行方
木浦が震える手で、ゆっくりとスマホを耳に当てる。
その表情は死人のように暗く、車内の空気までが泥のように重く沈んでいく。
「……も、もしもし」
搾り出すような弱々しい声。
直後、スピーカーの隙間から、鼓膜を激しく打つような怒鳴り声が容赦なく響き渡った。
『お前は一体、どこまで落ちれば気が済むんだ! 人様に、それも光くんに借金を押し付けるなんて、人間のやることか!!』
木浦はあまりの剣幕に思わずスマホを耳から離した。車内の狭い空間に、父親の凄まじい怒声が漏れ聞こえ、びりびりと空気を震わせる。
「親父こそ、いちいち大声で怒鳴るなよ……!」
さっきまで俺たちに怯えていた様子が嘘みたいに、木浦が苛立ちを隠さずに吐き捨てた。
だが、客観的に見れば父親が激高するのは当然だ。いい歳をした息子が株の信用取引で大失敗し、挙げ句の果てに、幼馴染を騙して地獄の連帯保証人に仕立て上げようとしたのだから。まともな親なら、怒り狂って当然の不祥事である。
スマホの向こうで、まだ父親が早口で何かを捲し立てている。
だが、木浦はそれ以上反論しなかった。いや、できなかった。
「……分かってるよ。分かっててやったんだよ」
急に力が抜けたように呟く。
「あの人……フロントの宮野って人が言ってたことも……全部本当だ。言い訳のしようもないよ」
木浦は何度も機械的に頷く。スマホを握る右手に異常なほどの力がこもっているのか、白かった指先が鬱血して赤くなっていた。
「……光の言ってることも本当だよ」
さっきまで弱々しかった声に、少しだけ粘つくような苛立ちが混ざる。
「だから俺たちは、交換条件を――」
『お前は何を言っているんだ! 何が交換条件だ、この大馬鹿者が!』
再び割れんばかりの怒鳴り声が響き、車内の空気が爆縮したかのように強張る。
木浦は完全に押し黙った。スマホの向こうから一方的に浴びせられる罵倒と、かつての自分の罪をなぞるような言葉の弾丸。その間、木浦はただ拒絶するように何度も細かく頷いていた。
「……分かったよ。分かった」
木浦は胸の底から、諦念の混じった深い息を吐き出す。
「明日、光も連れて実家に行く。その時に全部話そう」
『……代わりなさい。宮野さんに』
「それも分かったよ。代わればいいんだろ?」
木浦が、投げ出すように俺にスマホを差し出してきた。俺は無言でそれを受け取り、再び耳へと当てる。
「もしもし。宮野です、代わりました」
スマホの向こうから、先ほどまでの激昂が嘘のように、一気に老け込んだ疲れ切った男の声が返ってきた。
『宮野さん……この度は、うちの愚息がとんでもないご迷惑をお掛けしました……。親として、本当に、何とお詫びを申し上げればよいか……』
「お気持ちは察します、木浦社長。ちなみにですが、現時点でその借用書の現物は確認されましたか?」
『いえ……こちらでも、それが本当に久城さん本人の意思によるサインなのか、すぐにでも確認したかったんですが……息子からは、手元に持ち歩いていないと言われまして』
俺はバックミラーに映る木浦の視線を計算しながら、慎重に言葉を返す。
「分かりました。後のことは、俺の方でもう一度この二人からじっくりと詳細を聞いて、適切に対処します。明日の面会も含めて、調整させてください」
『……何から何まで、本当に申し訳ありません。よろしくお願いいたします』
「はい。失礼します」
カチリ、と通話を切る。
俺はスマホをポケットに放り込み、後部座席のバックミラーから意識を切り離した。
「久城さん。なんとかなりそうで良かったですね」
俺はあえて、木浦を一切視界に入れなかった。これ以上、この卑屈な男と言葉を交わす必要も価値もないと判断したからだ。
「……はい。本当に、ありがとうございます。宮野さんがいなかったら、俺……」
久城は魂が抜けたような顔で、それでも心底安堵したように息をついた。
隣でずっと成り行きを静観していた石井も、後部座席の久城を振り返る。
「本当ですよ。これからは、どんな理由があっても、誰が相手でも、簡単に書類にサインしたり判子を捺したりしないでくださいね」
トゲはあるが、石井なりの忠告だった。
俺はまず、木浦を最寄りの寂れた駅前で放り出すように降ろし、その後、石井、久城の順にそれぞれの自宅へと送り届けた。
夜のバイパスを、一人になった車を走らせる。
それにしても――。
思考のギヤが、急速に別の方向へと回転を始める。
もし、あの夜の事務所でのコピーの一件が、木浦の会社の上層部や、あるいはあの不気味な不動産屋に知られていたのだとしたら。
あの土地を執拗に狙う、失踪事件の影に潜む「地主」にまで、俺たちの動きはすでに筒抜けになっている可能性がある。
いや。
そもそも、あの不動産屋自体が、地主グループと完全にグルだったとしたら……?
想像がそこに至った時、俺は思わずハンドルを握る手が冷たくなるのを感じ、頭を抱えそうになった。
ただ静かに暮らすために、この不気味な町へ引っ越してきて。
町に密かに伝わる、ちょっとした宝探しのような謎解きをして退屈を凌ぐだけのつもりだった。
それが今では、気がつけばヤクザ紛いの利権や、命の危険にすら直面しかねないドス黒い渦の中心に足を踏み入れている。
普通の人間なら、恐怖で足がすくみ、今すぐこの町から逃げ出す計画を立てる場面だ。
なのに。
どうしてだろうか。
バクバクと脈打つ胸の奥底から、ドロドロとした熱い何かが、激しく湧き上がってくるのを感じていた。
これは、恐怖か?
それとも――得体の知れない事態への、最悪な「期待」か。
「……ふっ、あはは……楽しくなってきたのかもな、これ」
街灯のない暗い夜道の先を見据える俺の口元には、自分でもゾッとするほど、歪で愉悦に満ちた笑みがべったりと張り付いていた。




