慣れた行動
クソ……。
海馬に捕まって、思った以上に時間を取られた。
気づけば、空は赤黒い夕日に染まり始めている。
スマホのGPSは途中で反応を失った。
……遅れた。
俺は最後に位置を示した場所まで車を飛ばし、荒れた山道の脇へ強引に停める。
「……だいぶ上まで来たな」
エンジンを切り、外へ足を踏み入れる。
茂みが擦れる乾いた音。
どこかで鳴く鳥の声。
風に揺れる木々のざわめき。
普段なら気にも留めない雑音が、今は耳の奥へ妙に鮮明に飛び込んでくる。
この感覚。
嫌いじゃない。
追う側と、追われる側。
残された僅かな痕跡。
一歩間違えれば、次に消えるのは自分かもしれない。
そんな状況になると、頭の中が驚くほど静かに研ぎ澄まされていく。
余計な感情が削ぎ落とされ、生き残るために必要なものだけが残る。
俺は足元へ視線を落とした。
泥棒は、痕跡を残さない。
だからこそ、人間が残した小さなミスは見逃さない。
踏み潰された草。
靴底に削れて崩れた土。
不自然に折れた枝。
誰かがここを走り抜けた確かな証拠だ。
少し先に、小型のGPSが落ちていた。
拾い上げる。
焦って落としたのか。それとも、わざと残したのか。
どちらにせよ、ここで何かが起きた。
俺はしゃがみ込み、地面を舐めるように見る。
荒れた土。乱れた足跡。
そして、黒く凝固し始めた跡。
「……血か」
指先で触れる。まだ完全に乾いてはいない。
時間は残されている。
視線を動かす。
足跡は三人分。
一つは深く土を抉り、重くなっている。
もう二つは、その左右を追い詰めるように並んでいた。
追う側が二人。逃げる側が一人。
簡単な構図だ。
……なら、この血は久城か。
普通なら焦る場面だろう。
だが、俺の中で膨れ上がったのは恐怖じゃなかった。
もっと厄介で、酷く質の悪い感情だ。
心臓が少しだけ速く打つ。
視界がぎゅっと狭まり、周囲の音が遠のく。
久しぶりだ、この感覚。
危険が首筋に触れた時だけ味わえる、極限の集中。
俺は口元をわずかに歪めた。
やっぱり俺は――こういう状況から逃げられないらしい。
俺は血痕を追い、足を進めた。
最悪の結末をいくつも頭の中で弾き出しながら、影の濃くなる森の奥へ向かう。
ポケットの中のスマホが、突然けたたましく鳴り響いた。
こんな時に誰だ。
画面を表示させる。名前を確認した瞬間、口元が緩んだ。
……いいタイミングだ。
最悪の状況ほど、使える駒は多い方がいい。
俺は迷わず通話ボタンをスライドした。
「何してる? 近くまで来たのに、お前いないじゃねぇか」
「悪い。今、少し立て込んでる」
周囲の気配を探りながら、俺は続ける。
「ちょうど頼みたいこともある」
「頼み? 嫌な予感しかしねぇな。……面倒ごとか?」
思わず笑みがこぼれる。
「面倒ごとだ」
少し間を置いて、俺は言った。
「ある男を、お前の家で匿ってもらいたい」
スマホの向こうで、途端に声が荒くなる。
「はぁ!? どういうことだよ!」
普通なら、ここで断る。関わりたくないと言って切る。
だが、こいつは違う。
俺と同じだ。危険な場所に近づくなと言われれば、逆に首を突っ込みたくなるタチだ。
「お前も好きだろ? こういう面倒ごと」
沈黙。
数秒の静寂の後、舌打ちが聞こえた。
「……チッ」
拒否の言葉はない。
俺は小さく息を吐く。やっぱりな。
平穏ほど退屈なものはない。
危険が迫った瞬間、頭の奥が妙に冴え渡る。
心臓が跳ね、判断が鋭利になる。
これだからやめられない。
「分かったよ」
電話の向こうから声が返ってくる。俺は笑った。
さて……ここからが本番だ。
「隣町で待っててくれ」
確信なんて欠片もない。それでも俺は言い切った。
「その代わり、今度は俺の依頼も請け負えよ」
愉快そうな笑い声が漏れる。
返事も別れの挨拶もないまま、通話はぷつりと切れた。
……相変わらず勝手な奴だ。
スマホをズボンへしまい、地面に残る足跡へ意識を戻す。
妙だ。
悲鳴も、争う音も聞こえてこない。
まさか、本当に手遅れなのか。
木々の隙間、その先に暗い「塊」が見えた。
人か?
俺は低姿勢のまま一気に駆け寄る。
近づくにつれ、その正体がはっきりとしていく。
「……今野か」
肩を掴み、仰向けに転がす。
苦痛に歪んだまま硬直した表情。
腹から溢れた血が土を黒く濡らし、顔や腕には死に物狂いで藪を掻き分けた無数の擦り傷が走っていた。
呼吸はない。脈も止まっている。
久城がやったのか?
……いや。あいつに人を殺せるほどの度胸も胆力もあるはずがない。
なら、誰が。
俺は死体を見下ろしたまま、表情だけは氷のように冷たく保つ。
だが胸の奥では、心臓がゆっくりと嫌な熱を帯び始めていた。
予想を裏切る展開。
整えていた計画が壊れ、俺の知らない誰かが先に駒を動かした。
その事実が、たまらなく俺を昂らせる。
唇の端が上がりそうになるのを、前歯で強く噛み殺した。
俺は今野をその場に残し、先へ進んだ。
死体を隠すことも、警察へ通報することも考えない。
どうせ海馬の犬どもが揉み消す。それくらい、この町の腐りきった現実は嫌というほど知っている。
さらに深く、森の暗がりへ足を踏み入れる。
今野が倒れていた場所の先は、まるで死地へ続く一本道のようだった。
辺りには生々しい争いの痕が残っている。
靴底で抉られた土。点々と飛び散る血。木の幹に刻まれた新しい擦り傷。
……久城、どこだ。
考えるな。
最悪の結末を頭の中で並べたところで、状況は一歩も変わらない。
俺は足音を殺し、速度を上げた。
探すのは久城だけじゃない。
今野を殺した何者かも、このすぐ近くにいるはずだ。
耳を澄ませろ。
痕跡を拾え。
泥棒らしく闇に溶け、獲物の気配を逃すな。
「……どぅ……くる……っ」
風に混じり、かすかな声が届く。
「……しん……かん……っ!」
生きている。
俺は反射的に地面を強く蹴り、声のする方へ滑るように駆け出した。
──視界が開ける。
声がはっきり聞こえる位置で足を止めた。
手前の太い幹の影に身を潜め、呼吸をゆっくり落とす。
森の一部になるように、完全に気配を消す。
「今野さんは!? その血は……!」
久城の声だった。恐怖で引きちぎれそうなほど震えている。
顔色は真っ青で、両目は赤く腫れ上がっていた。泣いたのか。
「さっきから何度も言ってるだろ。俺が殺した」
久城と対峙する男。
久城より頭一つ小さい。だが、纏う空気が明らかに異質だ。
手にしたナイフは微動だにせず、刃先だけが真っすぐ久城の喉元を捉えている。
腕も震えない。呼吸も乱れていない。
……慣れてるな。
「人を刺す」という行為に対して、心理的な摩擦が一切存在しない奴の顔だ。
俺は眼球だけを動かし、周囲の地形をスキャンする。
久城の背後には、人の腰ほどある角ばった岩。
男の斜め左には太いナラの大木。
足元には、地面から浮き出た凶器のような太い根。
使える。
あと一つ、隙さえ作れれば——。
「仲良かったんじゃないんすか! さっきまであんなに楽しそうだったのに……!」
男は不快そうに口元を歪めた。
「いくら仲が良くても、あの方を裏切ることはできない」
……海馬のことだ。
この町を病気のように蝕む、絶対的な支配者。
「あんた、おかしいっすよ。同じ人間なのに、人を殺して何とも思わないなんて……」
男は手にしたナイフへ視線を落とし、愛おしそうに軽く上下に振った。
「最初は怖かったさ。でも、やらなきゃやられる。そういう奴を俺は何人も見送ってきた」
そう言って、男が一歩踏み出す。
……動いた。
クソ。
正面から飛び込めば間合いの餌食だ。
だが、二人で同時にかかれば押さえ込める。
俺は音を完全に殺したまま、男の死角へ回り込んだ。
久城の視界に入り、タイミングを合わせるためだ。
問題は一つ。
あいつに俺の意図が伝わるか。
いや──。
久城は驚くほど、察しが悪い。




