再び
久城は、このまま俺の家で匿うことになった。
石井が今野へ俺たちのことを密告すれば、ひとまず石井の身の安全は確保できる。問題は残された久城だ。もし俺がヘマをして捕まれば、連鎖的に久城も無事では済まない。最悪の場合――消される。
そこまで考えたところで、俺は小さく首を振って思考を打ち切った。
……いや、今は最悪の想定に怯えても仕方がない。
「家から一歩も出ないように」と久城に強く念を押し、俺はノートと資料、そして一枚の重要なメモをトートバッグへ放り込んだ。向かう先は、街外れの静寂に沈む洞窟だ。
闇への潜行と、消えない渇き
洞窟の入口に立つと、ひんやりとした湿った土の匂いが鼻腔をくすぐった。数か月前と何も変わらない、じめついた空気とぬかるんだ地面。光を拒むような圧倒的な暗闇を前にして、俺の口元は自然と緩んでいた。
やっぱり、俺はこの空気が嫌いじゃない。
誰も知らない、誰にも見つかってはいけない場所へ忍び込む――その瞬間の、肌が粟立つような張り詰めた感覚。一歩足を踏み出すたびに、五感のスイッチが次々と入り、神経が限界まで研ぎ澄まされていく。
昔からそうだった。常人なら恐怖で足を止めるような危険な状況ほど、脳内にアドレナリンが吹き荒れ、足が勝手に前へと進む。捕まるか、それとも出し抜くか。その境界線を行き来するヒリついたスリルに脳を焼かれているからこそ、俺はいまだにコソ泥というまともじゃない稼業をやめられないのだ。
クチャッ、クチャッ、と泥が靴を飲み込む不快な音が、静寂の洞窟内に奇妙に心地よく響く。俺はライトを最低限の光量に絞り、暗闇の中を迷いなく進んだ。
目的はただ一つ。あそこに眠る「缶」だ。
「……この辺だったな」
トートバッグから折りたたみ式の小さなショベルを取り出し、冷たい土を掘り返す。抵抗なく崩れる柔らかな土の感触を指先に感じながら掘り進めること数分、コツン、と硬質な金属音が響いた。
「あった」
泥を払い、数か月ぶりに掘り起こした缶を取り出す。軍手越しでも、芯まで冷え切った缶の冷たさが伝わってきた。蓋を開け、今野の不正を暴くための決定的な証拠となる資料とメモを滑り込ませる。
静かに蓋を閉め、再び土の中へ。跡が残らないよう周りの泥と丁寧にならし、周囲の景観と同化させる。誰もここに、破滅の引き金が埋まっているとは気付かないだろう。完璧な隠蔽だ。
同業者との危ういゲーム
洞窟を抜けると、外の生ぬるい空気が頬を撫で、張り詰めていた神経が少しだけ弛緩した。近くにあった腰掛けにちょうどいい岩に身を預け、大きく息を吐き出す。
ポケットからスマホを取り出し、数少ない「信頼できる同業者」の番号をタップした。コソ泥の世界で、唯一背中を預けられる男だ。呼び出し音が数回鳴った後、スピーカーから聞き慣れた陽気な声が響いた。
『おう、生きてたか』
「あぁ」
『しばらく連絡がねぇから、てっきりサツにパクられたかと思ってたぜ』
軽口に、思わず笑みがこぼれる。
「まだ捕まる気はねぇよ。そんなに簡単にヘマはしない」
『で? わざわざ連絡してくるってことは、何か美味い仕事でも見つけたか?』
「とびっきりのを見つけた」
久しぶりにビジネス用の敬語を捨て、泥棒としての地を出す。この男の前で取り繕う必要はない。
『へぇ、そいつは金になる話か?』
「金より面白い」
ニヤリと口元を歪めて答えると、電話の向こうから豪快な笑い声が弾けた。
『ははっ! お前、昔っからそれだな。スリル欲しさに足突っ込む悪癖、まだ治ってねぇのか。で、今度は何を盗む?』
「盗むんじゃない」
少しだけ間を置き、静かに、だが熱を孕んだ声で告げる。
「手を貸してほしいだけだ。……ある男をハメる」
俺は必要な計画の断片だけを、簡潔に伝えた。男はしばらく沈黙した後、呆れたように短く笑った。
『……なるほどな。相変わらず、とんでもねぇ細い泥縄の橋を渡る。お前、本当に命がいくつあっても足りねぇよ』
「だから、お前に頼んだんだ。お前じゃなきゃ、このスリルは共有できない」
『貸しひとつな、宮野。面白そうだから乗ってやるよ』
通話が切れ、画面が暗転する。スマホをポケットにしまいながら、俺は沸き立つ興奮を抑えるように息を吐き、我が家への帰路についた。
狂い始めた日常、引き返せない境界線
玄関の鍵を開け、リビングへ向かう。そこには、緊張感のカケラもなくソファーに腰掛け、テレビのバラエティ番組を眺めている久城の姿があった。
「久城さん。大丈夫でしたか?」
「誰も来ないですよ。宮野さん、随分遅かったっすけど、どこ行ってたんすか?」
俺はあえて質問には答えず、キッチンへと向かってコーヒーを淹れた。張り詰めた思考を落ち着かせるように。
「明日は今日以上に忙しくなります。久城さん、一人で職場へ行けますか?」
久城は緊張感のない声を上げて吹き出した。
「なんすか、それ。子供じゃないんだから、行けますよ」
その呑気な返事に、思わずため息が漏れる。自分が命を狙われているかもしれないというのに、この男には危機感というものが致命的に欠落していた。久城は鈍臭く、要領も悪い。
「それと、明日は絶対に今野と二人きりにならないでください」
あいつは間違いなく、今回の件の黒幕と繋がっている。
久城は困ったように頭をかいた。
「それは難しくないっすか? 俺の上司ですよ。何か理由をつけて近づいてきますって。断れないっすよ」
……それもそうだ。相手がその気なら、二人きりになる状況はいくらでも作れてしまう。だからといって、せっかく石井にリスクを背負わせて密告させたというのに、その石井と軽率に行動を共にさせれば全てが水の泡だ。久城一人をあの今野の前に放置すれば、何が起きてもおかしくない。
なら、他に方法を考えるしかない。
俺は深い香りと白い湯気を立てるコーヒーのコップを、久城の前のテーブルに置いた。
「ちょっと離れます」
そう告げて自室へ向かう。
コソ泥としてのキャリアだけは無駄に長い。他人の目を盗むヒリヒリするようなスリルに脳を焼かれ、やめられなくなった結果、この手の裏稼業めいた道具だけは一通り揃っているのだった。
使い込まれた木製の机の引き出しの奥から、漆黒の小型発信機を取り出した。ボタンを押せば、暗号化された電波が受信機を介し、俺のスマホに正確な位置情報を叩き込む。
本当は、この男にここまでする義理も義務もない。ただの泥棒が、他人の人生の面倒まで背負い込むなんて滑稽だ。それなのに、気づけば俺は発信機を、壊れ物を扱うようにぎゅっと握り締めていた。この破滅的な状況に、また別の歪んだ高揚感を覚えている己に苦笑する。
部屋へ戻り、じっとこちらを見上げていた久城の前に立つ。
「これを持っていてください」
俺が手のひらを開いて差し出すと、久城は目を輝かせ、物珍しそうにそれを受け取った。おもちゃを手に入れた子供のように、指先でくるくると回している。
「これ、何ですか?」
「発信機です。肌身離さず持っていてください。何かあれば、迷わずこのボタンを押してください」
「GPSみたいなもんっすか?」
「似ています。ただ、その辺の店で買える市販品とは性能が違います。電波の遮断されやすい深い山の中であれ、地下であれ、確実に位置を拾えます」
久城は信じられないといった様子で目を丸くした。
「すげぇ……。本物だ。宮野さん、これ今、押してみてもいいですか?」
稼働確認はしておいた方がいい。万が一の時に不良品でした、では笑えない。
「構いません。やってみてください」
久城が躊躇なく、親指でカチリと硬いボタンを押し込む。
次の瞬間、俺の手元にある受信機が、鋭く甲高い電子音を鳴らした。すぐに音をミュートにすると、連動したスマホの画面に詳細な地図が立ち上がり、久城の現在地を示す紅い点が、脈打つように点滅を始める。
「……ちゃんと動いてますね」
画面を見せると、久城は感極まったような顔で俺の顔を覗き込んできた。
「これ、本当に俺が持ってていいんすか? こんな凄そうなやつ」
「あなたのために用意した物です。必要になります」
久城は少し首を傾げ、俺の真意を探るように視線を彷徨わせたあと、やがて弾けたように嬉そうに笑った。
「ありがとうございます! 大事にします!」
無邪気なその笑顔を見て、胸の奥につかえていたものを吐き出すように、小さく息を吐く。
……もう後戻りはできない。
俺という存在が、完全に引き返せない境界線を越えたことを自覚する。コソ泥のスリルとはまた違う、心臓がじりじりと焼けるような、破滅と隣り合わせの危うい高揚感が全身の血を巡っていく。
あいつの居場所だけは、世界のどこにいてもいつでも分かるようにしておく。それが、引き金を引いた俺の責任だ。
翌日。
俺は本業の仕事を休み、この危険なゲームを完遂するために、最後に残った用事を片付けるべく、静かに家を出た。




