初出勤
俺は異動が受理されると、ひと月をかけて身の回りを整理した。
必要なものだけを残し、あとはすべて処分した。
思い出も、人間関係も――現地での身軽さを最優先するために、できるだけ削ぎ落として。
そして、引っ越し当日。
俺は愛車を走らせ、例の海辺の町へと向かっていた。
長い峠道を越え、下り坂に差し掛かったその瞬間――。
視界が、一気に開けた。
一面に広がる、圧倒的な海。
午後の陽光を浴びて、水面が細かく砕けるように輝いている。
まるで、誰かがばら撒いた大量の宝石のようだった。
「……なるほどな」
思わず独り言が漏れる。
手に入らないからこそ、価値がある。地元民が言う「誰も持ち帰れない宝」とは、案外この景色のことなのかもしれない。一瞬、そんな風にさえ思った。
会社が用意してくれた俺の新しい住まいは、駅から少し離れた場所にある一軒家だった。
この町には古いアパートが数軒あるだけで、選択肢はほとんどない。アパートの家賃相場は六万。
それに対して、俺が選んだ一軒家の貸家も、なぜか同じ「六万」だった。
地方の物価なら珍しくもない。そう自分に言い聞かせたが、ひとつだけ引っかかることがあった。
その家は、ここ数年ずっと空き家だったらしい。
不動産業者に理由を尋ねたとき、担当者は視線を泳がせ、はぐらかすように笑った。
「まあ……色々とありましてね。地方の家はほら、維持が大変ですから」
曖昧な態度。何かを隠しているのは明白だった。
普通の人なら気味悪がって避ける物件だろう。だが、俺は迷わずその家を選んだ。
泥棒としての「戦利品」――日付ごとに分けた現金の封筒――を大量に保管するには、人目のない一軒家の広さが必要だったからだ。手に余るほどの広さだが、他に選択肢もない。
カーナビの音声案内に従い、目的の場所へ車を滑らせる。
やがて目の前に現れたのは、想像よりも遥かに新しく、立派な邸宅だった。
昭和の古民家を覚悟していたが、外観は平成の中期に建てられたものに見える。
清潔感のある白い外壁に、鮮やかな青い屋根。その縁には一本の白いラインが走っており、どこか洒落た洋風の印象を受ける。田舎の寂れた町並みの中で、そこだけが奇妙に目を引いた。
「……悪くない」
車を降り、もう一度その家を見上げる。
そのとき、通りの向こうからトラックの重いエンジン音が響いてきた。引っ越し業者だろう。
現実に引き戻された俺は、小さく息を吐き、ポケットから鍵を取り出した。
冷たい金属の鍵が、玄関のシリンダーに滑り込む。
ここから、俺の新しい生活――そして「宝探し」が始まる。
◇
翌朝、俺はさっそく新しい職場へと足を運んだ。
手には、本社のある都会で買った、無難な土産物の袋を提げている。
営業所の建物は、本社と比べると笑ってしまうほど小さかった。
自動ドアすらなく、古びた鉄の扉がぽつんと一枚あるだけ。その取っ手を握り、ぐっと押し開ける。
「おはようございます。本日より――」
中に入ると、そこは仕切りもない、玄関と一体になった事務所だった。
まさか入室といきなり対面が同時だとは思わず、一瞬だけ気が緩む。俺は慌てて姿勢を正し、ネクタイの位置を指先で微調整した。
奥のデスクには、数人の職員が座ってPCに向かっている。
そのうちの一人が顔を上げ、こちらに気づいた。デスクから立ち上がり、足早にこちらへ歩いてくる。
「こんにちは! 本部からいらした宮野さんですか?」
年齢は俺よりいくつか下。二十代後半といったところか。
「はい。指導ということで、しばらくお世話になります。宮野です」
そう答えると、青年はぱっと表情を明るくした。
「お待ちしてました! 俺、久城光って言います」
少しぎこちない、人懐っこい名乗り方だった。
慣れていないのか、久城は慌ててスーツのポケットを探り始める。
「あれ……おかしいな。名刺、名刺……」
あちこちのポケットを叩く様子は、見るからに危なっかしい。
俺は内心で口元を緩めながら、内ポケットから自分の名刺をスマートに差し出した。
久城はそれを両手で受け取り、申し訳なさそうに頭を掻く。
「すみません……どうやら家に忘れてきたみたいで。初日からこれじゃダメですよね」
どこか憎めない男だった。もし自分に弟がいたら、こんな感じなのだろうか。
同時に、泥棒としての冷徹な俺が脳内で呟く。――こいつは、隙が多い。扱いやすいタイプだ。
俺は挨拶を終えるや否や、プロの観察眼で事務所内を素早くスキャンした。
デスクは全部で十個。そのうち三つが空席。
椅子の引き具合、卓上に残された書類の乱雑さ。どれも「たった今、外回りに出た」というニュアンスではない。中途半端に放置された空気がある。長時間、主を失っている席だ。
そして、部屋の隅に、ひとつだけ何も置かれていない不自然に綺麗な机があった。あそこが俺の席だろう。
金目のもの、あるいは重要書類の鍵は――さすがに目につく場所にはないか。
視線を巡らせていると、不意に久城が不思議そうな顔でこちらを覗き込んできた。
「宮野さんって……なんか、ずっと『見て』ますよね」
一瞬、心臓の跳ねる音が大きく聞こえた。
「……何をだ?」
「いや、なんていうか。部屋全体というか、細かいところまで。普通の人って、初めて入った部屋の机とか棚を、そんなにじっくり観察しないじゃないですか」
気づかれている。こいつ、ドジな癖に、こういう直感だけは妙に鋭い。
俺は表情を一切変えず、大人の余裕を見せるように肩をすくめた。
「職業病だよ。本社の営業で数字を追ってると、どうしても他人のオフィスの配置や管理状態に目が行くんだ」
「なるほど! さすが本社のエースですね!」
久城は素直に、深く納得してくれた。あまり深掘りして考えるタイプではないらしい。助かった。だが、こいつの前での視線の動かし方には、少し気をつけた方が良さそうだ。
俺は主導権を取り戻すため、話題を切り替えた。
「そうだ、久城さん。もしかして君、物の置き忘れとか、スケジュールの管理は少し苦手な方じゃないか?」
久城は一瞬きょとんとした後、耳まで赤くして照れくさそうに笑った。
「えっ、なんで分かるんですか!? 実はそうなんです、いつも怒られてばかりで……」
やっぱりな。
机の上の書類の傾き、椅子の引き方。雑というほどではないが、細部への「意識」が決定的に欠けている。
こういうタイプは、少し心理的に揺さぶれば、いくらでも隙を作ることができる。
「気をつけた方がいい。こういう地方の拠点ほど、小さな管理ミスが大きな命取りになるからね」
――そして、そういう人間は泥棒にとって最高のカモになる。
表向きは、あくまで親身な「指導社員」の顔のまま、小さな警告を植え付けておく。
「はい! 気をつけます!」
久城が慌てて背筋を伸ばしたその時、背後の古い鉄の扉が、重い音を立てて開いた。
ガタツキのある不快な金属音。
その瞬間、事務所内の空気が一変したのが、肌を刺す感覚で分かった。
振り返ると、そこに一人の壮年の男が立っていた。
険しい表情。彫りの深い顔つき。そして、値踏みするような鋭い視線が、まっすぐ俺を捉える。
――この男は、絶対に油断してはいけない。
本能的な危機管理能力が警報を鳴らす。俺は咄嗟に半歩横へずれ、完璧なビジネスの姿勢で頭を下げた。
「おはようございます。本日から指導で参りました、本社の宮野です」
名刺を差し出す。
男は一瞬だけ俺の手元を凝視し――それから、彫刻のような顔をふっと和らげた。
「初めまして。この営業所の責任者を務めております、今野です」
差し出された名刺を受け取る。
今野健。
手入れの行き届いた清潔な指先。スーツの袖口にも皺一つない。久城とは対極にいる人間だ。
「よろしくお願いします、宮野さん。本社からの優秀な人材、心強い限りです」
「恐縮です。少しでもお力になれるよう努めます」
言葉を選びながら、短く返す。この男は隙を見せない。少なくとも、表面的には完璧にガードされている。
久城のような人間ばかりではないことに、俺は内心で冷や汗をかきながらも、同時に奇妙な興奮を覚えていた。手強いターゲットほど、盗み出したときの快感は大きいからだ。
今野は俺への挨拶を終えると、すぐに久城へと視線を転じた。
その瞬間、さっきまでのビジネス用の柔らかさは完全に消え失せ、底冷えするような厳しさが宿る。
「……」
無言の圧。それだけで十分だった。
久城はビクッと肩を震わせ、慌てて背筋を伸ばす。
「わ、分かってますって! すぐ宮野さんをご案内するつもりだったんですから!」
今野は小さく一言、「頼む」とだけ告げ、自分のデスクへと戻っていった。
短いやり取り。しかし、この職場の絶対的な上下関係と力関係を理解するには十分すぎる光景だった。
「すみません、宮野さん。久城は話し出すと周りが見えなくなる性質たちでして。何かあればすぐに私に言ってください」
今野が振り返り、大人の包容力を見せるように微笑む。
「いえ、元気な後輩で頼もしいです」
俺は愛想笑いを完璧に貼り付けた。
久城は叱られたことも気にしていない様子で、「宮野さん、こっちです!」と事務所の奥へと俺を導く。
部屋の隅にある、あの何も置かれていない机の前で立ち止まった。
「宮野さんの席、ここになります! ずっと空けておいたんです!」
振り返り、無邪気に手を振る久城。
やはり、あの席か。
俺はゆっくりと、その机に歩み寄る。
何もない、真っ白な天板。引き出しはすべて固く閉じられ、長い間、人の体温が触れていないような冷たさがある。
新しく「用意された席」というよりは――最初から、そこだけが隔離され、誰も使っていなかったかのような違和感。
「ありがとう。使いやすそうな席だ」
俺はそう言って、椅子の背もたれに手をかけた。
カバンを置き、仕事の準備を始めるフリをしながら、頭の中で次の作戦を組み立てる。
まずはこの久城を揺さぶり、俺の引っ越し先である「あの青い屋根の家」について、この町で何が起きたのかを吐き出させる。話はそれからだ。
海の町、いわくつきの家、そして誰も持ち帰れない宝。
俺の指先が、スリルを求めてかすかに震えていた。




