久城の想い
俺は――海馬の屋敷を出た帰り、宮野さんにアパートの前で降ろされた。
アスファルトにタイヤの擦れる音を残し、走り去っていくテールランプを見送る。遠ざかるエンジン音が夜の静寂に吸い込まれていくと、急に世界から放り出されたような、圧倒的な孤独感が襲ってきた。
見上げた空は、不気味なほど濃い紫の薄暗がりに染まり始めている。
「……くそっ」
吐き捨てるように呟いたが、頭の芯にこびりついたあの光景は一向に消えてくれない。海馬の屋敷の、あの冷徹なまでに整えられた書斎。そこで目にした極秘資料。
――人身売買の名簿。
安価な家畜のように羅列された名前、年齢。添付された写真に写る、怯えた、あるいは光を失った人々の瞳。あの部屋を支配していた、血と金が混ざり合ったような、吐き気を催す独特の空気。
そして、この現代日本で、すぐ傍の闇で、実際に「人が売られている」という悍ましい現実。
思い出しただけで、胃の奥が雑巾を絞るようにキリキリ
と締めつけられた。内臓が裏返るような激しい吐き気が込み上げてくる。
『もう関わるな』
最後に車内で宮野さんが放った、あの低く突き放すような声が耳の奥でリフレインする。
その通りだ。当たり前だ。俺のような凡人が首を突っ込んでいい事件じゃない。一歩間違えれば、今度は自分が名簿に載る側に回るかもしれないんだ。
今なら、まだ引き返せる。何も見なかった、何も知らなかったことにして、いつもの退屈で平和な日常へ逃げ込めばいい。忘れてしまえばいいんだ。
そう思考が結論を出した瞬間――気づけば、俺の身体は走り出していた。
「はぁ、はぁ、っ……!」
アパートの階段とは逆の方向へ、ただがむしゃらに地を蹴る。息が切れる。肺が焼けるように熱い。胸が締めつけられて苦しい。それでも、脳が「逃げろ」と叫び続けて足が止まらない。
あそこから離れないと。あの悍ましい現実から、宮野さんから、一刻も早く遠くへ――。
足がもつれ、転がるように辿り着いたのは、近所の寂れた公園だった。
辺りはすっかり帳が下り、街灯の鈍い光が冷たく地面を照らしている。人影はどこにもない。不気味なほど静まり返っているはずなのに、俺の視界だけがグワングワンと、まるで壊れたメリーゴーランドのように激しく回り続けていた。
脳裏に焼き付いた断片が、鋭い破片となって何度も襲いかかってくる。
机に広げられた資料。
すべてを見透かしたような、海馬のあの計算高い笑顔。
正式なビジネスのように裏で行われている、あの悍ましい現実。
そして――。
その事実を突きつけた瞬間、不敵に、狂気的に、歓喜を浮かべて笑った宮野さんの顔。
何度頭を振っても、どれだけ強く目を閉じても、網膜に焼き付いた悪夢は消えてくれない。全力で走ったせいで身体は酷く熱いのに、指先から手首にかけては、まるで氷を押し当てられたように感覚が失われ、冷え切っていた。
「うっ……げほっ!」
胃の奥から酸っぱい塊がせり上がってくる。
俺は近くの桜の木にすがりつくように手をつき、堪えきれずに胃の中のものをぶちまけた。
地面に落ちる嫌な音が響く。肩を激しく上下させ、荒い呼吸を繰り返す。胃が空っぽになっても、胸の奥底にべっとりと張り付いたあのドス黒い気持ち悪さは、少しも 剥がれ落ちてはくれなかった。
「なんなんだよ、クソッ……あの人も、この街も……みんな狂ってる……!」
歪む視界の中、木の幹のザラザラとした感触だけを頼りに、なんとか身体を支えていた。涙と泥にまみれたような、最低最悪の気分だった。
その時――。
背後の静寂を裂いて、不意に、聞き覚えのある柔らかく透き通った声が届いた。
「大丈夫ですか……っ?」
心臓が跳ね上がる。弾かれたように振り向くと、街灯の逆光の中に、息を切らせた石井さんが立っていた。
「い……石井、さん……?」
なぜ彼女がここにいるのか、頭が混乱する。だが、それ以上にこの凄惨な状況を見られた羞恥心と焦燥感で、心臓が早鐘を打った。胃から再び込み上げてくる熱いものを、必死に喉の奥で噛み殺す。
「久城さん! どうしたんですか、そんな……っ。我慢しないで、吐いてください!」
石井さんは顔を真っ青に染め、慌てて俺の元へと駆け寄ってきた。そして、戸惑うことも、汚れることを厭うこともなく、その小さく温かい手で俺の背中を何度も、優しくさすり始めた。
――違うんだ。こんな格好悪い姿、こんな無様なところだけは、一番見られたくなかったのに。
「久城さん。ここで、少しだけ待っていてください。すぐ戻りますから」
俺が声を絞り出すより早く、石井さんは祈るような視線を残し、夜の闇の向こうへと駆け去っていった。
彼女の足音が遠ざかり、姿が見えなくなった瞬間――張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
「っ……、う、あ……!」
堪えていたものが、濁流となって口から溢れ出た。何度も何度も胃液を吐き出し、涙で視界が完全に遮られる。
ひとしきり吐き終えると、俺は袖口で乱暴に口元を拭った。惨めだった。情けなくて死にそうだった。石井さんが戻ってくる前に、一刻も早くこの場所から消え去りたかった。
ふらつく足に無理やり力を込め、一歩、また一歩と、公園の出口へ向かって歩き出す。
だが、数歩進んで、古びたベンチを通り過ぎようとしたその時――。
「久城さん! ダメじゃないですか!」
背後から、いつもより少し高い、鋭い声が俺を呼び止めた。
振り返ると、石井さんが大きく肩を上下させながら走ってくるところだった。額には汗が浮かび、その手にはさっきまで持っていなかった、コンビニの小さなビニール袋が揺れている。
「ここに、座ってください」
彼女は息を整えながら、厳しい口調でベンチを指さした。
俺は気まずさから、一歩だけ後ろへ後退る。
「いや……平気ですよ。ちょっと、飲みすぎただけっていうか……」
苦しい嘘をつく俺の顔を、石井さんは下から覗き込んできた。
「顔、真っ青じゃないですか! 全然平気に見えません。いいから、ちゃんを楽しむように、言うこと聞いてください」
差し出された小さな手が、俺の手首を不意に掴む。
驚いた。華奢な彼女の身体のどこにそんな力があるのか、ベンチへと引っ張る腕の力は思いのほか強引で、頑固だった。
いつもなら、好きな女の子にこんな風に迫られたら、不謹慎にも少し嬉しいと思っていただろう。だが、今はその資格すらないように思えた。こんな情けない姿を見せたままで、甘えるように素直に座ることなんて、男のプライドが許さなかった。
「本当に、大丈夫っすよ。ほら、この通り」
俺はいつもの軽い調子を装い、無理やり口角を上げて笑ってみせる。しかし、引き攣った笑みはすぐに、彼女の真剣な眼差しに遮られた。
「全然、大丈夫じゃないです」
石井さんは少し痛ましそうに眉をひそめると、俺の肩を両手でぐっと押し込んだ。
元から限界を迎えていた俺の身体に抵抗する力は残っておらず、ストン、と頼りない音を立ててベンチへ腰を下ろす形になった。
それを見て、石井さんはようやく安心したように深い息をついた。ベンチの横にビニール袋を置き、カサカサと音を立てながら中を探る。
「男の人って、なんでそうやって、すぐに強がるんですかね……」
ぽつりと、呆れたような、でもどこか愛おしむようなため息をつく。
取り出されたのは、冷えたミネラルウォーターのペットボトルだった。彼女は手際よくキャップを捻って開けると、それを俺の目の前に差し出した。
「水、買ってきました。とりあえず、口をゆすいで、それから少しずつ飲んでください」
「……すんません」
受け取ったボトルを傾け、まずは口の中の酸っぱい不快感を吐き出す。それから、冷たい水を喉へと流し込んだ。一気に飲み干す。冷気を含んだ液体が食道を通り、熱を持って荒れ狂っていた胃の腑へ落ちていくと、驚くほどスッと吐き気が和らいでいくのが分かった。
「……ありがとうございました。助かりました」
ボトルを握りしめたまま礼を言い、ようやく顔を上げる。街灯の下の石井さんは、困ったように眉を下げ、壊れ物を扱うかのような不安気な瞳で俺をじっと見つめていた。
「今日は……宮野さんと海馬さんのお屋敷へ、行ってたんですよね?」
静かな、波紋を立てないような声だった。
「……何か、あったんですね。そこで」
その一言が、鋭利な刃物となって俺の胸の最も柔らかい部分に突き刺さった。
屋敷の冷たい空気、名簿、海馬の傲慢な態度、そして――宮野さんのあの歪んだ笑顔。今日一日の、処理しきれない濁流のような出来さが、頭の中で高速で再生される。
「……すみません」
俺は耐えかねて俯いた。膝の上で、握った拳が小刻みに震える。
「今、頭の中が……本当に、ぐちゃぐちゃなんす」
自分で驚くほど、情けなく、掠れた声が漏れ出た。
石井さんは、そんな俺を憐れむこともしなかった。子ども扱いして茶化すこともしなかった。ただ、真っ直ぐに、すべてを受け止めるような穏やかな瞳で俺を見つめ、小さく、包み込むように微笑んだ。
「たまには、いいと思いますよ。弱音を吐くのも。人間なんですから」
その、肯定してくれるような優しい声音を聞い
た瞬間――胸の奥底で決壊寸前だった感情のダムが、轟音を立てて崩れ落ちた。
「なんなんですか……あの屋敷は……っ」
一度溢れ出した言葉は、もう止められなかった。震える声が、夜の公園に響く。
「どうして……あんな非道いことが、平然と行われてるんすか……! 人を、人間をなんだと思ってるんだ……っ!」
具体的な内容は口にしなかった。いや、できなかった。さすがの俺でも、これが一歩間違えれば命を落とすレベルの危険な機密であることくらいは察していた。こんな優しい彼女を、その汚泥に巻き込むわけにはいかない。だから「人身売買」という言葉だけは、喉の奥で必死に飲み込んだ。
だけど、感情だけが暴走する。
「それに……宮野さんも……っ」
息を吸い込むたびに喉が引き攣る。震える唇を必死に動かした。
「あいつ……やっぱりおかしいんです。まともじゃない」
堰を切ったように、俺の口から告白が溢れ出す。石井さんは何も遮らず、ただ「うん、うん」と小さく頷きながら、俺の支離滅裂な話に耳を傾けてくれた。まるで、夜泣きする幼子をあやす母親のような、絶対的な包容力を持って。
「俺は……あの屋敷で見たものが本当に怖くなって、逃げ出したくなったんす」
震える声で、自分の醜い本音を絞り出す。
「宮野さんに頼まれたことも、あいつのことも全部投げ出して……遠くへ逃げたかった。関わりたくなかった……!」
目尻が急激に熱くなる。耐えようと奥歯を噛み締めたが、涙が滲んで視界がグズグズにぼやけていく。
「あんな悍ましい現実を見たら……普通、逃げたいって思いますよね? 俺、間違ってないですよね……っ」
喉の奥が震えて、うまく息が吸えない。
「なのに、宮野さんは……俺が屋敷の闇を見つけたって話したら……笑ったんすよ。狂ったみたいに、楽しそうに……。まるで、最高のおもちゃを手に入れた子どもみたいに……っ!」
あの車内での、三日月のように歪んだあいつの瞳が脳裏から離れない。男のくせに、どこか妖艶で、同時にゾッとするような狂気を孕んだ笑顔。
「あれは……まともな人間の反応じゃないです。あいつも、海馬と同類なんだって……そう思ったらゾッとして。だから、もう見捨てて逃げようって、そう決めたんです」
言葉を区切るたび、胸が引き裂かれるように痛んだ。
「でも……っ、車を降りる時、宮野さんが……あんな目で俺を見るから……」
膝の上の拳に、爪が皮膚に食い込むほど力を込める。
「あいつ……あんなに狂ったように笑ってたくせに、最後、俺を見る目は……今にも泣き出しそうだったんすよ……!」
あの、一瞬だけ見せた、酷く孤独で、脆くて、今にも消えて
しまいそうな瞳。それが脳裏に焼き付いて離れない。
「だから……裏切って逃げることなんて、俺にはできなかった……っ!」
ハアハアと荒い息をつきながら、俺はすべてを吐き出した。
石井さんは、最後まで一言も口を挟まなかった。ただ静かに、俺の吐き出した泥のような感情を、その綺麗な心で受け止めてくれていた。
「アパートの部屋にも戻れなくて……気づいたら、ここまで走ってきてました」
俺は再び深く俯き、地面に落ちる涙のシミを見つめながら呟いた。
「俺……最低っすよね。宮野さんを見捨てようとしたのに……」
ポツリ、と涙が一滴、デニムの膝に染みを作る。
「……どうしても、見捨てられないんす」
情けない、あまりにも情けない男の独白だった。
すべてを言い終えた公園には、ただ虫の声と俺の微かな鼻をすする音だけが残された。
石井さんは何も言わず、ただ静かに頷いていた。そして、そっと手を伸ばすと、子供の髪を整えるように、俺の頭を優しく撫で始めた。その手のひらの温かさが、冷え切っていた俺の頭芯まで染み渡っていく。
「そうですね」
驚くほど穏やかで、確信に満ちた声だった。
「宮野さんは何でもできますし、頭が良いですから。きっとこの先のことまで、全部自分で考えて行動しているんだと思います」
その言葉に、俺は小さく頷いた。確かにそうだ。宮野さんは天才だ。戦闘も、頭脳戦も、俺なんか足元にも及ばない。俺がいようがいまいが、あいつは一人で全部解決してしまう。
ずっと、足手まといの俺がいる意味なんてないと思っていた。
「でも――」
石井さんは、撫でていた手をそっと離し、悪戯っぽく、そして最高に優しく微笑んだ。
「意外と、分かっていないこともあるんですよ、あの人は」
「え……?」
顔を上げる俺に、彼女は言葉を紡ぐ。
「私たちが、どれだけ宮野さんのことを心配して、心を痛めているか……宮野さん自身は、ぜんぜん気付いていないんです。自分の傷には、とっても疎い人だから」
その言葉が、すとんと胸の腑に落ちた。あの万能に見える宮野さんの、致命的な欠陥。
「だから」
石井さんは俺の目を真っ直ぐに見つめ、背中を押すように微笑みかけた。
「久城さんが宮野さんの『仲間』になれば、安心ですね」
「……俺が?」
「はい。足りないところを、きっと補い合えます。宮野さんにないものを、久城さんは持っていますから」
補う。
俺が、あの完璧に見える宮野さんの、足りない部分を?
そんなこと、一度も考えたことがなかった。ただ振り回され、守られるだけの存在だと思い込んでいた。だけど、もしあいつが「自分の傷に気づけない」のだとしたら。最後に、あんな泣きそうな目を俺に向けていたのだとしたら――。
「……明日」
気づけば、固まっていた決意が、自然と熱い言葉になって口をついていた。
「明日……もう一度、宮野さんの家に行ってみます。逃げずに、ちゃんと話してみます」
石井さんは、まるで自分のことのように嬉そうに、パッと表情を輝かせた。
「はい! 私も付き合います」
「えっ、石井さんも?」
「もちろんです。私も、きっと二人の力になれると思うので。それに、久城さんを一人で行かせるのは心配ですしね」
少しからかうような彼女の言葉に、俺の張り詰めていた頬の筋肉が、ようやく緩んだ。
「はは……そうっすね。頼りにしてます」
小さく笑い返すと、胸の支えがすっかり消え去っていることに気づいた。
夜風が、二人の間を静かに、けれどどこか心地よく吹き抜けていく。
俺たちはそれからしばらくの間、言葉を交わすこともなく、ただ寄り添うようにして、静かな夜の公園で並んで過ごした。不気味だった夜空は、いつの間にか、穏やかな星空へと変わっている気がした。




