誘導と罠?
久城と暮らし始めて、一週間が過ぎた。
あれ以来、向こうからの接触は一切ない。不自然なくらいに、静かだった。
……今になって思えば、おかしな点はいくつもあった。いや、違和感には最初から気づいていたのだ。ただ、見ないふりをしていただけ。
なぜ、あの部屋だけ鍵が開いていた?
なぜ、人身売買の証拠ともいえる極秘書類が、あんな目立つ場所に残されていた?
喉の奥が小さく鳴る。
普通のビジネスマンなら「運が良かった」で済ませるかもしれない。だが、俺の「もう一つの目」が、その甘さを否定する。あんなガバガバな防犯を敷く間抜けは、あの規模の屋敷の主には存在しない。
視線を向けると、キッチンでは久城が夕食の支度をしていた。もうこの部屋の勝手にも慣れたようで、自分の家のようにエプロン姿でフライパンを振っている。
「久城さん」
声を掛けると、久城がびくりと肩を揺らしてこちらを振り向いた。
「屋敷の廊下を歩いていた時、本当に誰とも会わなかったんですか?」
その瞬間、野菜を炒めていた手がぴたりと止まる。握られた菜箸が、小刻みに震えていた。屋敷での恐怖が、今も彼の身体にこびりついている証拠だ。
フライパンの油がパチッと弾け、その音で久城はハッと我に返った。
「……誰にも、会っていません」
短い返事。やはりそうだ。
俺はさらに、獲物の足跡を辿るように問いを重ねる。
「書類は、テーブルの引き出しにありましたよね。鍵は?」
「かかって、いませんでした。ただ、引き出しが開いていて……」
久城は答えながら、視線を落として野菜を何度も混ぜ続ける。必要以上に、何度も、何度も。高鳴る鼓動を必死に抑え込もうとしているのが丸分かりだった。
重要書類を、鍵もかけずに机に残す。しかも、その部屋だけ侵入者を歓迎するかのように解錠されている。
偶然で済ませられる話じゃない。最初から、誰かに見つけさせる目的で配置されていたのだ。
俺たちは――嵌められた。
だとしても、何のために?
久城が野菜炒めを皿に盛り付け、怯えた手つきでテーブルへ運んできた。
「何か……気になることでもあるんですか?」
「ありますよ。久城さん、あなた完全に誘導されています」
俺は食器棚から静かに皿を取り出し、テーブルへ並べる。手慣れた、音を立てない所作。音もなく空間に溶け込み、獲物を手にするための、身体に染みついた動きだ。
「誘導……ですか?」
「ええ。あれだけ広い屋敷だ。いくら人払いがされていたとしても、使用人の一人や二人、死角で行き違うのが普通です。それに、鍵が開いていた部屋がたった一つだけなんて、あまりにも不自然でしょう」
久城は炊飯器からご飯をよそいながら、困惑したように首を傾げた。
「たまたま、タイミングよく人がいなかっただけじゃ……」
俺は静かに首を振る。そんな素人のご都合主義な偶然、絶対に信じない。
仕事柄――いや、俺の裏の『技術』から言わせてもらえば、鍵の掛け方や物の隠し方、人間の動線には嫌でも目がいく。本当に隠したいヤマ(獲物)なら、もっと人目につかない金庫の奥底にブチ込むものだ。侵入者の動線上にわざわざ置いておくなど、あり得ない。海馬がそんなタマか?
「偶然にしては出来すぎています」
俺は椅子に腰を下ろした。
「もし久城さんが別の廊下を歩いていても、見えない誰かが別のルートへ誘導していたでしょうね。逆に誰とも会わなかったのは、あの部屋へ真っすぐ向かわせるための『一本道』を作られていたからです」
久城の表情から、みるみる血の気が引いていく。
「あの部屋は、最初からあなたに見つけさせるために用意された、ただのステージだったんですよ」
そう考えれば、すべてのパズルが噛み合う。
俺たちは執念で証拠を見つけた見返りを得たんじゃない。――見つけさせられたんだ。
ガシャン!
久城が両手でテーブルを叩いた。器が不快な音を立てて跳ねる。
「なんで……っ! 何のためにそんな真似を!」
「それが分かるなら、私もこれほど頭を悩ませていませんよ」
だが、一つだけ確かなことがある。
「証拠をわざと握らせても、どうにでも揉み消せる。相手はそう確信しているということです」
その絶対的な自信は、一体どこから湧いてくる?
海馬の背後には、警察すら手の平で転がせる巨悪がいるのか。あるいは、もっと底の知れない巨大な組織が――。
そこまで思考を巡らせて、俺は思わず、ゾクッとするような興奮とともに口元を緩ませてしまった。
やっぱり、あの男は面白い……!
気づけば俺の乾いた興味は、海馬という冷酷な男の存在に、完全に釘付けになっていた。これほど難攻不落な金庫は、久々の大物だ。胸の奥で、久しく忘れていたスリルが火を噴く。
「宮野さん……本当にこのまま待っていていいんすか? 石井さんが俺たちのことを海馬にチクったはずなのに、あまりにも静かすぎます」
「そうですね」
久城を始末しようとする刺客の気配もない。俺を屋敷へ呼び出し、締め上げようとする様子もない。嵐の前の静けさ。あまりにも平穏で、かえって吐き気がするほど気味が悪かった。
「焦っても小物の思うツボです。石井さんの件も含めて、すべては計画の内ですよ」
久城にはまだ明かしていない。石井さんが海馬に情報を流したことも、そこから生まれる僅かな歪みすらも、俺のシナリオの一部だ。泳がせることで、盤面はより面白く動く。
「前回、屋敷へ行った時に十分な『餌』は撒いてありますから」
表向きは、海辺のリゾート開発計画の打ち合わせ。
海馬は思っていた以上に乗り気で、俺の提案を細かく聞き、実施に向けて動く素振りまで見せていた。
裏では互いにナイフを隠し持ち、腹を探り合っている。だが、表の舞台では完璧なビジネスパートナーだ。この計画が成功すれば、俺の会社の評価にも繋がる。
だからといって、一瞬でも油断するつもりはない。海馬という男は、そんな甘い隙を見せてくれる相手じゃない。
そちらの計画を進めたいのであれば、海馬も軽々しく俺たちには手を出せないはずだ。少なくとも今は、互いに次の出方を探り合っている膠着状態。
「とりあえず、明日会社へ行けば計画も進みます。そう遠くないうちに、またあの屋敷へ足を運ぶことになるでしょう」
そう告げると、久城の顔が今度は青ざめた。
「あの屋敷に……また行くんですか」
「ええ。でも今回は私一人で行きます。久城さんは会社で大人しく、私の帰りを待っていてください」
久城は何かを訴えかけるように口を開いたが、俺の冷徹な視線に圧されたのか、結局何も言えず、小さく頷いた。
――この時の俺は、まだ知らなかった。
自分の「観察眼」への過信と、危険なヤマを前にして抑えきれなかった不敵な好奇心が、取り返しのつかない最悪の後悔を招くことになるなんて。




