この町は、終わってる
現状――。
海馬と近隣住人が、最初からグルである可能性は極めて高い。
だが。
目の前に座る二人は、まだその悍ましい結論の前に立ち尽くしたまま、足を踏み出せずにいる。
沈黙を破り、久城が縋るように声を荒げた。
「証拠はないじゃないですか!」
彼の叫びが、カラオケボックスの狭い室内に虚しく反響する。
石井は何も言わない。ただ、膝の上で握りしめられた指先だけが――微かに、しかし明確に震えていた。
俺は、二人の反応をただ黙って見つめていた。
あえて反論せず、追い詰めすぎないよう、逃げ場を残すように。
それでも、彼らの動揺を捉えた目は決して逸らさずに。
やがて――
先に張り詰めた糸が切れて崩れたのは、久城だった。
「……証拠は、どこにもないじゃないですか」
さっきの勢いは消え失せ、今度は絞り出すような、弱々しい声だった。
「……確かにな」
俺はあっさりと首を縦に振る。
「現時点で、奴らを一発で有罪にできるような決定的な証拠はない。だが――」
視線を久城の瞳の奥へ固定したまま、言葉を紡ぐ。
「外堀を埋める状況が、すでに答えを出してるんだよ」
久城の瞳が、怯えを孕んで激しく揺れた。
「状況って……なんすか? 何がそんなに揃ってるっていうんすか」
俺はすぐには答えない。
代わりに――脳内の黒板に、これまで出揃った不気味なピースを整然と並べていく。
完璧に揃いすぎた、近隣住人たちの証言時間。
“夜遅くに帰宅したはずの人間を、誰一人として目撃していない”という奇妙な事実。
構造上、外からは絶対に見えないはずの窓辺の顔。
そして――あの崖へと続く、錆びた鉄パイプの道。
「……その、すべてだ」
短く、突き放すように言う。
久城はもう何も言えなかった。ただ、視線だけが居場所をなくしたように、テーブルの上を落ち着きなく泳いでいた。
「でも、まだ確定ではないです……私たちの思い込みの可能性だって……」
石井が自分に言い聞かせるように、小さく呟く。
俺は人差し指の先で、コン、とテーブルを軽く叩いた。
「ええ。その通りです、石井さん」
一度、彼女の言葉を肯定するように頷く。
「決定打はない。――だからこそ、一つずつ可能性を順番に潰していく必要がある」
怯えを隠せない石井へと視線を向ける。
「この不可解な失踪が……一体どうやって起きてるか」
「最初に私たちが考えたのは、家の中にある隠し通路の存在でした」
「そうだ。でも、家の中にはそれらしき痕跡はなかった」
今度は久城に視線を移す。
「さっき、庭にあるんじゃないかって、あんた自身が言ってましたよね」
久城が、弾かれたようにわずかに頷く。
石井がその思考を引き継ぐようにして、声を潜めて続ける。
「……だけど、あの庭は周囲の家から丸見えで、人目につきやすいです。普通に考えれば、近所の目を盗んでそんな作業をするのは不可能です」
「そう、普通なら無理だ。――だが」
俺はゆっくりと視線を上げ、二人の顔を見据えた。
「もし、あの庭の死角から、例の崖へ直接繋がるルートが存在しているとしたら?」
久城の表情が、完全に固まる。
「そして、近所の人間が、最初からそれを全員知っていたとしたら?」
石井が、ヒッと息を止めるのが分かった。
「さらに――」
俺は言葉のトーンをもう一段落とし、重く、引きずるように告げる。
「全員で、最初から口を合わせていたとしたら?」
冷たい、鉛のような重い空気が、カラオケボックスの部屋の底に沈殿していく。
「でも——そんな簡単に、町内総出で口裏なんて合わせられますか? 何のために……」
久城がまだ現実を拒むように呟く。
俺は小さく首を振った。
「久城さん、さっき自分でおっしゃってましたよね」
記憶を呼び覚ますように、彼に視線を向ける。
「この町の地主は、恐怖で住民を支配している
って」
久城の喉が、ゴクリと小さく鳴った。
もう、次の言葉は出てこない。
石井は青ざめた顔で、顎に手を当てたまま、静かに、そして絶望を孕んで呟く。
「……もし、宮野さんのその仮説が、本当なら」
――本当なら。
頭の中で、全ての歪な点が、恐ろしいほどの美しさで一本の線に繋がっていく。
その快感に、俺の頬が、わずかに緩んだ。
……いい。実によくないか。
胸の奥が、歓喜でぞわぞわとざわつく。
これなら――もう誰も、どこへも逃げ場はない。
もちろん、そんな歪んだ本音を言葉にはしない。
ただ、一つだけ、確信を持って言えることがある。
この町は――
最初から、とっくに終わっている。
「久城さん――これ以上、この件を調べたらダメです」
石井が突然、弾かれたように言った。
いつになく低く、はっきりとした、警告のトーン。
久城が怪訝そうに眉をひそめる。
「なんでですか? ここまで来て」
俺は、久城へゆっくりと視線を向けた。
「……もう、気づいてるでしょう?」
短く、淡々と言う。
「ここまで首を突っ込んでる時点で、俺たちの安全圏はとっくに外れてるんですよ」
久城の喉が、再び小さく鳴る。
「もし、この仮説が当たってるなら——」
あえて、そこで一度言葉を切る。
「“知らなかった”“ただの勘違いだった”では、もう済まなくなる」
威嚇するような視線を外さず、一文字ずつ刻みつけるように続ける。
「一歩でも深く関わった時点で、終わりです」
久城の呼吸が、目に見えてわずかに乱れ始めた。
「じゃ、じゃぁ……言い出しっぺの宮野さんはどうなるんですか?」
俺は椅子の背もたれに深く体重を預け、天井を見上げた。
抑えきれず、ゆっくりと、口元が不気味に歪んでいく。
「強制参加、でしょうね。向こうからお声がかかる」
これからこの町で起きるであろう、血生臭い破滅のシナリオを思い浮かべる。
――悪くない。むしろ、ゾクゾクする。
ふと向けられた視線に気づいて、横を向く。
「宮野さんって……もしかして、楽しんでますよね?」
久城が、本気で引き気味に、怯えの混ざった目を向けていた。
俺は小さく、含みを持たせて笑った。
「どうでしょうね」
石井が、そんな二人のやり取りを、感情の消えた目で静かに見つめている。
「宮野さんは……ともかく」
彼女は久城と、真っ直ぐに目を合わせた。
「久城さんは、まだ引き返せます。今すぐ手を引けば、戻れます」
言葉を慎重に選ぶように、ゆっくりと諭す。
その視線は、彼をこちら側の深淵から何としてでも引き戻そうとするように、強く、外れなかった。
そのとき――
ジリリリリ、とスマホの電子音が鳴り響いた。
密室の張り詰めた空気を、鋭く引き裂くように。
石井が肩をピクリと跳ね上がらせる。
「あ、俺のっす」
久城が慌ててポケットから端末を取り出した。
「誰からですか?」
俺は極めてさりげなく、だが動向を見逃さないよう低く聞く。
「前に言ってた……引っ越し会社に勤めてる、例の友達っすよ」
一瞬。
俺は、ほんのわずかに目を細めた。
久城はそのまま通話ボタンを押し、耳に当てる。
「もしもし、どうしたんだ?」
一瞬の、不自然な沈黙。
電話の向こうから漏れる微かな声を聴くうちに、久城の表情が、劇的に変わっていく。
「……は? 何言ってんだよ」
焦燥が声に混ざる。
「どういうことだよ。おい、待て! 切るなって――」
久城の制止も虚しく、ツーツーという非情な電子音が室内に響いた。通話が、一方的に切られた。
静まり返るカラオケボックス。
久城は、幽霊でも見たかのような顔で、ゆっくりとスマホを耳から離した。
「……あの時やり取りした、被害者の契約書の件が……会社の上層部にバレたって」
その言葉だけで、部屋の空気がさらに一段と重く沈み込んでいく。
だが。
久城の顔にある絶望は、それだけでは説明がつかない。
まだ、何か重大な事実を喉の奥で飲み込んでいる。
「他に、まだ何かあるんじゃないですか?」
石井が焦れったそうに、一歩先へ踏み込んで問い詰める。
久城はわずかに躊躇い――そして、諦めたように口を開いた。
「……あいつ、急に遠くの支店へ『移動』になるって。明日の朝一番の便で」
一瞬。
俺の頭の奥で、すべての回路が爆発的な速度で繋がった。
移動。
このタイミングでの、唐突な隔離。
――否。それは『失踪』のカウントダウンだ。
俺はゆっくりと、深く息を吐き出した。
「久城さん」
完全に据わった視線を彼に向ける。
「その友達のところへ、今すぐ車を出して迎えに行った方がいい」
久城が怪訝そうに眉をひそめる。
「なんで……そこまで……」
部屋の中が、水を打ったように静まり返る。安っぽいBGMさえ、もう遠くの雑音のようだ。
「放っておけば、そのお友達も近いうちに『消される』可能性があります」
俺の言葉が、墓石のように重く室内に落ちた。
石井の顔色から、完全に血の気が引いていく。
久城の喉が、引き攣ったように鳴った。
あまりの恐怖の質量に、誰も、すぐには立ち上がることすらできない。
――だが、心の中で俺は冷徹に嗤っていた。
もう、手遅れかもしれない、と。
胸の奥で、確信が完全な形を成していく。
この町は、決してヘマをしない。証拠を残さない。
秘密に触れた人間から順に、確実に、綺麗に消していく。
そして――
友達の、次は。




