屋敷の真相
重苦しい空気と、あの二人が放つ異様な威圧感に耐えかねて、俺は兎のように部屋から逃げ出した。
苦し紛れの、下手くそな嘘までついて。
とりあえず、教えてもらった通りに廊下を進む。
「宮野さん、ここに来るまでにカメラ二台見つけたって言ってたよな……」
ぽつりと漏れた独り言が、静かな廊下に虚しく響いた。
あの一瞬で防犯カメラの位置を把握するなんて、あの人はやっぱり格が違う。俺なんて、ただボーッと後ろをついて歩きながら、お上りさんみたいに綺麗な内装を眺めていただけだ。
トイレに駆け込み、便座に腰を下ろしてようやく息を吐く。
おもむろに、スーツのポケットに忍ばせていた小型カメラを取り出した。
「すごい、小っさ……。こんなので本当に撮れるのか?」
手のひらに収まるそれを天井に向けてみる。小さな液晶モニターには、さっきまで見上げていた天井の格子模様が鮮明に映し出されていた。
「小さ! なんか可愛いな、これ」
緊迫した状況を忘れ、思わず頬が緩む。
便座から立ち上がり、トイレを出た。
しかし、そのまま戻る気にはなれなかった。周囲をキョロキョロと見回し、好奇心に駆られるまま、来た道とは反対方向へ歩き出す。
おもちゃを手に入れた子供のように、気になったものを片っ端からレンズに収めていった。
――こんなに乱雑に撮って、後でどこを撮ったか分からなくならないか?
いや、間違いなく分からなくなる。というか、もうすでに自分がどこを歩いているのかすら怪しい。
目の前の扉に手をかけ、ドアノブを回してみる。
ガチャガチャ。
「開かないか……」
まあ、そのうち開く部屋もあるだろう。軽い気持ちでさらに奥へと足を進めた。
屋敷の突き当たり。
そこにある扉だけが、他の部屋とは一線を画す、物々しい雰囲気を放っていた。
ここって、入っちゃまずい場所か……?
そう思いながらも、気づけば手がドアノブへと伸びていた。
ゆっくりと捻り、押し込む。
低く軋む音を立てて、扉が内側へと開いた。
「なんだ、この部屋……」
壁際の本棚には重厚な書籍がぎっしりと詰め込まれ、中央には大きなマホガニーのテーブル。そしてその奥には、圧倒的な存在感を放つ巨大な金庫が鎮座していた。
吸い寄せられるようにテーブルに近づき、脇にある引き出しをそっと引く。
中に収められていたのは、紐で縛られた分厚い資料の束だった。
ゴクリと乾いた喉が鳴る。一枚目をめくった。
『相場』
『商品の出費額』
『品目』
几帳面に整えられた表だ。俺は何気なく、『品目』の欄に目を移した。
○十歳 男
○四十五歳 女
○十六歳 女
……品目って、これ、人間のことか?
頭の芯が急激に冷えていく。背筋に凍りつくような戦慄が走った。
俺はパニックになりかけながらも、夢中で小型カメラを構え、資料を一枚ずつレンズに収めていった。ページをめくる手が、恐怖でせわしなく震える。
資料の終盤に差し掛かった時だった。
挟まれていたのは、顔写真。
「っ……!」
俺は思わず悲鳴を噛み殺し、口元を手で覆った。
恐怖のあまり、持っていた資料をテーブルに投げ捨てる。バサバサッと激しい音を立てて、紙が四散した。
「なんだよ、これ……嘘だろ……」
目に飛び込んできた写真の顔ぶれ。それは、さっきあの家にいた人たちだった。
売られて、いくんだ。ここにいると、みんな。
身体はカッと熱くなっているのに、顔の血の気が引いていくのが自分でも分かった。
震える手で、散らばった資料を必死にかき集める。一枚一枚、狂ったようにカメラに収め、なんとか元の場所へと戻した。
早く出ないと。
逃げないと。
ここにいたら……俺も。
いや、待て。こんなに広い屋敷だ。下手に飛び出せば迷路に迷い込む。
だが、迷っている時間なんて一秒もない。
「こういうのって……見取り図とかないのかよ!?」
半狂乱になりながら、テーブルの引き出しを片っ端から引き抜いた。
ペン、書類、鍵――違う、これじゃない、これでもない!
焦りで呼吸が浅くなり、視界がチカチカする。
「頼むから、あってくれ……!」
祈るような気持ちで、最後の引き出しに手をかけた。
その奥に、折りたたまれた古びた大きな紙があるのを見つけた。
引っ張り出して震える手で広げると、そこには探していた屋敷の全域図――見取り図が描かれていた。
「こ、これだ……!」
急いで小型カメラのシャッターを切る。見取り図を乱雑に折りたたんで引き出しに戻し、散らかした資料を押し込んだ。
早く出ないと。早く。
ドアノブを掴み、勢いよく引っ張る。
その瞬間――。
「何をしているんですか?」
冷徹な声が降ってきた。そこには、表情の消えた男が立っていた。
俺は目の前の海馬の、わずかな表情の変化も見逃すまいと、その一挙手一投足を注視していた。
久城がトイレに立ってから、もう随分な時間が経過している。
遅すぎる。何かトラブルに巻き込まれたか。頭の片隅で、嫌な予感がじわじわと膨らんでいた。
海洋開発についての詳細なフェーズを語っていた、その時だった。
海馬がふっと話を止め、顔を上げた。
「久城さん、遅いですね」
射抜くような視線が俺に注がれる。
「迎えにでも行かせましょうか?」
試されている。ここで拒否すれば、かえって不自然極まりない。
「お願いしてもよろしいですか? あまりに立派なお屋敷ですから、きっと迷子になってしまっているんですよ」
俺は極めて自然な営業スマイルを貼り付け、怪しまれない絶妙なラインでフォローを入れた。
「少々そそっかしい男でして。忘れ物も多いですし、新しい場所のルートを覚えるのも苦手なタチなんです」
海馬は、フッと人当たりの良い笑みを浮かべた。
「うちの屋敷にも、そういう手のかかる使用人がいますよ」
そう言って、背後に影のように控えていた男に視線を送る。
「佐藤。迎えに行ってやってくれ」
「かしこまりました」
佐藤と呼ばれた男は音もなく一礼すると、滑るように部屋を出ていった。
俺は内心の焦りを押し殺し、何事もなかったかのように企画の話を再開した。
それからしばらくして、久城が佐藤に連れられて戻ってきた。
その顔を見た瞬間、俺は心の中で激しく舌打ちをした。
紙のように白い顔。定まらずに泳ぎ続ける視線。
本人は必死に隠しているつもりだろうが、何らかの「致命的なタブー」に触れてきたことが一目で分かった。
――当然、海馬がこれを見逃すはずがない。
「久城さん、大丈夫ですか?」
海馬の穏やかな声が、かえって蛇の這うような不気味さを帯びて響く。
「ひっ……!」
久城は目に見えて肩を跳ねさせ、哀れなほどに身体を震わせた。
まずい。完全に呑まれている。
「調子を崩されたのですか?」
俺はすぐさま席を立ち、久城に歩み寄った。彼の肩をすれ違いざまに強く支え、海馬から死角になる角度で、耳元に極小の声で囁く。
『私に話を合わせろ』
そのまま、何気ないトーンを装って声を張った。
「そんなにお腹を壊していたんですか?」
久城がビクつきながら、小さく頷く。
「はい……」
「具合が悪くてずっと閉じこもっていたんですか? それとも、戻ろうとして道を間違えてしまったんですか?」
助け舟の意味を込め、あえて二択の理由を提示する。久城の目が一瞬だけ俺を捉えた。
「も、戻ってた……つもりだったんですけど……」
声の震えが止まっていない。
「気がついたら……奥の方まで行ってしまって……」
久城は生唾を飲み込んだ。
「誰かいないかと思って、目の前の扉を開けたんです……」
最悪だ。やはり踏み込んではいけない部屋に入ったか。
すかさず海馬が口を挟む。
「佐藤。角の部屋にいたというのは本当か?」
佐藤は感情の読めない顔で、静かに頷いた。
「本当です。私が見つけた時には、すでに著しく体調を崩されている様子でした」
チッ、やはり俺自身が見て回るべきだった。この素人め。
だが、今はこいつを回収して脱出するのが最優先だ。
「海馬さん」
俺は久城の肩をがっちりとホールドしたまま、海馬に向き直った。
「連れがこのような状態ですので、誠に不本意ながら、本日はこの辺りで失礼させていただいてもよろしいでしょうか?」
海馬は目を細め、値踏みするようにこちらをじっと見つめてくる。張り詰めた沈黙。
やがて、彼はいつもの柔らかな笑みに戻った。
「そうですね。お大事になさってください。宮野さんとの会話は非常に有意義でした。また機会があれば、ぜひ」
「ありがとうございます。それでは」
俺は久城を支えたまま頭を下げる。ドアに向かって後退しながらも、海馬から絶対に視線を外さない。背後を見せないのは、この手の人間に対する鉄則だ。
海馬が佐藤に顎をしゃくった。
「佐藤。お二人をお送りして差し上げなさい」
「かしこまりました」
佐藤が一歩前に出る。俺は胸中で小さく安堵の息を吐いた。
背中に冷や汗が伝うのを感じながら、俺と久城は佐藤の案内で、あの忌まわしい屋敷を後にした




