車内の告白
狭い事務所のドアが勢いよく開け放たれ、外の熱気が雪崩のように押し寄せてくる。
石井さんに強く掴まれていた手首に、その温もりだけが粘り強く残っていた。
夏の重たい湿気がまとわりつき、首筋からじわりと汗が滲み出ていく。
「石井さん。俺とあまり一緒にいたらダメっすよ」
ふっと石井さんの手が離れる。
皮膚に残った微かな温度を逃がさないよう、俺は反射的に拳をぎゅっと握り締めた。
「そんなことはどうでも良いんですよ! あれだけ宮野さんに、二人きりにならないよう言われていたのに、なんで――」
「あのまま話が続いていたら、石井さんまで巻き込まれてましたから」
言葉を途中で遮る俺の声は、自分でも驚くほど静かだった。
それだけは、絶対に避けたかった。
せっかく安全な場所にいられる石井さんが、俺のせいで危険に足を踏み入れる必要なんてどこにもない。
「だったら、久城さんがちゃんと断ってください……っ」
「でも、大丈夫です。俺、宮野さんから念のためって渡された物もありますし。それに……もし何かあっても、今野さんより俺の方が体格的にも強いと思います」
へらりと、何事もなかったように笑ってみせる。
けれど、石井さんの強張った表情は最後まで晴れなかった。
これ以上引き止められる前に、俺はその場を離れる。後ろから石井さんが俺の名を呼ぶ声が聞こえたが、振り返ることなく歩き続けた。
◇
殺菌灯の青白い光が落ちるトイレで、鏡に映る自分の顔を洗う。
水道から出る冷水で何度も顔を拭い、身だしなみを整えてから、俺は今野さんの待つ駐車場へ向かった。
ドクドクと、嫌になるくらい心臓が喉の奥で跳ねている。
単なる挨拶回りじゃないからだ。
──もしかしたら、この後、殺されるかもしれない。
ぬめりとした恐怖が胸の奥底に張り付き、どれだけ息を吐いても剥がれてくれない。
それでも、足だけは重い拒絶を無視して前へ動き続けた。
「久城、準備できたな? 車に乗れ。向かうぞ」
タバコの煙を吐き出しながら、車の中から今野さんが言った。
「分かりました」
短く息を整えて答え、俺は助手席のドアを開けて乗り込んだ。
車内に充満する安っぽい芳香剤とタバコの匂いが、やけに鼻につく。
俺は意識して視線を外し、ぼんやりと窓の外を眺めた。流れていくグレーの建物を、一つ、また一つと心の中で数えていく。
まるで、自分に残された時間を正確にカウントダウンするように。
「今野さん……本当に挨拶回りだけのために、俺を呼んだんすか?」
エアコンの冷気が直撃する横顔に向け、問いかける。
今野さんは前を見据えたまま、革巻きのハンドルを握る右手の人差し指で、タチ、タチ、と規則的なリズムを刻み続けていた。
「もちろんだ」
何年も一緒に仕事をし、同じ飯を食ってきた。だからこそ分かってしまう。
今野さんが嘘をつく時は、決して相手の目を見ない。
「今野さん……俺を殺すんすか?」
できるだけ日常会話の延長のように、世間話でも切り出す口調で尋ねた。
「物騒なことを言うな」
言葉の語尾が途切れると同時に、今野さんの視線が、すっと二度だけ下へ落ちた。
嘘をつく時。何かを隠し通そうとする時。彼が長年無意識に見せる、決定的な癖だった。
「この町全体が、もう十分すぎるくらい物騒じゃないですか。……今野さんはどこまで知ってるんですか?」
ぐっと力を込めたのか、ハンドルを握る今野さんの指先が白く変色していく。
俺もつられるように、自分のズボンの生地を破らんばかりの力で握りしめた。
冷え切った車内に、お互いの荒い息遣いだけが異様に大きく響き渡る。
「どこまでだろうな。……俺は、上からの命令で動くだけだ」
その静かな答えだけで、十分だった。
信じていた人間に裏切られるのは、人生でこれで二度目だ。
湧き上がる暗い怒りと絶望を抑え込むように、俺は深く奥歯を噛み締めた。
「じゃあ、俺を殺すのも命令だからやるんすね」
今野さんの口角がニヤリと歪み、一瞬だけ鋭い視線がこちらを射抜いた。
「いや、殺したつもりにする」
「……え?」
予想もしなかった単語に、喉から間抜けた声が出た。
「なんだ、その顔は。俺を血も涙もない人形だとでも思っていたのか? お前との付き合いは本物だ。冗談抜きで、息子のくだらん反抗期を見ている気分だったよ」
父親同然に慕っていた。
その感情が一方通行ではなかったのだと理解した瞬間、胸の奥が焼きちぎられるように痛んだ。
「それを……素直に信じられるほど、俺も子供じゃないっすよ」
途切れそうになる声をどうにか繋ぎ止め、必死に冷静さを装う。ここ数ヶ月間、隣で見続けてきた宮野さんの立ち振る舞いを頭の中でトレースしながら。
けれど、裏腹に心臓は肋骨を内側から突き破らんばかりに暴れていた。
……やっぱり、宮野さんはすごい。こんな土壇場で、どうやって冷静さを保っていたんだろう。
「それもそうか。物分かりが良すぎるガキは可愛くねえな」
今野さんは自嘲気味に呟くと、氷のように冷ややかな声に戻った。
「今から行く会社は、地主の裏と繋がりのある連中だ。そこで俺とそいつの二人で、お前を山へ連れて行ってヤルことになっている」
全身の毛穴が一気に開き、嫌な汗が背中を滑り落ちていく。
――逃げろ。今すぐ飛び降りて逃げろ。
本能が脳内でけたたましく警報を鳴らしていた。俺はゆっくりと首を動かし、横顔の今野さんを睨みつける。
「……今まで、何人殺してきたんすか?」
沈黙。
「この町から不自然に消えた住人、結構いますよね」
タイヤが舗装の荒れた路面を拾うガタガタという音だけが響く。今野さんは正面を見据えたまま、唇を固く閉ざしていた。
「答えてくださいよ」
震えそうになる喉を必死に押し潰し、視線だけは絶対に逸らさなかった。
「……俺は何人目になる予定だったんすか?」
今野さんの唇がかすかに痙攣し、何かを語ろうと動いた。けれど、結局言葉にはならず、喉の奥で押し殺された。
「……黙りっすか。酷いっすね」
がたがたと震え出す自分の腕を、反対の手で上から強く押さえつける。
早く、一秒でも早くこの密室から降りなければ。
いくら「生かす」と言われても、この男の思惑一つで俺の命は簡単に潰される。
「俺を……本当に逃がす気なんですか?」
長い沈黙の末、今野さんは肺の空気を吐き出すように深く息をついた。
「ああ。計画の段階で、お前は俺が仕留めたことにする」
その言葉を聞きながら、俺はポケットの中に忍ばせたGPSの小さな筐体を、折れんばかりの力で握りしめた。
まるで、プラスチックの冷たい感触だけが、現実に繋ぎ止めてくれる唯一の命綱であるかのように。
今の今野さんを信じることはできない。信じてしまったら、次は本当に死ぬ。
……だけど、いまさら後悔しても遅い。
「今、ここで降ろしてください」
今野さんは静かに首を横へ振った。
「それはダメだ」
「なんでですか……っ!」
「ここで降りて相手の追手に見つかったら、お前は確実に死ぬ」
重く押し殺した声が車内に響く。その圧倒的な現実味に、俺はそれ以上言葉を返せなくなった。
……ここで宮野さんなら、どう動いただろう。
俺みたいに惨めに怯えていただろうか。それとも、すべてを見透かしたように笑って見せたんだろうか。
「だから……山に入ってから逃げろ」
重苦しいトーンのまま言葉が途切れ、車がゆっくりと減速して停まる。
フロントガラスの向こうには、どんよりとした曇り空の下に佇む、目的地の中小企業の社屋が見えていた。
ここには――。
今野さんとは違い、何の躊躇もなく俺の命を奪うつもりで待っている男が、もう一人いる。




