謎の契約書
コピー機を使って足がつくなんて……素人丸出しの、あまりにも初歩的なミスだ。
だが、そのマヌケな失策のせいで、俺たちの命運は今、崖っぷちまで追い詰められている。
俺はバックミラーから視線を外さないまま、後部座席の男へ冷徹な声を向けた。
「久城さんがその契約書を手に入れた経緯は、すでに知っています」
車内の空気がピリリと張り詰める。
「俺が聞きたいのはそこじゃない。木浦さん――あんたはなんで、わざわざ久城さんの指に朱肉をつけさせて、あの契約書に判子(指印)を押させたんです?」
問いかけた瞬間、木浦の視線がわずかに泳いだ。
……露骨だな。動揺が面白いほど顔に出ている。
「正直に答えてください。俺たちは警察じゃありません」
俺はわざと、声音を低く、柔らかく落とした。逃げ水のような安心感を与えて、本音を引き出すための罠だ。
「だからこそ――あんたがここで何かを隠す意味も、メリットも無いはずです」
仮にあれが捏造された契約書だったとしても。
いまさら警察に駆け込めないのはこっちだって同じだ。胸を張れるほど綺麗な立場にいるわけじゃない。
木浦は居心地悪そうに、首筋から頬のあたりをガリガリと掻いた。
俺たちから目を逸らしたまま、小さく、諦めたような息を吐き出す。
「……それはっすね」
ねっとりとした間が空く。
「契約者の書類……間違えて、シュレッダーにかけちゃって」
木浦は力なく苦笑いを浮かべた。
言葉の響きこそ軽かったが、その告白の内容は決して軽くはない。会社の重要書類をシュレッダーにかけたなど、普通のサラリーマンなら一発で首が飛びかねない大ポカだ。
「でも、データ自体はパソコンに残ってたんで、慌ててプリントアウトして書き直したんですけど……」
そこで、木浦の言葉が一瞬詰まった。
「その、相手のハンコを……持ってなくて」
俺は、わざと何も言わずに次の言葉を待った。
じっとバックミラー越しに圧力をかけ続ける。
――それだけか?
そんな些細な事務ミスを隠蔽するためだけに、リスクを冒してまでわざわざ“無関係な他人の指紋”を書類に捺させるか?
「嘘を吐くなら――もう少しマシな嘘を用意した方がよかったんじゃないですか?」
助手席の石井の声は、ひどく静かだった。
静かだが、逃げ道を完全に塞ぐには十分すぎるほどの冷たさを含んでいる。
……その通りだ。
わざわざ久城の指紋を使わせたのには、他に明確な理由があるはずだ。ただの書類の再作成ミスで済む話じゃない。
「本当なんですって!」
木浦は、少しだけ声を荒らげた。
だが、必死に弁明しようとするものの、俺たちと決して目を合わせようとはしない。
「そうですか」
俺は小さく頷いた。
あえて追及の手を緩め、一歩引いてみせる。
「じゃあ――会社には、今回の件をどう説明したんです?」
間を置かず、もっとも鋭い刃を次へ刺す。
「その説明のなかに、久城さんの名前は入っているんですか?」
木浦は一瞬だけ、言葉を失ったように黙り込んだ。
それから、諦めたように両方の肩をすくめてみせる。
「さっき言ったとおりっすよ。間違えてシュレッダーにかけたって上には報告しました。……もちろん、コイツの名前は一言も出してない」
相変わらずの軽い言い方。
だが、その一言の裏にある欺瞞が、車内に妙に重くのしかかった。
俺はバックミラー越しに、後部座席の二人を観察した。
久城は黙り込んだまま、何も言わない。木浦の言葉を否定しようともしなかった。
――おかしいな。
久城が木浦を庇う理由がどこにある?
それとも、この二人はすでに俺たちの知らないところで“共犯関係”にでもあるというのか。
聞けば聞くほど、調べれば調べるほど――二人の証言の辻褄が合わなくなっていく。
力尽くで脅すのは、俺の柄じゃない。
……けれど、これ以上この男の濁濁とした嘘に付き合っている時間もなかった。
「木浦さん――この町で起きてる失踪事件のこと、当然知ってますよね?」
俺の問いに、木浦はゆっくりと頷いた。
「もちろんだ。町の奴らはみんな知ってるさ。不気味な噂話のタネだよ」
当たり前の日常を語るような返答。
だからこそ、俺はトドメを刺すことにした。
「俺」
バックミラー越しに、その視線を完全にロックする。
「――あの失踪者が出た家に、いま住んでる宮野です」
車内の空気が、ピキリと凍りついた。
木浦の目が、はっきりと見開かれる。
喉の奥で息を詰まらせたような、今までとは明らかに違う本物の恐怖の反応だった。
「そういえば、まだ自己紹介をしていませんでしたよね」
俺はわざと、抑揚のない淡々としたトーンで言葉を続ける。
「で――その久城さんは、今」
少しだけ視線をずらし、助手席の石井の向こうにあるサイドミラーを見る。
「俺の事情に、完全に巻き込まれてる側の人間です」
完全な沈黙。
さっきまで木浦が作っていた、あの軽口の叩き合えるようなぬるい空気は、跡形もなく消え失せていた。
木浦は、何も言わない。いや――あまりの衝撃に、言葉が出ないのだ。
――さあ、ここからだ。
「宮野」という名とあの家が持つ意味を、この男が一瞬で理解できないはずがない。
「じゃ、じゃあ……お前、あの……」
木浦の声が、目に見えてガタガタと揺れ始める。
俺は、その動揺をそのまま逃がさない。
「このまま黙っているなら――あなたも向こうからは『同じ側の人間』だと見なされますよ」
事務的な冷徹さで、未来の破滅を告げる。
「巻き込まれるかもしれない、じゃない。もう巻き込まれてるんです」
車内の空気が一変する。張り詰めた重さが、一気に底なしの深さへと沈んでいく。
「そうですよ、木浦さん。全部話さないと――本当に殺されるかもしれませんよ?」
助手席の石井の声は、やけに落ち着いていた。
横に視線をやると、彼女の口元がわずかに釣り上がっている。
……怯える男の顔を見て、楽しんでやがるな。
「わ、分かった! 言う、本当のこと言うから!」
あっさりとした降伏だった。
あまりに拍子抜けするくらいに、男のプライドは脆く崩れ去った。
「実は……数ヶ月前、絶対に儲かるいい話があるって言われてさ、ある株を買わされたんだけど……」
やはり、借金か。
「完全に失敗してさ、どうしてもまとまった大金が必要だったんだよ」
木浦はそう吐き捨てると、隣に座る久城をジロリと見た。
その視線は、あまりにもあからさまだった。
……借金の肩代わりをさせるつもりだったのか。
それとも、何も知らない久城を連帯保証人に仕立て上げて、自分だけドロンする気だったのか。
動機なんてどっちでもいい。どのみち、まともな人間のやり方じゃなかった。
「久城さん」
俺はバックミラーに声をかける。
「その男とは、今すぐ縁を切った方がいい」
これは、俺としての偽らざる本心だ。
「今回の話が嘘であろうと本当であろうと――こいつはもう、決して信用していい相手じゃない」
契約書を無断でコピーし、タイミングよく転勤(異動)の辞令が出ている。
それだけで十分だった。少なくとも――こいつ自身が、あの土地を狙う不気味な地主グループの核心と深く繋がっている線は薄い。単にトカゲの尻尾として利用されただけだ。
久城は、俺たちの高速な会話のラリーに全くついていけていなかった。
バックミラーに映る顔を見れば分かる。ただ口を開けて呆然としている。
助手席の石井が、その哀れな思考を拾い上げるように言葉を足した。
「つまりね、久城さん。この男はあなたを騙して、自分の借金の肩代わりにしようとしたんですよ」
子供に教えるように、分かりやすく噛み砕いてやる。
実に親切な皮肉だ。
その瞬間、後部座席から情けない悲鳴が上がった。
「え! おい! 仁、お前マジかよ!? 俺をハメようとしてたのか!?」
久城の反応は、あまりにも直球で早かった。
……本当に、隙だらけの男たちだ。
俺なら、今の短いやり取りだけで十分だ。
木浦の財布の場所も、実家の住所も、裏での金の流れも、全てを丸裸にして抜き取ることができる。
「木浦さん」
俺は視線をバックミラーの男へと戻した。
「いくらですか」
退路は一切作らない。
「久城さんに、なすりつけるつもりだった借金の額です」
木浦はピタリと口を閉ざした。
すっと視線が下へ落ちる。
――額が大きいな。
少なくとも、他人に「これだけだ」と軽く言えるような額じゃない。株で作った、首の回らないほどの借金。
俺はハンドルを滑らかに切り、街灯のない、人通りの極端に少ない旧道へと車を滑り込ませた。
物理的にも、逃げ場を減らしていく。
「300万ですか?」
まずはジャブだ。低めの額をあえて提示する。
反応を見るための方程式。
木浦の口元がさらに重くなる。視線は完全に足元へ落ちた。
「そ、そうだ……その、そのぐらいだ」
即答ができない。声のトーンも細く、弱い。
――外したな。少なすぎたか。
「嘘ですね」
俺が断言すると、木浦は貝のように口を閉ざした。
本当に分かりやすい男だ。
「じゃあ……500万ですか」
ピクリ、と木浦の肩が大きく跳ねた。
濁った目が泳ぐ。
当たりだ。
車はすでに、鬱蒼とした木々に囲まれた山道に入っていた。
この時間、人の気配は微塵もない。
バックミラーで後部座席の二人の動向を完全にロックしながら、俺は車を路肩の深い窪みへと滑り込ませた。
周囲の雑木林に遮られ、外道路からはライトの光すら見えにくい絶好の場所だ。
こういう冷たい用事を済ますには、非常に都合がいい。
カチリ、とキーを回してエンジンを切る。
唸りを上げていた重低音が消え、世界に完全な静寂が訪れた。
俺はシートベルトを外し、上体を大きくひねって後部座席へと真っ直ぐ振り返った。
怯えきった木浦の目を、至近距離で見据える。
この狭い車内に、お前の逃げ場なんて最初から残しちゃいないんだよ。




