処刑場までの一歩
俺たちは車を降り、オフィスへと通された。
案内された応接室の革ソファーに腰を下ろす。
俺の膝は、さざ波のように小刻みに震え続けていた。
これから自分に訪れるであろう現実を思うと、指一本すら上手く動かせない。
部屋に充満するどこか湿ったエアコンの空気が、胸の奥の恐怖をさらに肥大化させていくようだった。
ガチャ――。
静かな金属音とともにドアが開く。
入ってきたのは、背の高い、どこにでもいそうな中肉中背の男だった。
この人が……。
額を伝う冷や汗を拭うこともできず、俺は金縛りに遭ったように男を見つめる。
「お待たせしました」
拍子抜けするほど穏やかな声だった。
「いえいえ。こちらこそ、来るのが遅くなってしまいました」
今野さんは、いつもの柔らかいビジネス用の笑みを浮かべて立ち上がる。
俺も弾かれたように慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「初めまして。久城光といいます。よろしくお願いします」
男は俺を静かに見つめ、丁寧におじぎをした。
「私は、中原信弘と申します。よろしくお願いします」
中原さんはまるで世間話でも始めるかのような穏やかな笑みを浮かべ、俺に向かって右手を差し出した。
俺は、差し出されたその手を見つめたまま固まった。
――この手は、あと数時間後に俺の命を奪う手だ。
そう認識した瞬間、胸の底から強い拒絶反応が突き上げてくる。
隣に立つ今野さんが、俺の肘を小突いた。見つめられないよう、ごまかすための合図だ。
「……っ」
その衝撃でハッと我に返り、俺は慌てて中原さんの手を握り返した。
「よ、よろしくお願いします」
握手を交わした瞬間、手袋越しでも伝わる相手の体温に、逆に自分の血の気が引いていくのが分かった。俺の手が、氷のように冷たくなっていく。
俺は弾かれたように手を離し、無意識に一歩後ろへ引いていた。
挨拶の握手が、これほどまでに薄汚く、気味悪く感じられたのは生まれて初めてだった。
離した自分の右手を、何度も開いては握り、また開く。感覚を確かめるように繰り返さずにはいられなかった。
「どうぞ、お掛けください」
中原さんに促され、俺は腰が抜けたような取り立てでソファーへ沈み込んだ。
そこから始まったのは、殺人計画の打ち合わせなどではなく、今野さんと中原さんのたわいない世間話だった。天気の開示、最近のビジネスの動向。
俺は出された冷めたコーヒーを口に運ぶ。
苦味も香りも一切感じない。ただ、冷たい液体と共に『恐怖』という泥を胃の中に流し込んでいるだけだった。
しばらくして、中原さんがふっと思い出したように口を開いた。
「そうそう。これから私たちが計画している例の場所へ行きませんか? 現場を見ていただいた方が早いでしょう」
俺の肩が跳ねた。
「いいですね。ぜひ見せてください」
今野さんは一切の躊躇なく、滑らかに答える。
俺の呼吸が急速に浅くなった。
息がうまく吸えない。速い。苦しい。胸が割れそうだ。
――どうやって息をするんだっけ。息を吐くのが先だっけ、吸うのが先だっけ。
その時だった。
今野さんが身を乗り出すフリをして、俺の耳元で低く囁いた。
「落ち着け。絶対、逃がしてやるから……」
……縋ってはいけない。
頭のどこかで警告音が鳴っている。
それでも、パニックに陥った心にとって、その言葉は甘い毒薬のようにゆっくりと染み渡っていった。
中原さんがソファーから軽やかに立ち上がる。
「車の鍵を取ってきますので、少々お待ちください」
そう言い残し、中原さんは部屋を出て行った。
ドアが閉まる音と同時に、部屋を支配していた張り詰めた空気がほんの少しだけ緩む。
俺は肩を大きく上下させ、溜め込んでいた空気を吐き出した。
心臓は肋骨を内側から叩き割らんばかりに脈打ち、全身の震えは止まらない。
「久城、少し落ち着け」
今野さんが声のトーンを極限まで落として言った。
「お前は死なない。現場に着いたら、俺がお前をナイフで刺したフリをする」
「でも……そんなに上手くいきますか?」
声が掠れ、上手く出ない。
「近づいて確認されたら、本当に刺してないって一発でバレるんじゃ……」
ドラマや小説のようにはいかない。
現実の人間が、そんな子供騙しの演技で誤魔化せるわけがない。
「刺して殺したと言い張って、中原をその場から一時的に引き離す。その隙に、お前は全力で逃げろ」
今野さんの声には迷いがなかった。まるで、何度も頭の中でシミュレーションを重ねてきた作戦を確認するように。
「でも……もしバレたら、今野さんが殺されるんじゃ……」
「人の心配してる余裕がどこにある」
短く切り捨てられ、俺は言葉を失った。
分かっている。今、一番死に近い場所にいるのは俺だ。
――それでも。
俺は心の奥底で、今野さんを完全に信じきれずにいた。
「演技」だと言いながら、あの山奥で本当に俺の胸にナイフを突き立てるのではないか?
もし、俺を安心させるためのあの言葉が、すべて嘘だったら?
逃げ場のない密室の車、そして誰もいない山の中で、俺は何もできずに殺される。
最悪の思考が、黒い霧のように頭から離れなかった。
ガチャ。
ドアが静かに開き、中原さんが戻ってきた。
人差し指で車のキーリングをくるくると回しながら、まるで友人と週末のドライブにでも出かけるかのような軽快さで近づいてくる。
「ほら、早く行きましょう! ……久城さん、少し顔色が悪いですが大丈夫ですか?」
急に名前を呼ばれ、俺は首が折れそうな勢いで視線を向けた。
「いや……なんでも、ないです。楽しみで、少し緊張してしまって」
引きつった、自分でもわかるほど不自然な笑顔を作る。
「そうですか。では行きましょうか」
応接室を出て、廊下を歩く。
ただ車へ向かっているだけだ。
それなのに、足音が静まり返った廊下に響くたび、ギロチン台へと続く階段を上らされているような錯覚に襲われる。
身体の震えが、脚から腰、そして全身へと広がっていく。
視界の端がじわりと白く歪み、足元がフワフワと浮くような浮遊感に眩暈がした。
気づけば、日差しが眩しい駐車場に出させられ、黒い車がすぐ目の前に佇んでいた。




