでも自分が優位に立っていると錯覚している愚か者を、とことん引きずり下ろしてやる。
「お前……俺に逆らったら、どうなるか分かってんのか!?」
男が精一杯の声を張り上げて怒鳴る。背後に『海馬』という支配者がいるからこそ、未だにそんな強がりが言えるのだ。
「分かってないのは、お前の方だろ」
俺はさらに力を込め、男の腕を限界まで絞り上げる。ギシ、と嫌な骨の鳴る感覚が手元に伝わった。
「この『襲撃を失敗した』という事実が、何を意味するか……」
男の瞳が恐怖で鋭く揺れた。
「……何が言いたい」
俺は鼻で笑った。
地面に這いつくばる男を、まるで道端の虫ケラでも見るような目で見下ろす。
「本当に、考える脳みそすら残ってないんだな」
自然と口元が吊り上がるのが分かった。
自分の言葉一つ、力加減一つで、目の前の人間が極限まで追い詰められていく。
――楽しくて、たまらない。
もっとだ。もっとこいつを絶望の淵まで追い詰めてやりたい。
「使えない駒の行き先なんて――地獄以外にねえだろ」
身体の底からゾクゾクとした熱が湧き上がり、腕にさらに強い力を込める。完全に支配している感覚。
俺は視線を男から切らないまま、低く命じた。
「久城。……ナイフを貸せ」
返事がない。久城の動きが完全に止まっていた。
しびれを切らし、久城の方へ視線を移す。
……なんだよ、その目は。
久城は、俺を怖がっているわけではなかった。
ただ、痛々しいものを見るような、悲しそうに俺を心配する目をしていた。
ふと視線を落とすと、久城が持つナイフの刃に夕日が反射していた。
そこに映っていたのは――見たこともないほど、狂気に歪んだ自分の顔だった。
「…………はぁ」
深く、長く、溜め息を吐き出す。
引き剥がすように狂気を振り払い、呼吸を整えた。
「……何もしません。だから、貸してください」
努めて冷静な、いつものトーンで敬語に戻す。
……何を一人で興奮しているんだ、俺は。こんな土壇場で。
俺は何をやっている。……目的を見失っている場合じゃないだろう。
久城は真剣な眼差しを崩さないままゆっくりと近づき、恐る恐るナイフの柄を差し出してきた。
「……本当、何もしないんすね?」
「大丈夫です」
久城の手の温もりが残る柄を、ゆっくりと握り取る。
久城の手が離れ、俺はナイフを順手に握り直した。
だが――正気に戻ったからといって、この男相手に優しく接してやるつもりは微塵もない。
舐められたらその時点でこちらの負けだ。それはさっきと何も変わらない。
ただ……惨めな男をいたぶって楽しむ趣味は、もうおしまいだ。
俺は分かりやすい言葉と行動で『警告』を与えることにした。
男の耳元、髪の毛かすれすれの地面へ、容赦なくナイフを突き立てる。
ザクッ――!
濡れた土を刃が切り裂く鈍い音が、男の耳孔を叩いた。
「っひあぁっ!?」
情けない悲鳴が漏れる。俺は冷ややかに口元を歪めた。
「……やっぱり、死ぬのは怖いんだな」
無残に変果てた、今野さんの冷たい死体が脳裏をよぎる。
「今野さんのことは、随分楽しそうに切り刻んでいたみたいですが」
男の顔から、ついに一切の余裕が消え去った。自分の置かれた悲惨な現実を、ようやく正しく理解した顔だ。
逃げ場を無くすように、俺はさらに言葉のナイフを突き立てる。
「知ってるか?」
地面からナイフをゆっくりと引き抜く。
「お前の後ろにいる奴らは、お前をハエか何かと同等にしか思ってない」
男の黒目が、不安で大きく揺れた。
「このままそいつらの元へ戻ったところで……待っているのは処理(処分)だけだ」
さっきまでの興奮を捨て、淡々と、しかし確実に事実を言い聞かせる。
「俺たちを殺して証拠を消さない限り、お前に明日は来ない。だが……」
俺はナイフの刃先を微かに傾け、男の鼻先に軽く触れさせた。
ひやりとした金属の冷たさ。ほんの数ミリ動かせば、肉が切れて血が吹き出す距離。
男の呼吸が完璧に止まった。
「俺を力でねじ伏せられない以上、お前にその仕事は完遂できない」
男の瞳の奥をじっと見つめ、静かに宣告する。
「……生き残る方法は、いくつかある」
暗闇の中で、男に『絶望』の中の『わずかな救い』をちらつかせる。
男は酸素を求めて喘ぐように、苦し紛れに唇を震わせた。
「それは……っ……」
「内容を聞きたいなら、二度と俺たちに手を出すな」
見せつけるようにナイフの角度を変える。
「次はないぞ。次に手を滑らせたら……刃先は頭蓋骨に刺さる」
男はしばらく、息を殺したまま硬直していた。
やがて――自分の命の秤がどちらに傾いているかを悟り、静かに、深く首を縦に振った。




