逃げられない挨拶
宮野さんを見送ってから、俺はいつものように事務処理をこなしていた。
何も変わらない、ごく普通の日常。あれほど「殺される」「殺されない」と騒いでいた数週間前が、まるで嘘だったかのようだ。今野さんの様子もいつもと変わらない。宮野さんや石井さんからは「気をつけてください」と何度も念を押されていたが、それらしい怪しい動きはまったくなかった。むしろ、以前より俺を気にかけてくれているようにさえ思える。
俺は自然と、向かいのデスクで作業をしている石井さんへ目を向けた。
今日も変わらず可愛い。石井さんは凝り固まった体をほぐすように、両腕をぐっと頭上へ伸ばした。そして、くるりと椅子を回転させた石井さんと、ばっちり目が合う。
俺は反射的に目を逸らし、気まずさを誤魔化すようにゆっくりと視線を戻した。石井さんは「はぁ」と小さくため息をつくと、そのままこちらへ歩いてくる。
ど、どうしてこっちに――。
あまり仲良くしていると、今野さんに目をつけられるかもしれないのに。
「久城さん、どうかしましたか? さっきからこっちを見てましたよね?」
……速攻でバレていた。
「いや、仕事頑張ってるなぁと思って。」
苦し紛れに言葉を返す。
「久城さんも頑張ってるじゃないですか。何か分からないことでもありました?」
石井さんが近づくたび、ふわりと柔らかな香りが漂う。思わず胸が高鳴り、俺は顔を伏せた。
「今のところ大丈夫です。今野さんにも特に何も言われてないっす。」
そう言って精いっぱい笑ってみせた、その瞬間だった。
背中に、まるで氷の刃を突き立てられたかのような視線を感じる。
恐る恐る振り返ると、今野さんが自席からこちらをじっと見つめていた。無表情な目が、俺を射抜いている。
――早く任せた仕事を終わらせろ。
そんな声なき圧に押され、俺は慌ててパソコンへ向き直った。
「そうですか。また何か気になることがあれば、いつでも声をかけてくださいね。」
石井さんは軽く手を振ると、自分の席へ戻っていった。
◇
それから二時間ほど経った頃。
「久城。」
耳元で急に声を掛けられ、肩が跳ねた。今野さんだ。
「悪いが、少し付き合ってもらっていいか。お盆も近いし、取引先へ挨拶に回りたいんだ。」
その言葉を聞いた瞬間、全身の血が引いていく感覚がした。胸の奥で、得体の知れない警戒心が警鐘を鳴らす。本能が、全力で叫んでいた。――この人と二人きりになってはいけない、と。
「……今日ですか? 明日じゃ駄目ですか? 宮野さんと二人で回りますよ。」
引きつった笑顔でそう返した瞬間、今野さんの眉がぴくりと跳ねた。
……あ、ヤバい。失敗した。
体が勝手に強張り、俺はギクシャクと目を閉じた。
「少しは自分でやれ! いつまで宮野さんにおんぶに抱っこになる気だ!」
怒号が頭上から降ってくる。恐る恐る目を開けると、目の前には怒りで顔を真っ赤にした今野さんが立っていた。あまりの迫力に、何も言い返せず口をつぐむしかない。
すると――
「話しているところ、すみません。」
通った澄んだ声が、静かに割り込んできた。
「私が今野さんの代わりに、挨拶回りへ行きましょうか?」
振り返ると、石井さんがまっすぐ今野さんを見据えて立っていた。その瞳に迷いはない。
今野さんは納得がいかない様子で、深く眉をひそめた。
「石井も久城を甘やかすな。それに、ただの挨拶回りだ。そんなに騒ぐ必要もないだろ。」
「確かに、ただの挨拶なら大した話じゃないですね。」
石井さんは淡々とした口調で、だが言葉の裏に鋭い響きを込めて続ける。
「それなら、いっそ久城さん一人で行かせるのはどうですか?」
「え……?」
思わず石井さんの顔を見上げた。一人で……? 俺を助けてくれるんじゃないのか?
しかし今野さんの表情は、その言葉を聞いてわずかに緩んだ。
「……フン、それも悪くないな。」
俺は焦って石井さんに視線を送り、小声で囁いた。
「ちょっと……どういうつもりっすか?」
「静かにしてください。」
石井さんはピシャリと言い捨て、視線すらこちらに向けない。彼女の真意が見えず、冷や汗が吹き出す。
今野さんは腕を組み、しばらく思案するように天井を仰ぐと、重々しく口を開いた。
「……いや、今回は俺も行かなきゃならないんだ。」
石井さんが即座に一歩前へ踏み出す。
「何かご用事でもあるんですか?」
「ああ。向こうと約束していてな。」
石井さんの眉がわずかに動いたが、それ以上は言葉が出てこないようだった。「約束があるついで」と言われてしまえば、これ以上不自然に食い下がることはできない。
このまま二人が揉め続ければ、石井さんの立場まで危うくなる――。
「……俺、今野さんについて行って勉強させてもらいます。」
肚を括るしかなかった。今野さんが相手でも、白昼の屋外なら一人で何とかなるかもしれない。そんな甘い考えが頭をよぎる。
「じゃあ、昼を食べたらすぐ行くぞ。」
「分かりました。」
返事をして自席へ戻る。石井さんも同じように席へ戻るのかと思った、その時だった。
「久城……ちょっと外へ来てください。」
低く、押し殺した声で俺を呼ぶ。
この事務所はワンフロアの一部屋しかない。今二人そろって出ていけば、絶対に今野さんに怪しまれる。
「え、でも……今野さんが――」
「いいから!」
いつもの穏やかな石井さんからは想像もつかない激しい声だった。石井さんは俺の手首を強固な力で掴むと、今野さんの視線も構わずに、強引にドアの外へと引っ張っていった。




