思わぬ提案
俺は買い物袋を片手に持ち、夕暮れのアパートの階段を上っていた。
この際、近所の視線は気にしない。
むしろ不自然に周囲を警戒する方が怪しまれる。
俺は前を歩く久城へ目を向けた。
落ち着きなく首を左右に振り、何度も指先を擦り合わせている。
本当に隠し事が下手な男だ。
「久城さんは休みの日、何してるんですか?」
別に興味はない。
ただ、この沈黙を放置すると久城が余計に挙動不審になる。
「ゲームとか漫画見てます」
さっきまでの落ち着かなさが嘘みたいに明るい声だった。
後ろから石井が興味深そうに顔を出す。
「漫画、どんなの読むんですか?」
「少年漫画ですよ」
階段を登り切り、久城は迷いなく奥へ向かう。
二階の奥から二番目。
逃げ道は一つ。
ベランダから飛び降りることもできるが、骨は折るだろう。
俺は無意識に部屋の構造を頭の中で組み立てていた。
久城は鞄から鍵を取り出し、ドアへ差し込む。
ガチャリ。
「私も少しなら読みますよ、漫画」
石井の声と同時にドアが開いた。
「石井さんも読むんすね……あ、散らかってるんで気にしないで入ってください」
久城は玄関で靴を脱ぎ散らかしながら、リビングへ続くドアを開けた。
俺は中へ足を踏み入れるより先に、さりげなく、だが泥棒の習性で室内の構造に目を走らせる。廊下には二つの扉。一つは位置からして水回り、もう一つは寝室だろう。築年数の浅いアパートらしく、内装は比較的新しい。
リビングへ入ると、住人の人間性が一目で透けて見えた。
部屋の隅には漫画が無造作に積まれ、テレビの前にはゲーム機。テーブルには朝食を食べた形跡のある皿がそのまま放置されている。
汚いと言えば汚いが、一人暮らしの若い男の部屋としては十分許容範囲、といったところだ。
「こっちに座っててください」
久城に促され、俺と石井は並んで二人掛けのソファへ腰を下ろした。
久城は俺がぶら下げていた買い出しの袋を受け取り、そのままキッチンへと引っ込んでいく。
「ありがとうございます」
隣で石井が丁寧に礼を言う。
「職場でお世話になってるんで、これくらいはやりますよ」
そう言いながら、久城は冷蔵庫を開いてビールをしまい、続けて買ってきた惣菜やおにぎりを取り出して電子レンジへ放り込んだ。
静かな部屋に、レンジの低い駆動音だけが響き始める。
俺はその様子をソファからぼんやりと眺めていた。
久城の奴、パックのまま出すかと思いきや、律儀に皿を取り出して惣菜を移し替えている。意外と見栄っ張りというか、几帳面な一面もあるらしい。もっとも、そんな真似をする暇があるなら、朝の皿くらい洗っておけとは思うが。
「それで、私に聞きたいことがあったんですよね?」
不意に、隣から声を掛けられた。
見ると、石井がこちらを真っ直ぐに見つめていた。どこか決意を固めたような、真剣な眼差しだ。
俺は小さく頷いた。
「はい。カラオケボックスで話した件の続きを、少し」
電子レンジのターンテーブルが回る音だけが、やけに大きく部屋に響く。
「事務所で久城さんから聞いたんですよ。失踪前夜の目撃談を集めたのは、俺の家の両隣と、向かいの三軒らしいですね」
俺は一度、あえて言葉を切った。
キッチンでは久城が皿を並べるガチャガチャという音を立てている。聞こえない振りをしているが、あいつの耳は完全にこちらへ向いているはずだ。
「どうやら、その五軒の住人は、判で押したようにみんな似たような話をしているらしい」
俺は石井の様子を窺うように、言葉を続ける。
「石井さんは、この町で他に『変な噂』を聞いたことはありませんか? 例えば住人同士の不可解な揉め事とか、誰かが急に引っ越したとか……どんな些細な話でも構いません」
その時、タイミングを測ったように、電子レンジがチンと甲高い音を立てた。
久城の動きが止まり、振り返る。
だが、その音と同時に、石井はピタリと口を閉ざした。
何かを思い出したかのような、あるいは――地元の人間として、どこまで話していいものか迷っているような表情だった。
部屋の空気が、目に見えてわずかに重くなる。
俺は黙って、彼女が口を開くのを待った。
私も詳しいわけではありませんが……」
石井の少し硬さの残る声が、静かな部屋に落ちた。
「宮野さんの家から見て、二軒左側の家です」
「ちょっと待ってください」
俺はポケットからスマホを取り出し、画面をフリックして地図アプリを開いた。自宅周辺の航空写真を拡大する。
「この辺ですか?」
石井はソファから身を乗り出し、遠慮がちに画面へ指を伸ばした。
「この家です」
小さな指先が、一軒の戸建てを示す。
「林さんのお宅です」
知っている。
引っ越してきて最初にやったことの一つが、近隣住民の顔と名前、そして家族構成を覚えることだった。泥棒にとっても、知らない土地で足場を固めるにしても、それは当然の準備だ。
「この家の人は、宮野さんが思っているような人じゃないですよ」
石井は静かに、諭すように言った。
どうやら、俺が近隣住民に不審の目を向けていることには気づいているらしい。だが不思議と嫌な気はしなかった。余計な探り合いや建前を省いて本題に入れる分、むしろ話が早くて助かる。
「理由はありますか?」
できれば主観的な感想ではなく、客観的な根拠が欲しい。
石井は頷いた。
「私の両親と林さん、昔から仲が良いんです。私も何度かお邪魔したことがあります」
その間に、久城がキッチンから戻ってきた。温まった惣菜の皿を並べながら、こちらの会話に全力で聞き耳を立てている。
「それで、宮野さんの前に住んでいた人が失踪した前日から……林さん一家は、旅行に行っていたんです」
旅行、か。
俺は胸の前で腕を組んだ。
「嘘だった可能性は?」
「ないと思います」
石井は即答した。地元の知り合いを信じたいという、一般人らしい真っ直ぐな瞳だ。
「お土産もいただきましたし、行き先は沖縄でした。スマホで撮った写真もたくさん見せてもらいましたから」
写真。そこまで具体的な物証があるなら、多少は信用に値する。
だが、詰めが甘い。
「その写真の日付は確認しましたか?」
俺の問いに、石井は少し考え込むように視線を彷徨わせた後、小さく首を横に振った。
「そこまでは、見ていません……」
やはりそこか。
旅行そのものが事実だとしても、それが「失踪前夜」と完全に重なっていたかどうかは別問題だ。アリバイの偽装なんて、日付を一日ずらすだけでいくらでも成立する。
俺が一人で考え込んでいると、久城が空いた皿を重ねながら、横から口を挟んできた。
「それなら、石井さんのお母さんに聞いてみたらいいんじゃないっすか?」
「え?」
「お母さん、林さんから旅行中の写真、リアルタイムで送ってもらってたって言ってましたよね?」
確かに、それが一番手っ取り早い。
メッセージの送信日時が残っていれば、林家がいつ現地にいたのか、その足取りを正確に絞り込める。
だが――。
今さら、何の関係もない俺がそんなことを根掘り葉掘り尋ねれば、不自然極まりない。確実に怪しまれる。
俺はソファに深く背を預けた。
石井の言っている話が全部嘘だとは思わない。彼女は自分が見聞きした「本当のこと」を話しているだけだ。
問題は、その善意の事実だけで、林家を完全に「白」だと判断していいかどうかだ。泥棒の勘が、まだ何か引っかかると警鐘を鳴らしていた。
「私がお母さんに聞いてみましょうか?」
石井がそう提案してきた。
はっきりするなら、それに越したことはない。だが、俺たちの側にリスクが伴う。
俺と石井が裏で繋がっていること、あるいは俺がこの町の過去を嗅ぎ回っていることを周囲に知られたくない。この閉鎖的な町は、ただでさえ噂が広まるスピードが異常に早いのだ。余計な注目を浴びて足が付く事態は避けるべきだった。
そんな俺の懸念を察したのか、石井は小さく微笑んだ。
「宮野さん、大丈夫ですよ。上手く聞きますから」
どうやら、一般人の世渡りというやつを侮っていたらしい。
彼女にそこまで言われたら、引き下がる理由もなかった。俺は短く頷いた。
その間に、久城はキッチンでの作業を終え、温まった惣菜やおにぎりをテーブルへ並べ始めていた。続いて冷蔵庫からビールを取り出す。さっき俺たちが買い足したやつとは銘柄が違う。元々あいつの部屋に冷やしてあったストックらしい。
俺と石井はソファから下り、テーブルを囲むように床へ腰を下ろした。久城も向かいへどっかりと座る。
「石井さんの件は、お言葉に甘えて任せます」
俺はそう言って話を一区切りさせ、次の網を投げる。
「ほかに、何か気になることはありませんか?」
すると、久城が缶のプルタブに指をかけながら、事も無げに口を開いた。
「俺は、こんな風に裏でコソコソ探るより、海馬さんの家に行った方が早い気がしますけどね」
プシュッ。
炭酸の抜ける音が、やけに大きく部屋に響いた。
その言葉を鼓膜が拾った瞬間だった。
背筋の奥を、ぞくりとした鋭い痛覚のようなものが走り抜ける。
魅力的な提案だ。――俺の本能が、あまりにも魅力的だと囁いている。
海馬の屋敷。この町の支配者が居座る、不気味な中心地。
あそこへ直接忍び込み、奴が裏で隠している秘密のありかでも暴いてやれば、今まで積み上げてきた疑問や町の謎の大部分は、一発で片が付くだろう。
だが――。
衝動とスリルだけで動いていいヤマじゃない。あそこへ仕掛けるなら、綿密な準備が要る。間取り、警備体制、人手の確保、それから完璧な逃げ道。すべてを網羅して計算通りに進められなければ、取り返しのつかないことになる。
隣で石井がはっきりと眉をひそめ、久城を睨みつけた。
「簡単に言わないでください」
「じゃあ、営業のついでに行きましょうよ」
久城は本気なのか冗談なのか測りかねる顔で、俺のほうを見てけろりと言ってのける。仕事のついでにちょっと寄ってみましょう、くらいの軽いノリだ。こいつ、自分が何を言っているのか分かっているんだろうか。恐怖心というものがないのか、ただ何も考えていないだけなのか。
「久城さん」
俺は声を一段低くし、静かに諭した。
「物事を早く進めればいい、というものじゃないんですよ」
久城はつまらなそうに肩をすくめると、ビールを一口煽り、惣菜の唐揚げへ箸を伸ばした。
「でも、こんな所でウジウジしてても埒あかないですよ」
その言葉に、俺はすぐに返事を返せなかった。
いや、返さなかったと言った方が正しい。
こいつの無鉄砲さには呆れる。だが、少なくとも――。
膠着した状況を打破するには、一度敵の懐へ飛び込むしかないという久城の言い分にも、否定しきれない一理があったからだ。




