宝を語るな
惣菜の油っぽい匂いと、安物の缶ビールの匂いが、狭いアパートの部屋にじっとりと広がっていく。
俺はプルタブに指をかけたまま、二人の顔を見比べた。
海馬の屋敷に乗り込む。
言葉にするのは簡単だが、これに石井を巻き込むのは反対だった。営業の定期訪問を口実にするとしても、上司の今野が許可を出すはずがない。
いや――出す出さない以前の問題だ。
今野は間違いなく、俺たちの動きを止めにくる。
俺の目にはもう、あの人が限りなく「黒」に染まって見えていた。
「案外、久城さんの意見はいいかもしれませんよ」
石井の静かな声に、思わず顔を上げる。
この人がまさか、こんな無謀な提案に賛成するとは思わなかった。いつも誰より慎重なはずなのに。
隣を見ると、当の久城はなぜか我が物顔でふんぞり返っている。お前が偉そうにするな。
「私も、危険がないとは言い切れませんが」
石井はそう前置きして、小さく「いただきます」と呟き、綺麗に揃えた箸を動かした。むさ苦しい男ふたりの間で、彼女の仕草だけが妙に浮いている。
「大丈夫じゃないっすか?」
久城が口いっぱいに唐揚げを頬張ったまま、緊張感のない声を出す。本当に行儀が悪い。
「海馬さんの家にいる間は、むしろ一番安全だと思うんすよね」
「……どういう意味ですか?」
俺が低く問い返すと、久城はニヤリと笑った。
「だって、今まで行方不明になった人たちって、みんなちゃんと海馬さんの家から『帰ってきてる』じゃないっすか」
俺は、ビール缶を握ったまま黙り込んだ。
言われてみれば、その通りだ。
海馬の屋敷を訪れた直後、その場で消えた人間は一人もいない。全員、その日のうちは無事に帰宅している。
だが――問題はその「後」だ。
失踪した人間は例外なく、屋敷を訪ねた翌日の夜に姿を消している。
そして、その奇妙なタイムラグを調べ上げたのは、他でもない目の前で口の周りを油だらけにしている久城本人だった。
……いや、こいつはそこまで計算して「安全だ」と言っているのか?
ただ単に、今夜死ぬ確率が低いからラッキー、程度にしか考えていないんじゃないか。
「……確かに、一理あるかもしれませんね」
本音を隠してそう相槌を打つ俺の耳に、久城の不快な咀嚼音と、石井が静かに食器を置く音だけが、やけに鮮明に響いていた。
「本気で言ってるんですか?」
俺の問いかけに対する、石井の表情は真剣そのものだった。
久城のようにノリと勢いで口にしたわけじゃない。彼女が頭の中でちゃんと思考を組み立て、本気で言っているのが痛いほど伝わってくる。
「本気ですよ。ちゃんとそれなりの計画もあります」
それなりの計画、か。
俺は手元のビールを一口、喉に流し込んだ。
冷たいアルコールが、焦り気味だった脳を少しだけ冷やす。石井をどこまで信じるべきか。
俺が測りかねていると、隣の久城が勢いよく身を乗り出した。
「何か案があるんすか? 聞かせてくださいよ!」
その無邪気な素直さを見ていると、一人で勝手に警戒して、勝手に疑心暗鬼になっている自分がなんだか馬鹿らしく思えてくる。
「うちの会社って建築関係でしょ? だから、海馬さんにこの町に新しい観光スポットを作る提案をするんです。人を呼べる施設や景観づくりを企画して、町全体の活性化に繋げるの」
なるほど。
捻った策じゃない。教科書通りの、真っ当な営業だ。
だが――それがいい。
企画が会社や海馬に通るかどうか、そんなことはどうでもいいのだ。
重要なのは、大義名分を得て、あの屋敷の「内側」へ一度でも足を踏み入れること。
玄関の位置。
部屋の配置。
不自然な人の出入り。
逃げ道になる窓の数。
そういったナマの情報は、実際に中に入って、この目で盗まなければ絶対に分からない。
企画がボツになったとしても、最初の下見としては十分すぎる。もし万が一、奇跡的に企画が通れば、今後は堂々と出入りする理由ができる。
俺は小さく息を吐き、缶ビールを机に置いた。
――悪くない。
いや、むしろこれ以上ない一手だ。少なくとも、無策で乗り込んで自滅するよりはずっといい。
「屋敷に入るだけなら、それでいいかもしれません」
口調だけは冷静に、俺は賛同の意を示した。
だが、喉の奥からせり上がってくる熱い塊を抑えるのに必死だった。
危ない。楽しすぎる。海馬の屋敷への潜入。一歩間違えれば、あの行方不明者たちの仲間入りだ。最悪の結末を想像した瞬間、脳の奥からどっとアドレナリンが噴き出すのが分かった。冷や汗なんかじゃない。全身の血が沸騰するような、極上の高揚感だ。
問題は、今野を納得させる理由。
営業として動く以上、あの疑り深い男を騙せるだけの大義名分が必要になる。
俺は缶ビールを傾け、喉を鳴らして流し込みながら、脳内の引き出しをひっくり返した。
そういえば――あった。
この不気味な町に伝わる、妙な宝の噂。もともと俺がこの土地に目をつけた理由でもある、狂った伝承が。
「そういえば、この町には古い伝承がありましたよね。確か、宝の……」
あえて世間話のトーンで尋ねると、石井と久城が一瞬だけ、視線をぶつけ合うようにして顔を見合わせた。
ほう、と内心で口角が上がる。その僅かな反応を、俺の目は逃さない。
まるで、一番触れてほしくない地雷のスイッチに俺の指が触れたかのような――そんな反応。
俺はビール缶を持ったまま、二人の表情をじっくりと品定めするように観察する。
海馬の名前が出た時とは、少し空気の性質が違う。だが、根底にあるのは似た種類の、重苦しく冷たい沈黙だった。
「ありますけど……それがどうしたんすか?」
久城がいつも通りの軽薄な調子を装い、首を傾げる。だが、唐揚げを突き出す手がさっきより不自然に止まっている。
「観光資源として使えないかと思いまして。その伝承を前面に出した企画にすれば、外から人を呼び込む最高の免罪符になるでしょう。今野さんも納得しやすい」
すると、石井が困ったように眉を八の字に下げた。その瞳の奥に、明確な『拒絶』が浮かぶのを見て、俺の心臓はさらに激しく歓喜のビートを刻み始める。
「普通の町なら、悪くないと思います」
石井はそこで一度言葉を切り、俺を諭すように見つめた。
「でも、この町の宝は……公にしてはいけないことになっているんです」
「公にしてはいけない?」
驚いた風を装って、思わずといった体で聞き返す。
もちろん、声色とは裏腹に、俺の胸のうちは「もっと聞かせろ」と狂いそうだった。
伝承なら、広く語り継ぐものだ。
観光資源なら、なおさら広く宣伝する。
それなのに、隠す。
理屈が通らない。この町には、論理的な思考を拒む『何か』が確実に潜んでいる。たまらないな。
「伝承を観光に利用するのは、あまり得策じゃないと思います」
石井の声はどこまでも静かだった。
だが、その言葉には、素人の脅し文句とは一線を画す、本物の生々しい重みがあった。
俺は、目の前にある極上の謎を前に、喉の渇きを覚えるほどの興奮を感じていた。
焦るな。一つずつカードをめくるように、可能性を潰していくんだ。
「それはなぜですか? 本当は伝承なんて全部嘘で、宝なんて初めから存在しない……とか?」
俺の問いかけに、石井と久城は同時に首を横に振った。
――宝は、ある。
そこは間違いないらしい。心臓の鼓動が一段と跳ね上がる。実在するタブーほど、俺を狂わせるものはない。
「では、その宝は人に見られると困るような、何か邪悪なものなんですか?」
今度は、久城が首を横に振った。
だが、石井は怯えを孕んだ瞳で、ゆっくりと首を縦に振る。
俺はグラスを傾けるのを止め、目を細めた。
――意見が割れた。
面白い。宝そのものの存在ではなく、その価値や、それがもたらす意味への認識に、この二人でさえズレがあるのだ。この歪みは一体どこから来ている?
「その宝は、特定の誰かの監視下にあって、住人たちは怯えて口に出せない……そういうことですか?」
今度は、二人ともが深く首を縦に振った。
やはり、この町全体が巨大な秘密を隠蔽している。そう考えると、真っ先に脳裏に浮かぶのは、この地の絶対的な支配者である地主の海馬だ。あの悪趣味な屋敷の主。
だが――。
「もっと違うものを考えた方がいいと思います」
それまで唐揚げをがっついていた久城が、信じられないほど冷え切った声で、静かに言った。
「――よし、営業の小難しい話は職場でしましょう! せっかく集まったんですから、ここからは普通に飲みましょ」
俺は一息ついて、手をパチンと高く叩いた。
それが合図だった。部屋を支配していたあの息の詰まるような、愛おしいほどの緊張感が、潮が引くように一瞬で霧散していく。
「そうですね。ちょっと熱くなりすぎちゃいました」
「マジで焦った。宮野さん、急に怖い顔するんだもんなぁ」
石井も久城も、まるで死線から生還したかのように肩の力を抜き、心底安堵した顔で笑っている。
いい気なものだ。俺はにこやかに笑い返し、手元の缶ビールを口元へ運んだ。
――だが、冷え切った脳内では、すでに次の狂宴のシミュレーションが始まっていた。
この町がひた隠しにする、論理の通じない秘密。
「もっと違うもの」という、あの宝の正体。
そして――それを『観光名所』という公の白日の下に引きずり出し、この町を、海馬を、あるいは今野を、根底からひっくり返すための最悪のシナリオを。
プシュッ、と久城が新しく缶を開ける小気味いい音が、狭いアパートに響く。
楽しすぎて、どうにかなりそうだ。
俺はビール缶の影に口元を隠し、誰にも気付かれないよう、暗い愉悦に声を殺して笑った。




