探る側、探られる側
カメラをすべて引き抜いたことで、ようやく家の中が自分の領域に戻った気がした。
ここ数日、じっとりとへばりついていたあの不快な「視線」から解放され、張り詰めていた神経が少しだけ緩んでいく。
泥のようだった睡眠の質も上がり、身体の調子も劇的に戻ってきた。
だが出社前の朝、いつものように玄関の鍵を閉め、歩き出した瞬間にそれは破られた。
「宮野さん。おはよう」
低く湿った声。振り返ると、隣の家に住むおばさんが生垣の隙間から顔を覗かせていた。
俺は「宮野」としての営業用の仮面を瞬時に貼り付け、爽やかに軽く頭を下げる。
「おはようございます。今日も元気そうですね」
「ええ、私は元気よ」
おばさんは品定めするような目でこちらを見ながら、世間話を装って言葉を続けた。
「そうそう。この前、知らない車が長く停まってたけど……どうしたの?」
ピキリ、と脳内の警戒アラームが跳ね上がった。
――探りか?
それとも、単なる田舎の暇人の好奇心か。
俺はおばさんの顔を凝視する。
表情、目線、声の調子。
こいつはどこまで知っている? カメラが撤去されたことを、あのモニタールームの主から知らされて確認しに来たのか?
自然にそんなことを考えている自分がいた。かつてのコソ泥としてのリスク管理と、営業マンとしての行動心理分析が、同時にフル回転を始めている。
「大掃除を頼んでたんですよ」
俺は極めて平静を装いながら、あえて「本当のこと」を口にした。
下手に取り繕った嘘をつくより、事実をそのまま混ぜ込んだ方が人間は疑いを抱きにくい。そういう場面を、俺は営業マン時代に何度も見てきたし、自分でも使ってきたからだ。
「宮野さんが来る前に、海馬さんが綺麗にしてたんだけどねぇ……」
おばさんは腑に落ちないといった風に首を傾げた。
「海馬」――不動産屋の件で出てきた名前だ。
「それは知りませんでした」俺は笑みを崩さない。
「一応、天井の埃とか、玄関にこびり付いた土が気になって。せっかくだから大掃除を頼んだんです」
自分でも、本当によく回る口だと思う。
本当と嘘を混ぜ、相手が納得しやすい形にする。そういう誤魔化し方は、すでに身体に染みついていた。
だが、おばさんは話を切らなかった。
「他に、気になった事でもあったのかと思ってねぇ」
その言葉に、俺は目の奥を細める。
――気になった事、だと?
何を探っている。どこまで知っている。俺はおばさんをじっくりと観察する。
「特にないですよ」
そう答えてから、わざと重い「間」を置いた。
「……家の事で、何か知ってるんですか?」
その瞬間だった。
「ち、違うのよ!」
おばさんの声が急に早くなる。
「何か変な物でも落ちてたのかと思ってね」
分かりやすすぎる。俺は内心で笑いそうになった。
このおばさん、隠し事にまったく慣れていない。目が左右に激しく泳いでいる。落ち着かないのか、何度も手を組み替えていた。
探りを入れれば、何か喋るかもしれない……
そんな考えが、自然と頭に浮かんでいた。
「掃除業者が、変な物を見つけて」
そう言った瞬間だった。おばさんの表情が、わずかに固まる。
……分かりやすい。俺は確信を持って、さらに相手の目を見つめながら続けた。
「カメラが見つかったんですよ」
一瞬の沈黙。だが次の瞬間、おばさんはにっこりと笑った。
「あらぁ、カメラですか? どうしてそんな物が」
その反応で確信する。
この人、最初からそれを聞きたかったんだ。――誰かに報告するために。それとも、自分が確認したかったのか。
「たまたま業者が見つけてくれて助かりました」
俺はわざと穏やかな口調を崩さない。
「松谷さんが付けたんですかね?」
契約書に書かれていた、元の持ち主の名前を出してみる。すると。
「ま、松谷さんはそんな事しないと思いますがね……」
おばさんは視線を逸らし、下を向いた。声も少し弱くなる。
俺はその反応を逃さない。
「じゃあ――」
わざと間を置く。
「付けたのって、海馬さんですか?」
おばさんの肩が、ビクッと小さく揺れた。
「さっき、海馬さんが掃除したって言ってましたよね?」
空気が変わる。おばさんの顔が、目に見えて曇っていく。まるで、そこだけは触れて欲しくなかったみたいに。
「でも、不思議ですよね」
俺はわざと軽い口調で続ける。
「貸家の持ち主は松谷さんなのに……清鎖は海馬さんがしてたんですね」
おばさんは黙った。何も答えない。
だが、その沈黙だけで、俺にとっては十分すぎる答えだった。
……やっぱり、繋がってる。少なくとも、何かを知っている側だ。
「仲が良いのよ」
しばらくしてから、おばさんは苦し紛れみたいに言った。
「だから松谷さん、海馬さんに任せてたの」
俺は小さく頷く。
「なるほど」
まぁ、そういう事にしておくか。
俺はわざと腕時計に目をやった。これ以上追えば、相手も警戒する。今はまだ、探る段階だ。
「もうこんな時間か。遅刻したくないので、行きますね」
俺は軽く笑って、そう言い残して背を向ける。だが歩き出した後も、背中にじっとりと張り付くような視線を感じていた。
会社の近くまで来て、俺はアパレル店のガラスを使って自分の服を整えた。
ネクタイの位置、襟の乱れ。不自然な所がないか確認する。
コソ泥をやっていた頃からの、抜けない習性だ。
すると。
「おはよう! 今日も身だしなみ整えてますね!」
後ろから、張りのある大声が飛んできた。
振り向かなくても分かる。今野だ。
「おはようございます」
俺は軽く笑みを作りながら振り返る。
数ヶ月、一緒に働いている。だからこそ、なんとなく分かってしまう。
この人も――怪しい。
表面上は普通だ。明るいし、人当たりもいい。けど、俺の話がなぜか久城や石井に流れている感覚があった。本人は雑談のつもりかもしれない。だが、この町じゃ“ただの会話”が、どこまで広がるか分からない。誰が誰と繋がっているのか。
どこまで筒抜けなのか。考え始めると、もう笑えなかった。
「そうだ。最近、家で何かあったのか?」
……お前もか。
俺は内心でため息をつく。もう少し自然に聞き出せる奴はいないのか。探り慣れてないから、逆に分かりやすい。
「掃除業者に来てもらったら、家にカメラ隠されてたんですよ」
俺はわざと眉をひそめる。
「気味悪いですよね」
すると今野の表情が変わった。
「それは……気持ち悪いな」
一拍置いて、今野は続ける。
「警察には相談したのか?」
やっぱり、そこを聞く。俺は今野を見る。表情、目線。どこまで知っている?
「いえ。してません」
そう答えると、今野は黙った。
……反応が薄い。もっと驚くと思ったのに、妙に落ち着いている。それとも、“警察に行ってない”という事実そのものが重要だったのか?
俺は頭の中で瞬時に会話を組み立て直す。
もっと騒ぐべきだったか。被害者らしく、慌てた方が自然だったか。クソ、少し読み違えたかもしれない。
「なんで警察呼ばなかったんだ?」
やっぱり来た。屋こを確認したかったんだな。
「呼ぼうとは思ったんですがね」
俺は苦笑いを浮かべる。
「カメラ外したの俺ですし。警察呼んだ後で、逆恨みでもされたら怖いじゃないですか」
俺は今野から、もう少し情報を引き出せないか考えていた。その時。
「おはようございます」
後ろから女性の声が聞こえる。石井だった。
今野はすぐ笑顔を向ける。
「おはよう」
「おはようございます」
俺も今野に続いて挨拶する。
その瞬間。
石井と、完全に視線が合った。
ほんの一瞬。探るような目に見えた。
「なんの話してたんですか?」
石井が聞く。今野は気にした様子もなく、職場のドアを開けながら答えた。
「いやね。清掃業者が宮野さんの家でカメラ見つけたみたいで。どうして警察に連絡しなかったのか聞いてたんですよ」
その言葉に、俺は石井の動きを凝視する。
石井の動きが、一瞬止まった。
本当に、コンマ数秒の一瞬だった。けど――俺は見逃さなかった。
指先、視線、呼吸。
ほんのわずかに、彼女の周囲の空気が揺れた気がした。
お前も……知っているな?
俺の口元に、同僚たちには決して見せない、冷酷で歪んだ歓喜の笑みが浮かびそうになるのを、俺は必死で噛み殺していた。




