確証
カラオケボックスの狭い室内に流れる安っぽいBGMが、やけに鼓膜を大きく叩いていた。壁のスピーカーが震えるたび、微かに重低音が椅子の背もたれを通じて背中に伝わってくる。
久城と石井の言葉を脳内で咀嚼するうちに、俺の胸の奥で心臓が速度を上げていくのが分かった。ドクドクと、うるさいほどの鼓動。
——楽しい。
不謹慎な高揚感が脳髄を駆け巡り、霧が晴れるように思考がクリアに冴え渡っていく。
もっと情報を。もっとこの違和感の正体を。
そんな昏い期待が、胸の奥でどす黒く膨らんでいった。
「でも——」
久城が、グラスの結露を指先で弄りながら、ふっと思い出したように呟いた。
「電気、ついてたらしいっすよ」
「電気?」
対面に座る石井が、怪訝そうに眉の片方を跳ね上げて聞き返す。
「っす。あの人が失踪した日の夜も、“ちゃんと家の中に明かりが見えた”って、近所の奴らが」
その言葉に、室内の張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ弛緩した。
——つまり、一度は家に帰っていた可能性。生存のシグナル。
「どの部屋ですか?」
それまで黙って手元の資料に目を落としていた宮野が、鋭い声で即座に食いついた。
「えっと……確か、一番奥の部屋って言ってましたね。通りから少し見上げる位置にある」
「奥?」
石井が不審げに首を傾げる。
久城は、自分の言葉がどんな波紋を広げているかも気に留めない様子で、淡々と続けた。
「それに、“窓越しにおばあさんの顔も見えた”って話もありました。間違いなく本人だったって」
「……顔まで見えたんですか?」
石井がさらに深く眉間をひそめ、訝しげな視線を久城に向ける。
「っす。近所のおじさんがそう証言してました」
久城はどこまでも他人事のように、ストローを弄びながら話す。
俺は一度、視線を完全に落とし、手元のメモをじっと見つめた。数秒の沈黙。カラオケのモニターが、誰も歌っていない画面を虚しく明滅させている。
そして——俺は顔を上げた。
「まず、電気の話は残します。」
短く、ナイフで切り落とすような口調だった。
「旦那がつけた可能性がある。あるいは、自動のタイマーか」
石井が小さく、納得したように頷く。
「そうですね……家の中なら、誰の目を気にすることなく動けるはずですし」
「でも」
俺が遮るように言葉を重ねる。その目は、完全に獲物を捉えた学者のそれだった。
「その“奥の部屋”の窓は、構造上、外の通りからは絶対に見えない」
久城の手が止まり、わずかに目を細めて宮野を見た。
「……あ。言われてみれば、っすね。あそこ、裏庭の木に遮られてるわ」
「顔が見えたって証言は、切ります。」
俺の即断。その声には一切の迷いがなかった。
「位置的に、外から視認するのは物理的に不可能です。」
喉が鳴るような沈黙が、三人の間に落ちた。
「じゃあ……」
久城が困惑したように、タバコの箱を弄びながら言葉を探す。
「電気の話だけが本当で、顔を見たっていうのは——」
「誰かによって、後から作られてる可能性が高いですね」
俺は言葉に被せるようにして、冷ややかに言い放った。
石井が静かに、溜め込んでいた息を深く吐き出す。
「証言が、混ざってますね。勘違いか、あるいは……」
「もしくは——」
俺はゆっくりと顔を上げ、二人を代わる代わる見据えた。
「意図的に、混ぜられて居ます」
誰も、すぐには言葉を続けられなかった。
チープなインストゥルメンタルのBGMだけが、耳障りなほどに室内に響き渡っている。
この歪な会話を経て、俺の中でバラバラだったパズルのピースが、急速に不気味な形を成し始めていた。
——もし、これがすべて仕組まれたものだとしたら……。
いや。
そこまで考えて、ぞわりと背筋が凍り、思考を強制的に停止させる。
興奮のあまり、喉の奥がカラカラにひりついていた。
この町は、何かがおかしい。狂っている。
同時に、自分の頬の筋肉が、わずかに吊り上がっていくのを自覚した。歪な笑みが漏れそうになる。
「……宮野さん?」
石井の、どこか怯えを含んだ声で、俺は急激に現実に引き戻された。
視線を向けると、石井も久城も、怪訝そうな目でこちらを凝視していた。その眉間には、深い警戒の皺が刻まれている。
「大丈夫ですか? 怖い顔をして」
「……ああ、すみません。大丈夫です」
感情を押し殺し、短く返す。
まだだ。まだパズルは完成していない。確信に至るには、あと一押し足りない。
「久城さん」
俺は彼から視線を外さずに、あえて低く落ち着いた声で問いかけた。
「他にはないですか? どんな些細なことでもいい」
一拍置く。カラオケの画面が切り替わり、部屋が青白い光に照らされる。
「前に言ってた、あの家族の失踪事件の時も——」
少しだけ、彼を刺激しないように言葉を選ぶ。
「今と似たような、妙に符号する話が出てましたか?」
「そうっすね……」
久城は天井を見上げ、記憶を掘り起こすように指先でコンコンとテーブルを軽く叩いた。
「時間っすかね。あの時も近所の連中、みんな口を揃えて“23時までは確かに電気がついてた”って、妙に具体的な時間を証言してましたわ」
石井も、その言葉に誘発されるようにハッとして口を開いた。
「そう言えば、私が個人的に仲良くしていたあの方も……失踪当日、22時まではスマホでやり取りしていました」
「やり取りって……どんな内容の連絡ですか?」
「はい。他愛のない世間話のメッセージです。スタンプも送られてきました」
——一時間のタイムラグ。
だが重要なのはそこじゃない。どちらの事件でも、被害者が“その時間までは確実に生きて生活していた”と、周囲に強く印象付ける証拠が残っている点だ。
俺はこれまでの奇妙な違和感を頭の中で反芻する。
「二人とも、近所の人たちとは仲が良かったんですよね」
念を押すように、確認の言葉を投げる。
「当日も、それぞれいつも通りに話をしていましたか?」
久城が深く頷く。
「っすね。回覧板を回した時も、普通に世間話したって」
石井も、記憶を確信に変えるように小さく頷いた。
「ええ。いつも通りの、何の変哲もない様子だったと皆さん言っていました」
——“いつも通り”。
その、あまりにも出来過ぎた平穏な言葉が、やけに喉の奥に引っかかる。
「……そこも一つ、切ります。」
俺は冷徹に言い放った。
二人の視線が、突き刺さるように俺に集まる。
「その“普通だった”という証言自体、ハナから信用出来ないです。」
「え?」
久城が不快そうに眉を寄せ、身を乗り出してきた。
「時間も、会話の中身も、電気の消灯タイミングも——」
脳内のホワイトボードに、それらの要素を一つずつ整然と並べていく。
「あまりにも、綺麗に揃いすぎてるんです。人間の曖昧な記憶にしてはね」
石井が、息を呑むのが分かった。顔から血の気が引いていく。
「じゃあ……全部、嘘だって言うんですか……?」
「全部じゃないです。」
彼女の弱気な言葉を、短く、拒絶するように遮る。
「“奇妙なほどに揃っている部分”だけが、猛烈に怪しいんですよ。」
重苦しい沈黙。
俺は熱を持った身体を落ち着かせるように、ゆっくりと深く息を吐き出した。
「誰かが、後からそこだけを都合よく整えたようにしか見えない」
状況の恐ろしい核心を、持ち前の聡明さで理解し始めた石井は——ガタ、とテーブルを拳で軽く叩いた。
「もしかして……宮野さん、あなた一体いつからそこに辿り着いてたんですか」
彼女の瞳に、鋭い光が宿る。真っ直ぐに俺を射抜くその視線は、俺と同じ、底暗い結論に手を伸ばしかけている者の目だった。
「今日までは、ただの妄想だと思ってました」
俺は逸らさずに、はっきりと言い切る。
「あの、錆びた鉄パイプが転がっていた崖……あそこを見て、あの地形と動線を確認してからです」
石井の表情が、凍りついたようにわずかに固まった。彼女の中で、線と線が繋がり、理解がさらに深い暗闇へと沈んでいく。
その横で——。
久城だけが、置いてけぼりを食らった犬のような顔で、俺と石井の顔を交互に見つめていた。
「な、何かわかったんすか? 二人で納得してないで、教えてくださいよ」
一人だけ、情報の濁流から取り残されている焦燥感。
俺は小さく、哀れみを込めて息を吐いた。
「久城——」
わずかに間を置き、彼を真っ直ぐに見つめる。
「逆に聞くけど、なんで今まで気づかなかったんですか?」
冷徹な視線を突き刺す。
「ここまで材料が揃っているんだ」
逃げ道を塞ぐように、言葉の歩を進め、一歩、踏み込む。
「導き出される可能性は、一つしかない」
完全な沈黙。部屋の空気が凝固し、久城の褐色がかった肌の表情が、目に見えて強張っていくのが分かった。
「だからなんすか……! その可能性って! 勿ぶらないで言ってくださいよ!」
耐えかねた久城の声が、ひっくり返りそうになりながら荒くなる。
俺は乱れかけた息を整え、あえて、これ以上ないほどに声を落とした。
「——この町の近隣住人が」
一拍。極限まで張り詰めた間。
「海馬と、グルの可能性がある」
言い終えた瞬間。
室内のすべての音が消えたかのように、空気が完全に止まった。
久城は、言葉を失ったように口を半開きにしたまま完全に硬直している。
「え——」
数秒のタイムラグを経て、彼の喉から、ひび割れた声が弾け飛んだ。
「えぇーーー!?」
カラオケボックスの狭い室内に、場違いなほどの大声が虚しく響き渡る。
しかし、石井は叫ばなかった。何も言わず、ただ、その視線だけが恐怖と戦慄で激しく揺れ動いていた。
——揃いすぎた証言時間。
——誰も目撃していない、被害者の本当の帰宅。
——物理的に見えないはずの、窓辺の顔。
欺瞞に満ちた点と点が、今、最悪の形で一本の線へと繋がってしまった。
壁のスピーカーから流れる、陽気で安っぽいBGMだけが、耳を劈くほどに大きく響き続けていた。




