日常の中のトゲ
いつもと変わらない、静かな朝のルーティンだった。
同居しているからといって、久城と一緒に職場へ向かう必要はない。あいつは起きるのも支度も、お世辞にも早いとは言えないからだ。
一人で先に出勤し、パソコンを立ち上げてメールボックスを確認する。
この町での仕事は、スケジュール管理に追われるほど忙しいわけではない。営業に出かけたところで、行く先々で見知った顔に遭遇するだけだ。これ以上、自発的に開拓する余地もなかった。基本的には先方からの依頼を待ち、声がかかれば足を運んで相談に乗る――それが俺たちの仕事の距離感だった。
画面をスクロールしていると、背後から今野が声をかけてきた。
「今日も頑張ってますね!」
俺は作業を止め、今野をじっと注視する。
「ええ。海馬さんのところとの打ち合わせもありますから。できるだけ事前に計画を見直しておきたくて」
今野は俺の肩越しに、パソコンの画面を覗き込んできた。何かを見つけたのか、受信トレイにあるメールの宛先をまじまじと見つめている。
「何か、変なメールでもありましたか?」
「いや……噂をすれば、その海馬さんから連絡が来ているなと思ってね」
俺は再び画面に視線を戻し、メールを開いた。文面には、次回ミーティングの候補日が並んでいる。
「どうやら日程の調整ですね。来週、私がここを抜けても大丈夫ですか?」
念のため、今野に確認を取る。この町で業務が逼迫することはまずない。回るべき会社も少なく、住人のほとんどが顔見知りだ。他社とのグループミーティングがたまにある程度で、俺がいなくても現場が回らないということはないはずだった。
「大丈夫ですよ。宮野さんが来てから会社の調子もいいですし、特に問題はありません」
「それでは来週、もう一度海馬さんのところへ打ち合わせに行ってきます」
そう告げると、今野は穏やかに頷いた。
――だが、その一瞬だけだった。
彼の口元に浮かんだ笑みが、どうにも不自然に歪んで見えた。ほんの刹那の違和感。それが棘のように胸の奥に引っかかる。
「久城も連れて行ってくれないか?」
今野のその提案に、俺はゆっくりと首を横に振った。
「前回連れて行った時、緊張のせいで体調を崩してしまいましたから。今回は会社で待機してもらおうと考えています」
またあの屋敷の、重苦しく張り詰めた空気に呑まれ、プレゼンの途中で逃げ帰るようなことになれば目も当てられない。
海馬たちの腹を探るどころではなくなってしまう。
あいつは……いざというときに縮こまる悪癖がある。
今野とそんな話をしていると、案の定、遅れて久城が出勤してきた。
事務所を見渡した久城は、真っ直ぐ今野の方へと近づいていく。
「おはようございます」
今野は、我が子をからかう父親のような仕草で、久城の髪をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「今日も遅かったな! お前が最後だぞ!」
「ちょっと、やめてくださいよ」
久城は今野の手首を掴み、その手を少し煙たそうに振り払う。
遠目から見れば、ただの仲の良い上司と部下、あるいは親子の光景だ。今野が久城に直接手を下すような真似をするとは到底思えない。……だが、油断は禁物だった。
俺はふと、離れた席にいる石井へ視線を移した。
彼女は一人、真剣な表情でパソコンの画面と睨めっこをしている。周囲の目を考えれば、あまり彼女と親しくしすぎるのは得策ではない。あからさまに距離を置けば、逆に不審に思われる可能性もあるが。
俺は自然な足取りで彼女のデスクへ近づいた。
「おはようございます。今は何をしていたんですか?」
「宮野さん、おはようございます。宮野さんが計画している、海の開発プロジェクトの資料を見ていたんですよ」
石井の言葉に合わせるように、俺も彼女のモニターに視線を落とす。
画面の隅、ブラウザの陰に隠れるように小さなメモ帳アプリが開かれていた。石井の指先が、軽快にキーボードを叩く。
『今野さん、間違いなく海馬さんと繋がっています。』
やはりか……。冷たいセメントが胃に落ちていくような感覚がした。だが、俺は石井にここまで踏み込んで調べろとは頼んでいない。万が一、周囲に盗み聞きされても不自然にならないよう、仕事の話を装って声を潜める。
「何か気になることでもありましたか? わざわざ調べなくても大丈夫ですよ。石井さんには、他にもお願いしたい仕事がありますから」
石井は画面から目を離さないまま、滑らかにタイピングを続ける。
「今回の企画は大きくなりそうなので、少しでも事前に資料に目を通しておいた方がいいと思いまして」
彼女の言葉とは裏腹に、画面のメモ帳には別の文字列が躍り出た。
『それが……久城さんが危ないかもしれないので。』
そこまで深刻な状況なら、直接連絡をくれればよかったのに――。
そう思った瞬間、自分が致命的なことを見落としていたことに気づいた。俺はまだ、石井と連絡先を交換していなかったのだ。
俺は何事もないように、いつもの冷静な笑みを浮かべた。
「そうでした。まだ石井さんと連絡先を交換していませんでしたね。よければ教えていただけますか? 何かあった時、その方がすぐに業務の連絡が回せますから」
石井は椅子ごとくるりとこちらへ向き直り、柔らかく微笑んだ。
「それは助かります」
彼女は鞄から手際よくスマートフォンを取り出し、そのまま俺へと差し出してきた。画面には、連絡先の新規入力画面が開かれている。
「ここに宮野さんの番号、入れてもらってもいいですか?」
……不用心だな、と内心で苦笑する。
現代人にとって、スマホはプライベートの塊だ。そんな代物を、躊躇なく他人に預けるとは。
それだけ、俺のことを信用しているという証拠なのだろうか。
「分かりました」
俺はスマホを受け取ろうとした。その瞬間、石井の細く白い指先が、わずかに俺の指へと触れた。
ほんの一瞬の接触。普段の俺なら、気にも留めずに受け流す程度の出来事。
それなのに、なぜか妙に意識してしまい、僅かに指先が強張る。
「意外ですね」
石井が、悪戯っぽくくすりと笑った。
「宮野さんも、そういう風に照れたりするんですね」
……しまった、顔に出ていたらしい。
「いえ、これは……」
返答に詰まる俺を見て、石井は子どもが作戦に成功したときのような満足げな笑みを浮かべた。
「冗談ですよ」
彼女は小さく肩をすくめる。
「私は続きを調べておきますので、宮野さんは企画の成功に向けて頑張ってくださいね」
石井はそれ以上、思わせぶりなことは何も言わず、すぐに淡々と画面へと視線を戻した。
……きっと、彼女も分かっているのだ。今の俺たちが、必要以上に親密な空気を醸し出してはいけないということを。
俺は小さく息を吐き出し、自分の椅子の背もたれに体を預けた。
すると、ガラガラと激しくキャスターの音を立てながら、誰かが近づいてくる気配がした。久城だ。俺の隣で無理やり椅子を止めると、あいつは周囲を気にしながら小声で詰め寄ってきた。
「石井さんと、何話してたんですか?」
……こいつも大概だな。最初からこちらを凝視している視線には気づいていた。
やっぱり、久城は石井のことが好きなのだろう。
「大したことは話していませんよ」
「本当っすか?」
何を疑っているのか知らないが、俺は今、久城の的外れな嫉妬に付き合っているほど暇ではない。
「私に嫉妬している暇があるなら、さっさと告白でもして、潔く振られてきてください」
少し呆れ半分で、思ったことをそのまま口にしてやった。
「な、なんで知ってるんすか!?」
案の定、久城の顔がみるみるうちに赤くなっていく。その赤みは耳の後ろまで一気に染め上げていた。
「俺、一度も誰にも言ったことないですよ!」
「気づかない方がおかしいでしょう」
仕事中だろうが何だろうが、気がつけば久城の視線はいつも石井の方を向いている。あれだけ分かりやすければ、隠しているつもりでも周囲には丸見えだ。
「……っていうか、なんで振られる前提なんすか」
久城は不満そうに口を尖らせる。
冷静に能力値だけで見れば、石井に対して久城は少々勿ったいないというか、不釣り合いだ。石井は抜群の洞察力があり、仕事もそつなくこなす。周囲への気配りも完璧で、状況判断も恐ろしく早い。あれだけ優秀で魅力的な人間なら、放っておいても声をかける男はいくらでもいる。
それでも、久城には久城なりの良さがあるのも事実だ。
人懐っこく、誰の懐にもすぐに入り込める。顔立ちも決して悪くはないし、年上の女性にウケるタイプなのは間違いない。
「冗談ですよ。ただ、告白の件は本気で考えてもいいと思います」
俺から見ても、石井の態度が完全に脈なしというわけではないように思えたからだ。
「……マジっすか。脈、ありますかね?」
久城は途端に現金な顔になり、期待を隠せない様子で身を乗り出してきた。
「そこまでは分かりませんよ」
俺は苦笑交じりに首を振る。
「ただ――それは、俺たちが生き残ってから考えた方がいい」
その一言を落とした瞬間、久城の表情が、目に見えて少しだけ引き締まった。
今は色恋沙汰に浮かれている場合じゃない。石井が命がけで探ってくれた情報によれば、海馬と今野は確実に裏で繋がっている。そして、久城がそのターゲットとして狙われているという不穏な事実は、何一つ変わっていないのだ。
呑気にしていられるのは、世界中で当の本人だけだった。
こんなバカ話は、ここまででさっさと切り上げなければならない。
俺は意識のギヤを切り替え、冷徹な思考を取り戻す。海馬のメール、今野の不自然な笑み、そして石井がもたらした警告。繋がった点と線を頭の中で整理しながら、俺はここからの局面を切り抜けるための、最終段階の計画へと取り掛かった。




