引き返す選択
屋敷を後にした俺と久城は、闇に包まれた夜道を滑るように車を走らせていた。
助手席の久城は顔を青ざめさせ、まるで骨を抜かれたかのように背もたれへ深く項垂れている。
俺は窓を数センチ開け、外の空気を滑り込ませた。
流れ込んでくる生ぬるい夜風が、互いの前髪を不規則に、静かになびかせる。街灯の光が、交互に久城の青白い横顔を照らしては闇に沈めた。
「久城さん、大丈夫ですか? 何があったんですか?」
久城の喉が小さく痙攣するように震えた。
絞り出すような声はひどく掠れ、今にも風の音にかき消されそうだった。
「俺……角の部屋で、見ちゃいけないものを、見て……」
横目で見ると、彼は膝の上で両手を強く握り締めていた。指の関節が白くなるほどの力で、全身の震えを必死に抑え込もうとしている。
「写真は撮れたんですか?」
久城はロボットのようなぎこちない動きで、スーツの内ポケットから小型カメラを取り出した。そして、逃げるようにそれをダッシュボードの上へ置く。
「撮れました……でも、宮野さん」
一度言葉を切り、乾いた音を立てて唾を飲み込む。
「できるなら、今すぐこの町から出ていってください。この町は……狂ってる」
『狂ってる』
その一言が鼓膜に触れた瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。
自分の故郷を「狂っている」と他者に言わしめるほどのドス黒い罪を、この町はひっそりと隠し持っている。
だが、胸の奥から湧き上がるこの激しい鼓動は、決して不安でも恐怖でもなかった。
待ち侘びた剥き出しの真実が、すぐそこまで迫っているという歓喜のシグナルだ。
「その部屋に、何があったんですか?」
気づけば、いつもの貼り付けたような冷静さは消え失せていた。
俺はハンドルを握る手を固くし、久城の方へわずかに身を乗り出す。食い入るような視線が彼を捉えた。
久城の喉が、ごくりと鳴る。
「ひ……人が……」
声が小さすぎる。風の音に遮られ、何を言ったのか判別できない。
「もう一度言ってください。聞こえなかったんです」
久城は拒絶するようにぎゅっと目を閉じ、肺がはち切れんばかりに大きく息を吸い込んだ。
そして、狭い車内に鼓膜を震わせるほどの声で叫んだ。
「人が売られていたんです!」
その瞬間、久城の身体から完全に力が抜けた。操り人形の糸が切れたように前へ倒れ込み、両手を膝に突く。スラックスの生地に、彼の絶望の深さを物語るような皺が深く刻まれていく。
──人が、売られていた。
俺はその事実を脳内で咀嚼した瞬間、腹の底から奇妙な笑いが込み上げてくるのを止められなかった。
「ハ……ハハッ……ハハハハハッ!」
喉の奥から溢れ出した笑い声は、自分自身でも制御不能だった。
想像を遥かに超えていた。これほどまでに醜悪で、これほどまでに刺激的な真実が待っていたなんて。
いつぶりだろうか。退屈で平坦だった俺の世界の、こんなにも胸が高鳴るのは。
きっと俺は、あの『海馬』という男に会うためにこの町へ引き寄せられたのだ。確信が、冷たい電流となって背筋を駆け抜ける。
笑い声がようやく収まる頃、久城は助手席のドアに限界まで身体を押し付け、怯えきった目で俺を見つめていた。
それは、暗闇の中から現れた得体の知れない化け物を目撃してしまったかのような視線だった。
「突然、すみません」
俺はわざとらしく口元を手で押さえ、乱れた呼吸を整える。
「久城さんの言ったことが、本当なら……」
──最高だ。
危うく口から零れ落ちそうになった言葉を、辛うじて喉の奥に押し込める。
バックミラーに映る今の俺は、一体どんな顔をしているのだろう。きっと狂気に歪んだ、この上なく幸福そうな笑顔を浮かべているに違いない。
「宮野さんは……なんでそんな……平気、なんですか……」
久城は視線を彷徨わせ、縋るように小さく首を振った。
「……いや、違いますね。あなた、嬉しそうなんだ」
その指摘に、思わず口元の笑みがさらに深く、鋭く吊り上がる。
久城は時折、驚くほどこちらの本質を見抜く。彼は俺の表面的な取り繕いを見破り、正しく理解したのだ。
俺は恐れてなんかいない。この町の底に眠る最悪の真実に触れられることが、たまらなく嬉しいのだと。
「久城さんには、そう見えたんですね」
俺はそれ以上否定も肯定もしなかった。
車内を支配するのは、単調なエンジンの振動音と、切り裂かれる風の音だけになった。
久城は真っ直ぐ前方の、ヘッドライトが照らす夜道を見つめたまま、ぽつりと静かに口を開く。
「見えましたよ。……今の話を聞いたなら、一刻も早くこの町から出てください。きっと今日の侵入は、向こうにも気づかれています」
言い終えると、彼は再び視線を落とし、膝の上で震える
拳を見つめた。
「時間がなくて……資料を、完全に元の通りには戻せなかったんです……」
そんなことは最初から百も承知だ。
彼がプロの工作員のように、痕跡一つ残さず完璧に立ち回れる人間なら、最初から俺は彼にこんな危険な依頼はしていない。
俺はハンドルを握り直し、久城が住むアパートの方向へ、さらに深くアクセルを踏み込んだ。
「分かりました。久城さんは、もうここまでです」
一拍置き、あえて冷徹なトーンで告げる。
「これ以上、この件には一切関わらないでください」
それは、俺なりの精一杯の警告だった。
これ以上踏み込めば、二度と普通の人間には戻れない。いや──あの忌々しい屋敷へ足を踏み入れた時点で、彼も、俺も、もう手遅れだったのかもしれないが。
久城はゆっくりと顔を上げ、俺の横顔を凝視した。
「宮野さんは……」
だが、その先の言葉を紡ぐだけの気力は残っていないようだった。
俺は小さく息を吐き出す。
「前にも言いましたよね。私は、この件から逃げることはできません」
言い切ると、久城は痛々しいほど強く唇を噛み締めた。そして、今にも消え入りそうな蚊の鳴くような声で呟き始める。
「あの名簿に……いたんですよ……」
一度、言葉が詰まる。
「俺の友達が……。写真も挟まってて……それを見た瞬間、なぜか、宮野さんの顔が頭に浮かんだんです」
久城は、俺が思っていた以上に俺という人間に情をかけてくれていたらしい。だからこそ、こんな地獄へ巻き込みたくなかったのだろう。
それでも──俺の足は止まらない。
人身売買という言葉を聞いた瞬間、俺の心は完全に躍ってしまっていた。
退屈で、灰色だった白黒の世界に、ようやく鮮烈な血の色のインクが差したのだ。
誰にやめろと懇願されようが、俺はもう立ち止まれない。
「久城さん、大丈夫ですよ」
俺は彼を安心させるための、完璧に計算された穏やかな笑みを浮かべてみせる。
「いざとなれば、その時は上手く逃げますから」
当然、真っ赤な嘘だ。
どれほど破滅的な危険が待っていようとも、俺が引き返すはずがない。万が一捕まるようなことがあっても、そこからさらに足掻き、逃げ出す準備だけは怠らない。
泥を這ってでも真実を暴く。それが俺の生き方だ。
「……久城さんも、くれぐれもお気をつけて」




