これだから、やめられない
この町に住み始めてから、周囲の家の生活リズムは自然と頭に入っていた。
三ヶ月もあれば、出入りの時間や人の動きは、観察するまでもなく把握できるようになる。
加納家も例外ではない。侵入に必要なピースはすべて揃っていた。
父親は朝から晩まで不在で、今夜は会社の飲み会。母親はパートで15時まで戻らない。子供たちは学校。
昼間、この家が「空っぽ」になる可能性はほぼ100%だった。
見つかるリスクがあるとすれば近所の高齢者くらいだが、常に外を凝視しているわけじゃない。
遠くからゴミ収集車のエンジン音が近づいてくる。通りを満たすその轟音が、この住宅街の視界と注意を一瞬だけ遮る――ここらの動きが最も鈍る、数十秒の空白地帯。
条件は、揃った。
手袋をはめ、余計な肌が出ないように袖を整える。痕跡を残さないための準備は、もう細胞に染みついていた。
収集車の音がピークに達した瞬間、俺は迷いなくベランダから外へ出た。隣家の塀を軽々と越える。
視界が揺れる一瞬のあと、死角となる玄関側へ回り込む。
道具を使うのに時間はかからなかった。鍵は抵抗もなく、カチリと音を立てて外れる。
収集車の音が遠ざかるを見計らって扉を閉め、中からサムターンを回した。
家の中は、ひっそりと静まり返っていた。
靴を脱ぎ、音を殺して奥へ進む。まだ時間はたっぷりある。
隠すなら、生活の中心だ。
リビングを抜け、寝室へ繋がる扉を開ける。一室目は白を基調とした子供部屋のようだった。棚の漫画、テーブルのタブレット、クローゼットの若い服。
一瞥し、すぐに視線を外した。違う。
探しているのは、そんな無害な生活の痕跡じゃない。
『海馬』と、この家の繋がりだ。
部屋を見渡す。整理されているが、その“整え方”に奇妙な癖があった。誰か外部の人間が、管理のために介入しているような不自然さ。
引き出しを開け、書類と封筒の束を指先で弾く。目的は中身ではなく、差出人の欄。
学校、通販、役所――その中に、一枚だけ異質な会社名が混ざっていた。この町の管理や、外部委託に関わる類の組織。
封筒から引き出した紙には、こうあった。
◇◇◇◇◇
拝啓
平素より格別のご理解を賜り、誠にありがとうございます。
さて、加納家に関する資産および契約状況につきまして、当方にて管理・精査を行う運びとなりました。
つきましては、今後の一切の金銭管理および関連手続きは、当方の指示に従っていただきますようお願い申し上げます。
なお、当該事項に関し不備または不正が確認された場合、関係者一同に対し、相応の措置が取られる可能性がございますので、あらかじめご了承ください。
本件につきましては、円滑な進行のため、外部への開示・相談等はお控えいただきますようお願い申し上げます。
敬具
担当 松谷
◇◇◇◇
「また、松谷か……」
名前は出るのに、肝心の確信には届かない。
苛立ち混じりに振り返った先、机の上のデスクトップPCが目に入った。近づき、電源ボタンを押し込む。ファンが静かに回り始めた、その時だった。
――ピンポーン。
鼓膜を貫く電子音に、肩が跳ねた。
反射的に体が動き、外から死角になる壁の影へ身を寄せる。
ドク、ドク、と心臓が跳ね上がる。だが、嫌な感覚じゃない。むしろ、頭の霧が晴れていくように冴え渡っていく。
再び、チャイムが鳴る。静寂の家の中で、その音だけが異様に巨大だった。
見つかれば、一発で終わる。
それなのに、耳が、皮膚が、鋭敏に世界を感知している。呼吸は浅くなり、全身が熱を帯びる。
「……これだから、やめられない」
小さく毒を吐くように、息を漏らした。
数分後、気配が消える。壁から背中を離しても、速い鼓動は収まらない。それが妙に心地良かった。
パソコンの画面はすでに立ち上がっていた。デスクトップに並ぶアイコンの中に、見慣れた緑色のロゴを見つける。
迷わずカーソルを合わせ、LINEのアプリを起動した。パスワードの障壁もなく、簡単に開く。
家族、会社、友人。トーク履歴をスクロールし、下へ、下へと送る。
そして――それを見つけた。
【海馬】
その二文字が目に飛び込んできた瞬間、胸の奥から熱い塊が突き上げてきた。
トーク画面を開く。並んでいたのは、冷徹な監視対象の報告。俺の名前こそないが、文脈で分かる。間違いなく、俺のことだ。
日付を遡る。俺がこの町に引っ越してくる、少し前。
『新しい人が来る。何かあれば報告してくれ』
「……酷いな、お前ら」
呟きながら、スマホのカメラで画面を連写し、記録する。
普通の人間の感性なら「気持ち悪い」と恐怖する場面だろう。だが、俺の胸の奥で膨らんでいたのは、全く別の感情だった。
見つけた。辿り着いたぞ。
誰もが隠そうとした世界の裏側を、今、自分だけが覗き見ている。
怖いんじゃない。この全能感に似たスリルを知っている。ずっと前から。
画面を消す。時計を確認する。証拠は手に入った。長居する理由はない。
帰るべきだ。分かっている。分かっているのに――欲が出る。
「もう少しだけ……」
この至高の感覚を、もっと貪りたかった。気づけば、口元が歪むほど笑っていた。
視線が、二階へ続く階段へ向く。脳の制止を無視して、足が勝手に動いていた。
トン、トン、トン。
音を殺し、快楽を噛み締めるように一段ずつ登る。
二階は子供部屋のほかに、奥に二部屋。近い方の扉を静かに開けると、スーツが吊るされていた。主寝室――当たりだ。
棚のファイルや箱に手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
――ガチャ。
階下から響いた、金属質の明確な解錠音。
全身の血が凍りつき、次の瞬間には、反射的にクロゼットの陰へ身を潜めていた。
バタン、と玄関の扉が閉まる。
呼吸が浅くなり、心臓がうるさいほど肋骨を叩く。脂汗が滲む。
――なのに。
「……最悪だ」
溢れそうになる笑みを必死で噛み殺した。声が愉悦で震えている。
廊下を歩く足音が響く。一歩、また一歩。
二階へ来るか? 息を止める。
だが、その足音は階段へは向かわず、リビングの扉を開けて消えた。
しばらくして、再び玄関へ足音が戻っていく。
バタン。ガチャ。
鍵が閉まる音が、遠くで響いた。忘れ物でも取りに戻っただけだったのか。
暗がりの中で、ゆっくりと肺の空気を吐き出す。
死線。本当に危なかった。そう思うのに、胸の奥の熱は一向に冷めない。
結局、その部屋の棚からは追加の収穫は出なかった。
潮時だ。
静かに部屋を出て、階段を降りる。さっきまで自分の破滅と隣り合わせだった、他人の家。
それなのに、玄関のノブに手をかけたとき、頭をよぎったのは「もっとここに居たかった」という異常な名残惜しさだった。
外へ出て、振り返ることなく歩き出す。
決定的な証拠は手に入った。それなのに、俺の口元は、まだ狂ったように笑ったままだった。




