保証人
俺――宮野は、ひとまず思考を整理するため、木浦の父親についてさらに深く聞き出すことにした。
「過去の暴力沙汰については分かりました。それで、そのご尊父とは現在、完全に連絡を断絶している状態なんですか?」
木浦は小さく、惨めそうに頷く。
その横で久城も、我がことのように重苦しい表情で首を縦に振った。
「会社の電話番号は? あるいは直通の番号でもいい。教えてください」
連絡が取れないことには、これ以上一歩も前に進まない。
もし久城の言う通り、その父親の会社にそれなりの資産と融資枠があるなら――返済能力の高い実家の方へ、連帯保証人の名義を変更、あるいは一括で片付けさせられる可能性もゼロではない。
「……親父の会社の番号なら、頭に入ってる」
木浦が力なく答える。
だが、この状況で電話をかけるのが木浦本人では絶対にダメだ。「また金の無心か」と一蹴されて門前払いになるのが目に見えている。だからといって、この期に及んでまだガタガタと震えている久城に交渉を任せるのも、まず不可能だろう。
石井なら、こういう大人の泥臭い心理交渉を上手く転がせそうな気はするが。
俺は一度、助手席の石井に視線を送った。
俺の意図を察した瞬間。
石井は露骨に美しい眉をひそめ、即座にこれ以上ないほど激しく首を振ってみせた。
「私は絶対に嫌ですよ。そういう、元営業マン特有の『胡散臭い大人の交渉』は、宮野さんの方が何倍も得意じゃないですか?」
まるで厄介な生ゴミを隣に押し付けるような言い草だった。
俺だって、こんな他人の家庭のドス黒い面倒事に首を突っ込む趣味はない。ましてや、ヤクザ紛いの金が絡む話し合いなど御免被りたい。
けれどーー
後ろから聞こえた久城の情けない声が、俺の意識を冷酷な現実へと引き戻す。
「お、俺も……宮野さんが掛けてくれた方が、助かります。宮野さん、こういう時の察しもすごく良いですし……」
久城の声にはもう何の張りもなかった。完全に当事者としての思考を放棄している。まあ、実の友人に人生を売り飛ばされかけたのだ。気まずさと絶望で脳が茹だっているのだろう。
「分かりましたよ」俺は小さく息を吐いた。
「じゃあ木浦さん、会社の名前と番号を教えてもらえますか?」
木浦が観念してスマホを開き、画面を表示させる。
俺も自分のスマホを取り出し、発信画面を開いた。
木浦が口頭で告げる数字の羅列に合わせ、俺は機械的にボタンをタップしていく。
「今からかけます。みなさん、静かにしてください。余計な雑音は一切ナシで」
そう釘を刺し、端末を耳に当てた。
静まり返った車内に、スピーカーから漏れる「プルルル……」という電子的な呼び出し音が、やけに鋭く響き渡る。
――すべては、この父親の出方次第だな。
場合によっては、金を貸した側の金融機関を割り出し、脅迫や詐欺を理由に契約書類の抹消手続きまで視野に入れなければならない。だが、もし相手が真っ当な銀行や、あるいはタチの悪い闇金業者だったりすると……。
想像しただけで胃が痛くなり、急激にやる気が失せていくのを感じる。
それでも。
かつて泥沼の営業現場で培ってきた俺の『話術』と『心理誘導』が、この異常な状況でどこまで通じるのか。心のどこかで、冷徹に己を試してみたいという歪んだ乾きがあった。
数回目のコールの後、電話の向こうから、いかにも地方の町工場といった風情の、落ち着いた女性の事務員の声が聞こえた。
『はい、お電話ありがとうございます。木浦生産場でございます』
俺は一瞬で脳のスイッチを切り替え、かつてトップ営業マンだった頃のように、声のトーンをワントーン高く、そして極めて洗練されたビジネススマイルの響きへと変化させた。
「お忙しいところ恐れ入ります。私、宮野と申します。大変恐縮ですが、木浦社長はいらっしゃいますでしょうか? 実は、息子さんの仁さんの件で、至急ご相談したい大切な件がございまして」
電話の向こうで、わずかに息を呑むような間が空いた。
その「息子」という単語の破壊力に、後部座席の木浦と久城の肩が、びくりと同時に跳ね上がる。
『……はい。社長ですね。少々お待ちください、今お繋ぎいたします』
ガチャリ、と保留ボタンが押され、チープな電子メロディが流れ始める。
その間にも、木浦は極度の緊張からか、指の関節が白くなるほど何度も手を組み直していた。
俺はそんな男の無様な様子を、バックミラー越しに冷ややかに観察する。
――さて、地元の名士たる社長様は、放蕩息子の不始末をどこまで把握しているか。
不意にメロディが途切れ、回線が繋がった。
代わりに聞こえてきたのは、地を這うような、ひどく低く、威厳に満ちた初老の男の声だった。
『もしもし、木浦ですが』
声の響き、最初の一言だけで全てが理解できた。
この男は今、最大限の警戒のバリケードを張り巡らせている。
「突然のお電話にて失礼いたします。私、宮野と申します。木浦社長、実は息子さんの件で、極めて重要なお話がありましてお時間を頂戴したくお電話いたしました。今、少しだけよろしいでしょうか?」
その瞬間。
電話の向こうの男の声色が、一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。
『息子、ですか。……申し訳ありませんが、仁とは数年前に籍を分ける勢いで完全に縁を切っております。今さらあの男が何をやらかそうが、我が社にも私個人にも一切関係のないことです。二度とこちらに掛けられては困る』
「息子」と呼ばず、わざわざ「あの男」と吐き捨てる。その冷徹な口ぶりは、血の繋がった我が子を完全に社会的な異物として排除した、冷酷な経営者のものだった。
だが、俺はそんな拒絶など想定内と言わんばかりに、一切口調を崩さず、むしろさらに深く寄り添うような柔らかさで言葉を紡ぐ。
「ええ、社長のお立場と言い分は重々承知しております。ですが、どうかほんの少しだけ、私の話に耳を傾けてはいただけないでしょうか。……実は、社長もよくご存知の、ある『ご友人』が今、非常に過酷な状況で困り果てておられまして」
嘘は言っていない。久城が困り果てているのは、紛れもない純然たる事実だ。
父親はすぐには言葉を返さなかった。
受話器の向こうから、フゥ、フゥ、という浅く鋭い拒絶の呼吸だけが伝わってくる。
――このまま切るか?
そう身構えた、次の瞬間だった。
『……分かりました。手短に話だけなら聞きましょう』
俺はバックミラーに映らないよう、小さく口元を緩めた。
この返事を取り付けられたのなら、まだ十分に交渉のテーブルに乗せる余地はある。感情に任せて頭ごなしに怒鳴り散らし、電話を叩き切るような無能なタイプではない。理性の通じる相手だ。
「寛大なご対応、感謝いたします」
俺は一礼するような声音で前置きをし、本題へと切り込んだ。
「実は、仁さんが個人的な投資トラブルから多額の借金を背負われまして。それを補填するため、幼馴染である久城光くんを……非常に不適切な、騙すような形で連帯保証人の書類にサインさせてしまったようなのです」
なるべく事務的に、かつ加害者と被害者の構図を明確にして簡潔に伝えた。
すると、電話の向こうで『ガタン!』と、椅子から立ち上がったかのような激しい物理的な音が響いた。
『その話は……本当ですか!? 光くんが、連帯保証人に……!? 今、光くんは近くにいるんですか?』
――食いついた。完璧に針を飲み込んだな。
俺の脳内で、勝利のロジックがカチリと組み上がる。父親にとって、実の息子はゴミクズ同然でも、「久城光」という存在には、明確な罪悪感か、あるいはそれ以上の深い情のつながりがあるのだ。
「はい。久城さんも、そして仁さんも、今は私の車のなかに一緒にいます。ただ、久城さんの方はあまりのショックと動揺で、現在まともに会話ができる精神状態ではありません。そのため、第三者である私が代理としてお話しさせていただいております」
『そうですか……。では、確認させてください。その、息子は一体いくらの借金を、何に使ってこしらえたのか、正確な数字は聞いていますか?』
「ええ、把握しております。知人にそそのかされて手を出した株の信用取引に失敗し、現在の焦付き額は、およそ五百万円とのことです」
電話の向こうは、再び深い沈黙に包まれた。
ただ、先ほどのような拒絶の沈黙ではない。老経営者が、頭の中で必死に事態の収拾案を計算している、濃密な思考の気配だった。
「さらに問題なのは」俺はあえて、じわじわと真綿で首を絞めるように言葉を重ねる。
「金融機関との契約の際、仁さんは久城さんに対し、それが五百万円の連帯保証契約であるという事実を意図的に隠蔽し、別の書類だと偽って署名・捺印をさせた形跡があるという点です」
あえて「指紋を捺させた」という猟奇的なディテールには触れず、マイルドな詐欺の事実として濁した。細部にこだわりすぎて、相手の警戒心を無駄に煽る必要はない。並べるべきは、法的に木浦仁が完全にアウトであるという事実だけだ。
「結果として、久城さんは重大なリスクを自覚しないまま、書類上は完全な連帯保証人に仕立て上げられてしまいました。仁さんのご実家がこの町で堅実な会社をご経営されていると聞き及びましたので、どうか光くんを救うためにも、そちらの資産を原資として、保証人の名義変更、あるいは一括弁済のご相談をさせていただけないかと考えております」
しばらくの静寂の後、電話の向こうから震えるような低い声が響いた。
『……光くんに、電話を代わってもらえますか?』
俺は一瞬だけ、バックミラー越しに久城へと鋭い視線を向けた。
スマホのマイク部分を手のひらでしっかりと塞ぎ、後部座席へ振り返る。
「久城さん、おじさんと代われますか。直接話したいそうです」
久城の肩が、びくりと大きく跳ね上がった。
「……か、代わります」
声はひどく小さい。腹は括っているようだが、やはり元々の気弱さのせいで、覚悟が決まりきっていないグラグラとした状態だ。
俺はスマホから手を離し、もう一度スピーカーの声を拾う。
「今、久城光さんに代わります」
『お願いします』
俺は通話を繋いだまま、後部座席の久城の手元へとスマホを差し出した。久城はそれを、壊れ物を扱うように受け取る。
「もしもし……おじさん、光です。……はい、お久しぶりです」
やはり、実の息子である木浦よりも、この親子の間には、よほど温かく親しい関係性が残っているようだった。
「はい。俺は元気でしたよ。おじさんも、お身体、お元気でしたか?」
久城の引き攣っていた表情が、相手の優しい声に触れたのか、ほんの少しだけ柔らかく解けていく。
「……そうなんです」
だが、本題に入ると、久城の声から一気に張りが失われた。さっきまで車内を覆っていたトゲトゲとした緊張が、急速に抜けて、ただの子供のような弱音へと変わっていく。
「実は、俺も仁にちょっとした個人的なお願いごとをしていまして。その見返りというか、手続きの代わりにって言われて、サインと押印を求められたんです。まさか、それが仁の借金の借用書だなんて、これっぽっちも思ってなくて……」
幼い頃から家族同然の付き合いだったのだろう。電話の向こうの父親も、久城の不用心さを責めるような空気ではなさそうだった。むしろ、我が子のあまりの卑劣さに、平謝りしているような気配が漏れ聞こえてくる。
『光くん、その、仁に頼んでいた「お願いごと」というのは、一体どういう内容なんだい?』
質問された久城は、酷く困ったような、助けを求めるような視線をフロントシートの俺へと投げかけてきた。
この期に及んで、あの不可解な「地主の契約書」の話を隠し通せるか? いや、隠したところで、後から父親が木浦を問い詰めれば、あっさりと全て吐き出されるのは明白だ。
それなら最初から、こちらの手札としてコントロールできる範囲の情報だけを、あらかじめ開示しておいた方が賢明だ。
隠蔽というのは、相手から何かを引き出すための『交渉カード』であって、ただ闇雲に身を護るためだけに使うものではない。
もし、この木浦の父親までもが、あの不気味な地主グループの末端と繋がっているのだとしたら、非常に厄介なことになる。逆に、こちらの提示した情報に対して相手がどう動くかで、今後の流れの全てが読めるはずだ。
俺は極限まで声を潜め、助手席の石井にも聞こえないほどの囁き声で久城に指示を出した。
「話していいです。ただし、詳細な住所や中身については、絶対に言い過ぎないでください。概要だけでいい」
久城は不安そうに一度唾を呑み込んだが、ゆっくりと小さく頷いた。
「実は、おじさん。俺……ある古い家の、契約書のコピーを探していまして。それを仁が職場の事務所で手に入れられるかもしれないって言うから、頼んでいたんです」
すべてを明け渡すわけじゃない。今はただ、物語の入り口だけをチラつかせるだけでいい。
久城の表情が、説明を進めるうちにわずかに曇っていく。車内の空気が再び、得体の知れない重さを帯び始める。
「まあ、もし手に入れば、ちょっと個人的に助かるな、くらいの……本当に軽い気持ちの話だったんです」
ここでフッと引いて見せることで、電話の向こうの老経営者は、勝手にその行間を「息子がまた何か良からぬ利権トラブルに光くんを巻き込んだ」と脳内補完するはずだ。
久城の声が、申し訳なさそうに小さくなる。
「……はい。本当にすみません、おじさん」
電話の向こうでは、父親が誰か他の家族か、あるいは自分自身に言い聞かせるように、低い声で何かを話し続けている気配が漂っていた。長年の不義理に対する説教か、それともこちらの予想を遥かに超える、重苦しい決断のプロセスだろうか。
『――え? 本当に、いいんですか……!?』
突然、久城の目が丸くなった。何度か激しく頷きながら、受話器に向かって声を弾ませる。
「分かりました。今、代わります!」
久城は、興奮と困惑が入り混じった顔のまま、今度は隣の木浦へとスマホを突き出した。
受け取る木浦の手は、まるで死刑宣告を待つ囚人のように、わずかに、だがはっきりと震えていた。




