知る名と知らぬ名
何かが変わった訳じゃない。
部屋には、弛んだ紐がピーンと張ったような、肌を刺す緊張感が流れている。
俺はいつもと変わらない冷静さで、二人を観察する。
「二人の意思は分かりました。何が起きても私は責任取れません」
久城と石井は同時に頷く。
「自分の事は自分でなんとかします。だから、教えてください」
屋敷で何があったのかを知らない石井が、懇願するように俺たちを見る。
俺は久城に顔を向けた。
「屋敷の事は久城さんに聞いてください。久城が証人なので」
久城がコップに入っているお茶を一気に飲み干すのを見届けると、俺は立ち上がり、二階に続く廊下に向かって歩き出す。
「私は二階にある証拠品を取りに行くので、その間に説明しててください」
背後で久城が小さく頷き、重い口を開き出す。
俺は構う事なく廊下を抜け、軋む階段を登り始めた。
廊下で一人になると、胸の奥に封じ込めた筈のどす黒い感情が、堰を切ったように戻ってくる。
しっかりしろ。こんな所でしくじる訳にはいかないんだ!
情なんて捨てろ。あいつらを巻き込むな
俺はコピー機がある部屋に足を踏み入れた。
機械の上には、印刷し終わった現像写真が何枚も、死体のように積み重ねられている。
写真を集めて、トントンと端を整える。ビニールが擦れる硬い音が部屋に響いた。新品のファイルを掴み、さらに洞窟で預かっていた久城のボロボロのノートも持ち出す。
久城と石井が待っているリビングへ戻るため、階段を下りる。一歩下りるごとに、せっかく固めた心がグラグラと嫌な音を立てて揺れ出す。
リビングに入ると、久城と石井の姿が妙に遠く、ボーッと霞んで見えた。
二人は真剣な顔で屋敷の出来事について話している。
石井の顔はみるみる青ざめ、やがて久城と同じように小刻みに震え出していた。
やっぱり、この二人は正常なんだ
コレから、上手く隠していけるのか?
誰にも話せない秘密ほど、心を蝕む辛いものはない。
石井が俺の気配に気がついたのか、ハッとこっちを見た。
震える手をもう片方の手で必死に抑え込みながら、怯えた、酷く不安そうな目で俺の顔を凝視する。
「宮野さん……大丈夫ですか?」
なんで、俺の心配をする。
大丈夫じゃないのは、今にも壊れそうな石井の方だ。
「どう言う意味ですか?」
俺の問いに、久城もまた弾かれたように顔を上げ、心配そうに俺を見た。
「気がついてないんすか?……宮野さん、今にも泣きそうっすよ?」
は?
後頭部を鈍器で殴られたような衝撃が走る。
俺は思わず、自分の目元に触れた。
指先に、熱い液体が触れる。溜まっていた涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちてきた。
意味が分からない。なぜ俺が泣いている?
俺は乱暴に袖で涙を拭い、持ってきた写真とファイルを、大きな音を立ててテーブルに置いた。
「大丈夫です。きっと、ホコリか何かが目に入ったんですよ」
白々しい言い訳で適当に誤魔化した。
何を考えているんだ、俺は。
深く、静かに息を肺いっぱいまで吸い込み、肺が痛くなるほどゆっくりと吐き出す。感情を、また冷たい檻の中に閉じ込める。
「それより、話は聞いたんですね」
石井の表情が、絶望に歪む。
「聞きました……想像、以上でした……」
俺はあのボロボロになったノートを、静かにテーブルの真ん中へ置いた。
それを見た久城が、息を呑んで目を見開く。
「これ……俺が書いたノート、ですよね?」
久城はまるで失われた己の半身に触れるように、恐る恐る手に取り、何ページかゆっくりとめくる。
「でも、なんでノートなんて……」
耐えきれなくなったのか、久城はノートを閉じ、そっとテーブルへ戻した。
その隣では、石井が一枚の写真を手にとり、吸い込まれるように見つめている。
「なんでって。それはもちろん、失踪した人たちが海馬さんに売られたのか確かめるためですよ」
言葉が途切れた瞬間、部屋の空気が鉛のように重く沈んだ。
窓の外から聞こえるのどかな鳥のさえずりだけが、この部屋の異常性を引き立てるように、不自然なほど鮮明に耳へ届く。
「とりあえず、この写真を資料と屋敷の内装で分けるので、少し待っていてください」
二人が取り乱している以上、これ以上の細かな整理は任せられない。俺は必要な資料と、屋敷の見取り図だけを優先して仕分けていく。
「資料だけでも、結構ありますね……」
石井が、掠れた声で呟く。
ざっと見ただけでも二十枚以上。写真もかなりの数が混じっている。
この、名前も面識もない人たちが、あの男の手によってどこかへ売り飛ばされたのだとしたら――。
本当に、底の見えない底なしの闇だ。
「ここの家に引っ越してきた人たちは、六世帯でしたよね?」
写真を仕分けながら訊ねると、久城が力なく頷く。
「そうです」
……それにしては、あまりにも多すぎる。
他にも「仕入れ先」があるのか。石井もまた、俺と同じ最悪の結論に達したのだろう。
「明らかに多いんですよ。一家族四人だとしても、人数が全然合いません」
「そう言われたら、そうっすね……」
久城は写真に写る見知らぬ顔を、生気を失った目で一枚一枚見つめる。
「何枚か見ましたけど、俺の知らない人ばかりです」
その言葉と、同時だった。
石井が突然、激しい吐き気に襲われたように口元を押さえ、身体を折るように屈み込んだ。
「う、くっ……」
苦しげな、獣のようなうめき声が漏れる。
「石井さん!?」
久城が慌ててその背中に手を当て、何度もさする。
「何か、知ってる顔でもありましたか!?」
石井は血の気の失せた震える手で、一枚の写真をテーブルへ滑らせた。指先が、ガチガチと音を立てそうなほど激しく震え、その写真を指し示す。
そこには、石井と同じくらいの年齢の、あどけない笑顔を浮かべた若い女性が写っていた。
「前に、話した……私の、友達です……っ……」
俺は怯え切り、呼吸を荒くする石井の表情を見る。何かに縋るように、虚空を掴もうとする震える手を見る。
胸の奥に、どす黒い靄が急速に広がっていく。
だから言ったんだ。手を引け、と。
隣で石井を支える久城もまた、幽霊でも見たかのように青ざめた顔をしている。二人とも、突きつけられた「現実のグロテスクさ」に、精神が耐えられなくなり始めていた。
「石井さん。隣の部屋でお茶でも飲んで、少し落ち着いてきてください」
石井は涙をボロボロと溢れさせながら、拒絶するように首を横に振る。だが、俺はそれを許さない。久城へ冷徹な視線を向けた。
「久城さん。石井さんを連れて行ってください」
ここは、普通の人間が踏み込んでいい世界じゃない。
引き返すなら、今が最後のチャンスだ。
――いや、違う。
一人の方が都合がいいんだ。
もっと冷静に。もっと、愉しく。
あの『海馬』という男の首を、蜘蛛の糸で少しずつ、じわじわと締め上げる方法だけを、誰にも邪魔されずに考えていられる。
久城が俺の目の奥にあるものに気付いたのか、小さく息を呑み、静かに頷いた。
「分かりました。……石井さん、行きましょう」
久城は石井の細い肩を支え、半ば強引にリビングから連れ出していく。
カチャリ、と扉が閉まる。
世界から音が消え、濃密な静寂だけが残った。
「……これでいい」
俺は一人、黙々と写真を整理し始める。
久城のノートを開き、写真と一組ずつ照合していく。そこには六組の家族の詳細が記されていた。
新婚夫婦。
幼い子どもを抱えた、幸せそうな家族。
成人した子どもを持つ家族。
寄り添う老夫婦――。
俺は名簿を取り出し、冷酷に一人ずつチェックを入れていく。
……それにしても、やはり多すぎる。
名簿だけで三枚。海馬は一体、どこからこれだけの人間を「調達」してきた?
最後の一枚まで目を通す。六組全員の名前は、確かにそこに載っていた。
だが、それ以上に。
名簿に確かに記載されているのに、それが誰なのか、どこから連れてこられたのかさえ分からない名前の方が、圧倒的に、文字通り桁違いに多かった。
海馬は、この六組だけを相手にしていたわけじゃない。もっと巨大な、悍ましいビジネスの歯車だ。
俺は机に資料を広げ、海馬の裏仕事を暴くためのパズルに没頭していく。
静まり返った部屋の中、自分が今、どんな顔をしているかも忘れて。
自分の口元が、狂気的なほど愉しげに、釣り上がっていることにも気付かないまま。




