謎の契約書2
重苦しく沈む車内――。
お互いの腹の探り合いと裏切りが露呈し、逃げ場のない後部座席には、目を覆いたくなるほど気まずい空気が満ち満ちていた。
俺――宮野は、その凍りついた空気を切り裂くように、わざと軽薄な、トゲのある調子で口を開いた。
「なるほど。つまりその500万という大借金をそっくりそのまま久城さんに押し付けて、自分はのうのうと転勤(異動)届を出してさよなら、ですか?」
その瞬間。
木浦の網膜が、恐怖と動揺で激しく揺れた。
……やっぱりな。ビンゴだ。
胸の奥で、心臓がトクンと少しだけ跳ねる。
他人の隠し通したかった醜悪な本性を、言葉の刃で白日の下に引きずり出すこの瞬間――嫌いじゃない。むしろ、脳の奥が痺れるような歪んだ昂りさえ覚える。
木浦は救いを求めるように泳いだ視線で、何度も隣の久城の顔を盗み見ていた。
完全に逃げ道を失い、崖っぷちに追い詰められた人間特有の、見苦しい往生際の悪さ。
「と、トンズラなんて、するつもりは……ないっす……」
蚊の鳴くような声。あまりにも脆弱で、説得力の欠片もない。
俺はバックミラー越しに、その青ざめた木浦の横顔を冷徹に見下ろす。
するつもりだったんだろ。お前みたいなセコい悪党の考えることなど、お見通しだ。
再び、車内に泥のように重たい沈黙が落ちた。
その淀んだ空気を容赦なくブチ壊すように、助手席の石井が「ハァ……」と深く、底意地の悪い溜息をつく。
「……そんな見え透いた言葉、この状況で信用しろって方が無理ありますよ」
石井は冷ややかな視線を、今度は借りてきた猫のように縮こまっている久城へと向けた。
「久城さんも、いつまで黙ってるんですか? 何か文句の一つでも言ったらどうなんですか?」
株の借金、そして身代わりの話が出てからというもの、久城は自分のキャパシティを超えてしまったのか、ずっと貝のように黙り込んだままだった。
「ああ……いや、何というか……」
久城にしてみれば、長年の友人に人生を担保にされ、背中から容赦なく刺された気分なのだろう。ショックが大きすぎて脳の処理が追いついていない。
正直なところ、このまま木浦が久城をハメて逃げようが、俺には関係のない話だ。
俺の借金じゃない。俺の人生でもない。
ここで二人がどうなろうと、俺の身にとばっちりが飛んでくるわけでもない。
――まあ。
このまま後部座席で、醜くグチャグチャに揉め合ってくれるなら、それはそれで最高の見世物だが。
「はっきりさせなさいよ! このままじゃ、あなた、この男に人生を狂わされるほどの大金を押し付けられるのよ!?」
石井は本気で憤っているのか、それともこの修羅場を煽って楽しんでいるのか。珍しく、タイトなジーンズに包まれた膝を小刻みに揺らし、苛立ちを隠そうともしていなかった。
「……悪いけど、仁。俺もそんな大金、お前にあげられるわけないだろ……」
久城の口から出たのは、驚くほど歯切れの悪い、弱々しい拒絶だった。
裏切られたことへの覚悟も、胸ぐらをつかんで怒鳴り散らすような勢いもない。ただ困惑しているだけの中途半端な態度。
そういうのが、見ていて一番つまらない。イライラしてくる。
「とりあえずさ」俺はハンドルから片手を離し、後方へ向けた。
「その借用書、見せてもらえますか?」
口にしてから、自分自身に少しだけ呆れた。
……俺は何を熱くなって、余計なことを言っているんだ。
もともと他人の人生の揉め事に首を突っ込む気など、毛頭なかったはずなのに。だが、バックミラーに映る久城のあまりにも不甲斐ない、もどかしい姿を見ていると、どうにも性分として放っておけなくなる。
「しゃ、借用書ですか……」
木浦は弾かれたように慌てて、足元に置いていたビジネスカバンを開け、泥泥とした手つきで中を探り始めた。
書類の束をめちゃくちゃに掻き回す手つきが、見るからに落ち着きがない。
――こういう、その場しのぎの嘘を吐くタイプは。
「あ、あれ……入ってないみたいだ。おかしいな、家に忘れてきたかも……」
ほらな。予想通りのテンプレだ。
「嘘かもしれませんね。久城さん、隣からそのカバン、強引にでも奪って確認してみてください」
俺は木浦の隣でオロオロしている久城へ、低く鋭い声で指示を出す。
「は、はい……!」
弱々しい返事とともに、久城は遠慮がちに木浦の手元からカバンをひったくるように手を伸ばした。
木浦も拒絶する気力が残っていないのか、力なくカバンを明け渡す。
久城はカバンの中からクリアファイルを取り出し、一枚ずつ、中身の書類を確認していった。
だが、その手つきは事務作業に全く慣れていないことが一目で分かるほど、おぼつかない。見ていて酷く危なっかしく、じれったい。
「あー、もう! 私が見ます。貸してください」
助手席の石井が、苛立たしげに身体を反転させた。彼女も大概、お節介な性質だ。久城の要領の悪さに、見ていて耐えられなくなったのだろう。
……まあ、心の中で同じことを思っていた俺も同類だが。
久城は「すいません……」と小さくなりながらファイルをカバンに戻し、そのまま助手席の石井へと手渡した。
石井はそれを受け取ると、自分の膝の上に乱暴に置き、流れるような慣れた手つきでパラパラと中身を確認していく。
静まり返った車内に、乾いた紙が擦れ合う音だけが不気味に響く。
「何かありそうですか?」
フロントガラスを見据えたまま、俺は石井に尋ねる。
「……本当になさそうですね。金融機関からの督促状は何枚かありますけど、肝心の借用書らしきものは見当たりません」
そう答えながらも、石井の指先は止まらない。まだどこかに隠し持っているはずだと、執念深くポケットの隙間まで疑っている目の色だ。
「それで、木浦さん。その500万、返すあては少しでもあるんですか?」
俺の問いは、もはや聞くまでもない愚問だった。
返すあてが、あるいは自力でどうにかする算段があるのなら、わざわざ長年の友人を騙してまで連帯保証人のサイン(指印)を盗むような真似はしない。
「……ないっす」
木浦が頭を垂れ、小さく消え入るような声で答えた。
俺はバックミラー越しに久城を見る。
「久城さん。あんた、今のは流石にブチ切れていいところなんですよ?」
わざと挑発するように言った。
今にも爆発しそうな、一触即発のヒリついた空気のほうが、宮野としての俺の精神は妙に落ち着くのだ。
「いや、なんか……ショックが大きすぎて……怒る気力すら湧かないというか……」
久城は完全に、内側に引きこもって消沈するタイプの人間らしい。
普段の軽薄な態度からして、裏切りを知ればもっと感情的に喚き散らすものだと思っていたが、人間、本当に底の抜けた絶望に直面するとこうなる。
「分かりました。確認ですが、久城さんは当然、木浦さんの借金を肩代わりする気なんてさらさらないんですよね?」
久城は、力なく小さく頷いた。
「無いです……そんな大金、逆立ちしたって俺の口座にも無いんで……」
だろうな。見たところ、計画的に貯金をしているタイプには到底見えない。
「なら、方針は決まりだ。今から木浦さんの家に行って、直接借用書を確認する。それで、その金を貸した『相手』にもこっちから連絡を入れて――今すぐ連帯保証の件を白紙に戻させて、縁を切る。それぐらいしか道はないですね」
木浦は反論もせず、ただ黙ったまま深く俯いている。
まあ、正直なところ。
こいつ自身がこの先、借金取りに追われてどうなろうと、俺の知ったことではない。全ては自分が蒔いた、身から出た錆だ。
だが――。
一つ、頭の中に最悪のシナリオがよぎった。
借用書が手元にないということは、すでに「向こう」での手続きが完了しているということではないか?
背筋に、冷たい嫌な予感が走った。
「木浦さん。まさかとは思うが……もう金は、口座に振り込まれた後ですか?」
その瞬間、木浦の顔色がサッと青白く変わった。視線が、目に見えて床へと落ちる。
「……はい」
やっぱりか。最悪のタイミングだ。
「連帯保証人ってのは、一度金が動いてしまったら、簡単には外せないんですよ。向こうの承諾がない限り、法的に縛られ続ける」
俺はできるだけ専門用語を使わず、その契約の持つ絶望的な重さを簡単に説明した。
車内が、お通夜のように静まり返る。
助手席の石井が、まるで次の展開を期待するような、爛々とした目でこちらを見ていた。
……おい、そんな楽しそうな顔でこっちを見るな。俺は弁護士でも何でもないんだ。
「何か、どうにか出来る裏技的な方法、無いんですか?」
石井の言葉に、俺は小さく溜息をついた。
「木浦さん。久城さんより、もっと金を持ってる知り合いやツテは?」
木浦は頑なに顔を上げない。
「……いません」
「じゃあ、ご両親は? 実家を頼ることはできないんですか」
「……両親は、健在ですけど」
相変わらず、奥歯に物の挟まったような歯切れの悪さだ。
俺はバックミラーの視線を、木浦から久城へとスライドさせた。
「久城さん。昔からの友人なら、木浦さんの親のことも何か知っていますか?」
久城は答える前に、怯えたように木浦の横顔をチラリと見た。
……なんでお前が、加害者の顔色を伺っているんだ。情けない。思わず、本日何度目か分からない深い溜息が漏れた。
「知ってます。小さいですけど、この町で建築系の会社を経営してて……それなりに裕福なはずです」
俺は再び木浦に視線を戻す。
実家の親が、それなりの金を持っている。にもかかわらず、こいつは親に泣きつくことをせず、わざわざ金のない久城を騙してまで連帯保証人に選んだ。
――これは、何か深い『訳あり』だな。
石井がファイルのチャックを「ジーッ」と音を立てて閉めながら、横から口を開く。
「だったら、なおさら実家の親御さんに頭を下げて肩代わりしてもらえばいいじゃないですか。身内の不始末なんだから」
至極真っ当な正論だ。普通の人間の社会であれば、そうなる。石井の言っていることは何一つ間違っていない。
だが――。
その言葉を聞いた瞬間、後部座席の久城と木浦の表情が、同時に、目に見えて暗く曇った。
「頼めない理由でも?」俺が静かに促す。
木浦はプライドが邪魔をしているのか、頑なに口を割らない。
代わりに、久城がひどく重々しい声で、ぽつりと口を開いた。
「コイツ……昔、この町でかなり派手な暴力沙汰を起こして、警察に何日も留置場へぶち込まれたことがあって。それ以来、実家の親からは『二度と敷居を跨ぐな』って、完全に勘当されて見捨てられてるんすよ」
暴力沙汰――。
一口に言ってもその幅は広いが、地元の名士である親が、我が子を完全に切り捨てるほどだ。当時、相当にエグい凄惨な事件をやらかしたのだろう。木浦の、あのどこかネジの飛んだような、無駄のない身のこなしの理由が、少しだけ腑に落ちた。
……しかし、その話を聞けば聞くほど、なぜ久城のような小心者の男が、今までこんな爆弾のような男と平然と連るんでいたのか、そっちの方が不思議でならなかった。




