混ざる事実と嘘
俺は気がつくと、車の後部座席に座っていた。
フロントガラスの向こうには、照りつける昼過ぎの日差しの中、買い物客や車が行き交う見慣れた街並みが広がっている。助手席の今野さんと運転席の中原さんは、時折世間話を交わしては笑い合っていた。
なのに、車内の空気だけが妙に冷たい。
冷房の風ではない。じっとりと肌にまとわりつくような、呼吸すら浅くなる嫌な冷たさだった。
「それで、久城さんは何をやらかしたんですか?」
突然、バックミラー越しに投げかけられた声に思わず顔を上げる。
何をやらかした……?
脈絡のない問いだった。
さっきまで人当たりのいい笑みを浮かべていた中原さんの顔から、表情が削ぎ落とされていた。そこにいたのは、捕食者が獲物を見下ろすような、冷え切った目。平和な街の風景が窓の外を流れていくからこそ、その瞳の奥にある暗闇が恐ろしいほど際立って見えた。哀れな存在を観察し、その恐怖の反応を楽しんでいるような目だった。
「な、何のことですか……」
胸が破裂しそうなほど激しく脈打つ。ドクドクと鼓動が耳の奥で鳴り響き、肺が酸素を拒絶するように息が浅くなる。
「いやいや、しらばっくれるのは良くないですよ」
俺が言葉を失っていると、今野さんが二人の間に割って入った。
「中原さん。久城で遊ばないでください。こうなった理由を知っているじゃないですか」
中原さんは喉の奥で、くつくつと濁った声を漏らして笑う。
「悪い悪い。反応が面白くてな」
「かわいそうでしょう。これからどうなるかも分からないのに、脅かすなんて」
今野さんは俺をかばっているのか。
それとも、残酷な結末までの恐怖を長引かせて楽しんでいるだけなのか。
横顔からは何一つ読み取れない。それでも俺は、溺れる者が藁をも掴むように、今野さんの言葉に縋りたくなっていた。
そんな俺の胸中を見透かしたように、中原さんが鼻で笑う。
「海馬さんに逆らうからいけないんだよ」
一拍置き、唾を吐き捨てるように言った。
「死ぬなんて、自業自得だ」
声が出なかった。
その一言で、全身の血の気が一気に引き、指先から感覚が消えていく。身体が硬直し、呼吸の仕方すら忘れる。
「車に乗っているからって、そういう話をペラペラするのはやめてください」
今野さんの口調が一段と鋭くなった。
だが中原さんは意に介さず、アクセルを深く踏み込んだ。
ブォンと重いエンジン音が響き、車体がぐっと前へ押し出される。車は街の喧騒を置き去りにし、加速していく。スピードが上がるたび、俺の寿命が刻一刻と削られていくような感覚に苛まれた。
「一人とはいえ若いからな。俺たちより力はある。ここで暴れられたら、こっちまで巻き添えだ」
中原さんは再びバックミラーで俺を見る。その目は、怯えきった俺の観察を続けていた。
「無理だろ。こいつは恐怖で声も出せない。そんな度胸があるなら、とっくに抵抗してるさ」
否定できなかった。
俺には、この二人に立ち向かう勇気も力もない。
「俺……殺されるようなこと、してませんよ」
乾ききった喉から、血の混じりそうな声でようやく言葉を絞り出す。
中原さんは冷ややかに肩をすくめた。
「だったら、俺たちにこんな指示は来ない。それに、お前と仲良くしてた奴も……今ごろ――」
脳裏に、宮野さんの顔が鮮明によぎった。
胸の奥で、嫌な想像が黒い煙のように膨れ上がる。
「殺された……って言いたいんすか?」
精一杯の虚勢だった。だが、震える声を隠すことはできなかった。
その瞬間――。
「それは違う!」
助手席の今野さんが、車内に響き渡る大声を荒らげた。
「今、宮野さんは海馬さんにとって魅力的な提案をしている。だから絶対に手は出されない」
俺は目を見開いて今野さんを見た。
眉をひそめ、本気で怒りを出している。その真迫の表情に、俺の胸は一瞬だけ安堵で揺れた。
やっぱり、この人は俺の味方なんじゃないか――。
『でも……ダメだ』
俺はハッと息をのんだ。今野さんの怒りが本物だとしても、ここでそれを見せてしまえば中原さんに疑われる。
俺はゆっくりと中原さんへ視線を移した。案の定、バックミラーの中の中原さんは眉間に深い皺を刻み、助手席を鋭く睨みつけていた。
疑っている。
考えるより先に、言葉が出た。
「今野さん……やっぱり、騙してたんすね」
車内の空気が一瞬で凍りつく。今野さんが振り返り、目を見開く。俺は必死に感情を押し殺し、言葉を続けた。
「俺を完全に油断させるために、ずっと味方のふりをしてたんすか」
中原さんの表情が変わった。
険しかった眉間が緩み、顔全体に醜い歪んだ笑みが広がっていく。
「……ははっ、今野さんもずいぶん意地が悪いですね」
心底楽しそうな声だった。
「久城を揶揄って、期待させてから突き落とす反応を見て楽しんでるんですか?」
車の中には、幾重もの本当と嘘がドロドロに混ざり合っていた。
誰が味方で、誰が敵なのか。
俺を助けようとしてくれているのか、ただの残酷な演技なのか。
自分自身の思考すら信じられなくなる。
「……もう少しで着く」
中原さんが前を見据えたまま呟いた。
「たっぷり遊んでやるからな」
背筋に氷を突きつけられたような悪寒が走る。俺はその歪んだ笑顔から必死に目を逸らした。
気づけば窓の外から建物の姿が消え、生い茂る木々が青々と太陽を遮る一本道へと変わっていた。街灯もなく、人の気配など微塵もない。真昼であるはずなのに、ただ深い山の中へと吸い込まれていく感覚が恐ろしかった。
ここで何人の人間が……消されてきたのだろうか。
俺は姿勢を正した。
その時、上着のポケットの中で小さな金属の感触に指が触れた。
宮野さんが密かに渡してくれたGPS発信機だ。
手袋の中で、震える指先がそれを固く握りしめる。
「もう少しだ」
中原さんの声が重く響いた。
その瞬間、迷いは消えた。手が勝手に動く。
頼む。届いてくれ。
誰でもいい、俺を見つけてくれ……!
祈るような思いで、俺はポケットの中でGPSのボタンを強く押し込んだ。
それからの車内は無言だった。聞こえるのは激しいエンジン音と、未舗装の土を踏み鳴らすタイヤの音だけ。
気づけば、車は木漏れ日が不気味に揺れる山頂近くの空き地に滑り込んでいた。
プツン、とエンジンが切れる。
中原さんが真っ先に車を降りた。
ガチャリ、と後部座席のドアが開く。
次の瞬間――日の光を受けてギラリと光るナイフの刃先が、目の前に突きつけられた。
「早く降りろ」
手足ががくがくと震える。だが俺は、乾いた歪むような笑みを浮かべて見せた。
「……」
中原さんの手元が、わずかに揺れる。俺の不気味な反応が気に触れたのか、刃先が小刻みに震えだす。
「何が面白い」
低い声。
俺はナイフの先ではなく、その後ろで青ざめた顔で立つ今野さんを見つめた。
太陽の下だからこそ、その顔色の悪さがはっきりと分かる。演技とは思えないほど、本当に俺を心配しているように見える。
「いや……」
喉がカラカラに乾いていた。それでも無理やり声を張る。
「殺すって大口叩いてた割には……拳銃すら持ってないんだなと思って」
精一杯の煽りだった。ナイフを向けられて怖くないわけがない。心臓は狂ったように跳ねている。
「こういうのって……映画とかドラマだと、もっとスマートに銃を使うじゃないですか」
中原さんの表情が激怒で歪んだ。ナイフを握る拳に青筋が浮かぶ。
「これは現実だ……!」
その瞬間、割って入った今野さんが中原さんの肩を強く掴んだ。
「落ち着いてください!」
強引に中原さんを下がらせる。
「ただ強がって煽ってるだけです。こいつに逆らう度胸なんてあるわけないでしょう」
今野さんは冷酷な目で俺を射抜いた。
「俺がやりますから、中原さんは車で待っていてください」
中原さんは不満そうに睨みつける。
「いや、こいつは俺がやる」
「ダメです」
今野さんは譲らない。
「前回も中原さんがやったじゃないですか」
口元だけに意地悪い笑みを浮かべてみせる。
「たまには俺にも楽しませてくださいよ」
中原さんは不機嫌そうにしつこく俺を睨みつけていたが、やがて舌打ちをして一歩引いた。
「……チッ。分かった、さっさと済ませてこい」
「久城、出てこい」
今野さんが冷たい声でナイフを突きつける。
俺は何も言わず、諦めたように車から降りた。
強い日差しとは対照的な、山特有の冷たい風が皮膚を刺す。
今野さんが即座に俺の背後に回った。
背中に、金属の冷たい刃先が押し当てられる。
「歩け」
耳元で低い声が囁かれる。
「少し二人で話そう。いいだろ?」
今野さんはそう言って中原さんへ視線を向けた。許可を求めるフリをしながら、俺の背中を押して歩き出す。
ジャリ、ジャリと踏みしめる足音。
茂みが視界を遮り、中原さんの姿が完全に隠れた。
その瞬間だった。
「……久城」
耳元に届いたのは、あの車内での冷酷な演技ではない、聞き慣れた温かい今野さんの声だった。
ピンと張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ解ける。
俺は自分でも気づかないうちに、深く息を吐き出していた。
やっぱり……やっぱりこの人は味方だったんだ。
「いいか」今野さんが息を殺して囁く。「ここから逃げろ」
俺は驚いて顔を上げた。
「この目と鼻の先は、深い崖になっている」
一瞬、言われている意味が理解できなかった。
「叫び声をあげろ。足を踏み外して、崖下に滑り落ちたように見せかけるんだ」
俺は反射的に首を横に振った。
「ダメです……!」
声を押し殺して訴える。
「そんなことしたら……今野さんが疑われる! バレたら今野さんが殺される……!」
「大丈夫だ」
今野さんは俺の言葉を遮り、静かだが強い目で見つめ返してきた。
「中原の奴なら、俺がうまく誤魔化して抑え込む。だからお前は――」
信じられる。この人なら。
確信が胸を突いたその時だった。
ガサッ――。
すぐ背後の茂みから、葉の擦れる不穏な音が響いた。
全身の血が凍りつく。
「へえ……二人で、なかなか面白い話をしてるな」
引きつった息が漏れた。
ゆっくりと首を巡らせる。
そこには、木漏れ日の中で凶悪な笑みを浮かべた中原さんが立っていた。
「……っ!」
いつから後ろにいた? まったく足音がしなかった。
「逃げましょ!」
俺は深く考えるより先に、今野さんの腕を強く掴んだ。
「今野さん、早く! 逃げてください!」
ジャリッ――。
中原さんが一歩、土を踏みしめる。その手には、ナイフが握られたままだ。
「逃げられると思ってるのか?」
狂気を孕んだ声が山の中に響く。
「二人まとめて……あの世に送ってやるよ!」
次の瞬間、中原さんが地面を蹴り、恐ろしい速度で突進してきた。
「っ……!」
俺は恐怖を置き去りにし、力まかせに今野さんの手首を引っ張った。
「走れえええっ!」
俺たちは背後から迫る殺意から逃れるように、深い木々に覆われた山の中へ向かって夢中で駆け出した。




