腹の内
「入りたまえ」
低く重厚な声が、静かな廊下に響いた。
黒スーツの男――佐藤が、音もなくドアを開く。
室内は、エントランス以上の威容を誇っていた。
壁一面に並ぶ洋書、部屋の隅で静かに時を刻むアンティークの振り子時計。そして中央には、使い込まれた最高級の革張りソファー。そこに、一人の年配の男が深く腰を下ろしていた。
ただ座っているだけだというのに、部屋の空気そのものが男を中心に歪んでいるかのような、圧倒的な存在感。この男が、この町の王、海馬だ。
俺は部屋へ足を踏み入れた瞬間に、完璧な角度の、隙のない一礼を添えた。隣の久城も、圧に圧されたように慌てて頭を下げる。
「失礼します」
佐藤に促され、俺たちは海馬の向かいのソファーへ着席した。
腰を下ろすと同時に、俺は胸ポケットから滑らかに名刺入れを取り出し、美しい所作で一枚差し出す。海馬はそれを、盆栽の枝でも品定めするかのような、細められた目で受け取った。
「宮野さんですね。噂はかねがね聞いていますよ」
俺は一瞬で、完璧な営業用の笑みを顔面に貼り付ける。
「光栄です。悪い噂じゃなければいいんですが」
「悪い噂なんて、とんでもない」
海馬は目元に深い皺を刻み、ニコニコと笑った。だが、その目は一切笑っていない。
「あなたの指導の甲斐もあって、会社も随分と安定したと聞いています。実に優秀な人材だ」
当たり障りのない会話。だが、一言一言の裏にある重量感が違った。まるで、言葉の刃でこちらの皮膚を一枚ずつ剥がされているような感覚だ。
「こちらに来てからは、心強い後輩もできましてね。毎日楽しくやらせてもらっていますよ」
俺の揺さぶりにも、海馬の笑みは微塵も崩れない。仕掛けてくる様子も、こちらの腹を探るような気配すら見せない。完全に、手のひらの上で転がされている。
――なら、こっちから少し深めに踏み込んでみるか。
俺は口元に、フッと薄い笑みを浮かべた。
「そういえば、お借りしている家なんですが……。防犯のため、勝手ながら鍵を交換させてもらいました。事後報告になってしまって、すみません」
謝罪の言葉を口にしながら、俺は海馬の網膜の動き一つ、呼吸の深さ一つまで凝視した。
眉がピクリと動くか。視線がわずかに揺れるか。それとも――。
だが、海馬の表情は恐ろしいほどに変わらなかった。相変わらず、すべてを許す仏のような、穏やかな笑みを浮かべている。
「構いませんよ。前の鍵に、何か不備でもありましたか?」
「不備なんて、とんでもない。ただ、私が住んでいる家に『妙な噂』があると耳にしましてね。念のため、鍵を換えさせてもらったんですよ」
誰かが家に侵入した明確な痕跡――つまり、奴らが仕掛けたかもしれない「工作」については伏せ、あくまで噂を理由にカマをかけるに留める。化かし合いの第一ラウンドだ。
そんな、一歩間違えれば首を刎ねられそうなラリーが続いた、その時だった。
隣に座っていた久城が、不意に背筋を伸ばして口を開いた。
「お話の途中に割って入り、申し訳ありません。……もし、うちの会社が提案した企画の話し合いにすぐ移らないのでしたら、少し席を外してもよろしいでしょうか?」
思わず、俺は視線だけで久城の横顔を見た。
隙があれば部屋を出ろとは言った。だが、まさかこの息もできないような張り詰めた空気の中で、自分から堂々と切り出すとは思わなかった。
――こいつ、実は化け物か?
海馬の威圧感を正面から浴びながらも、久城の声は綺麗に通っており、視線もまっすぐ海馬を捉えている。その土壇場での異常な精神力の強さに、俺は内心で小さく舌を巻いた。
海馬は面白そうに目を細め、獲物を見るような目で久城を見つめる。
「おや、何か急用でもありましたか?」
その問いに、久城が一瞬だけ、助けを求めるように俺を見た。
――おい、まさか理由を考えてなかったのか?
よく見れば、額にじっとりとした汗が浮かび、わずかな動揺が顔に張り付いている。
「あ、いや……ちょっと、お腹を壊したみたいで。トイレに行こうかと……」
ありきたりすぎる、最悪の言い訳だ。せめて「資料を車に忘れた」くらい言えなかったのか。
だが、これ以上の機転をこの男に求めるのは酷だろう。
海馬の背後に控えていた佐藤が、かすかに眉をひそめた。海馬がそれを手で制する。
「それなら、そこにいる佐藤に案内させましょうか」
「いえ! 行き方だけ教えてもらえれば、一人で行けるんで!」
久城は慌ててソファーから立ち上がった。その際、上体を深くかがめた久城の顔が、俺の至近距離に近づく。
俺は海馬や佐藤の視線から死角になるよう、自分の体をわずかにずらし、極小の囁き声で耳打ちした。
「監視カメラに気をつけろ。ここに来るだけでも二台あった。……仕留めてこいよ」
久城の目がわずかに見開かれる。ポケットの中の小型カメラに触れたのだろう。だが、彼はすぐにいつものへらついた表情を取り繕うと、佐藤の元へ向かった。
「トイレ、どちらですか?」
佐藤に大まかな順路を早口で説明され、「うっす、あざす!」と頭を下げて久城は部屋を出ていく。
カチャリ、と重厚な木製のドアが閉まった。
完全な静寂が、再び室内に満ちていく。
俺はゆっくりと海馬へ視線を戻した。
海馬は相変わらず、穏やかな笑みを浮かべたまま、じっとこちらを見ている。まるで、久城が何をしに行ったのか、すべてお見通しだと言わんばかりの目で。
――さて。
ここからが本当の本番だ。
互いに笑顔の仮面を貼り付けたまま、腹の底を刺し合う、極上の時間が始まる。




