第46話「光になんてならない」
光が——膝を超えた。
腰に達しようとしている。白い光。足元から這い上がってくる光。百年前の少女と同じ——体が導体の限界を超えて、光に変換され始めている。
——やだ。
消えたくない。光になりたくない。帰りたい。お母さんのご飯が食べたい。お父さんの工房で歯車を組みたい。学校に行きたい。
しかし手が——歯車から離せない。離したら四十五度が元に戻る。ダンパーが効くまで——あと何秒。
光が——腰で止まった。
ダンパーが効いた。ベルの手が正しい角度で歯車を保持しているから。四十五度の噛み合いがダンパーの応答を最適化している。
エネルギーが減衰し始めた。しかし光は——まだ消えていない。腰で止まったまま。
「ベル——光が消えない——!」
ギアが三枚の翅を全力で灯して叫んだ。しかし三枚とも暗くなりかけている。ベルに光を渡し続けているから。
「ダンパーは効いてる——エネルギーは減衰してる——なのに光が——」
「千年分の蓄積よ! エネルギーだけじゃない! 七十度の歪みが千年分蓄積されていて——それが光として体に残ってる! エネルギーを逃がしても歪みは逃げない!」
光がまた動き始めた。腰から腹に向かって。ゆっくりと。
「——消えない」
声が出た。ベルの声。
——雨が見えた。
あの日の雨。ステッキが折れた日。泥の中で膝をついた日。泣いた日。しかし——あの日も、立ち上がった。折れたステッキを拾って。泥だらけのまま。
あの日と同じだ。壊れかけている。折れかけている。しかし——。
「光になんてならない」
手が歯車を握りしめた。右手。歯車を組む手。お父さんに教わった手。お母さんの時計を直した手。
「泥だらけのまま——立ってる」
光が——震えた。感情が光に干渉している。技術と感情の融合。蒸気歯車の魔法。怖い。消えたくない。しかし——消えない。消えることを拒否する。泥だらけで。傷だらけで。不完全な魔法少女のまま——ここに立つ。
光が——止まった。腹で。ベルの拒否が光の進行を止めている。
しかし止まっただけで消えてはいない。膝から腹までの光がまだ残っている。
「消す方法は——」
「わからない——! 前例がない——! 百年前の少女は消えた——止まった前例がない——!」
ヴェヒターが——現れた。壁面から。四枚の白い翼。しかし翼が震えていた。
ベルの体に残っている光は——最適ではない。千年分の歪みが人間の体に残っている状態は——最適ではない。
ヴェヒターの翼がベルに向かって伸びた。
「攻撃——!?」
「違う——見て——」
翼がベルに触れた。痛くない。赤い光ではない。白い光。優しい光。
ヴェヒターが——ベルの体から光を吸い出している。千年分の歪みの光を。守護者が——引き受けている。
「ベルの体にある歪みは大時計の一部——だから、ヴェヒターの守護対象。ベルから歪みを取り除くことが——最適状態の維持」
光が消えていく。腹から。ゆっくりと。ヴェヒターの翼がベルの体に触れている——温かかった。白い光なのに。冷たいはずなのに。——温かかった。千年分の守護の温度。
膝に。脛に。足首に。光が引いていく。潮が引くように。
消えた。ベルの体から光が完全に消えた。
ヴェヒターの翼が——金色に輝いていた。ベルから吸い出した千年分の歪みの光。白かった翼が——金色に染まっている。ベルの光と同じ金色に。
ヴェヒターの体が——震えた。千年分の歪みを引き受けた。自分の体で。
その瞬間——声が聞こえた。
ヴェヒターの体の中から。歪みの中に封じ込められていた声。千年前の声。
「——止めろ。壊れるなら止めた方がいい」
ヴェルクの声。千年前にアルト・マイスターの同僚が言った言葉。歪みと共に大時計の中に千年間眠っていた思想。「不完全なものは動かすべきではない」。
声は一瞬で消えた。歪みと一緒にヴェヒターの体に吸い込まれた。
ベルは——聞いた。そして答えた。心の中で。
——それでも動かす。不完全でも。壊れかけていても。百万人が住むこの街を。
翼が——消え始めた。
四枚目の翼。一番外側の翼が——端から光の粒子に変わっていく。砂時計の砂が落ちるように。ゆっくりと。歯車の形をした翼が——歯車の形をした光の粒子に分解されていく。
「ヴェヒター——」
ベルが手を伸ばした。触れようとした。しかし——ヴェヒターの翼がベルの手を優しく押し返した。触れるな、と。触れたら歪みが戻る。
三枚目の翼が消えた。光の粒子が通路に漂った。金色と白が混じった粒子。千年の歯車に触れて——歯車が微かに輝いた。ヴェヒターの光が歯車に還っている。
二枚目の翼。体のシルエットが薄くなっていく。歯車の集合体がばらけていく。一つ一つの歯車が光の粒子に変わって——空気に溶けていく。
ヴェヒターの歯車の目が——ベルを見た。最後に。
目が——変わっていた。初めて見たときは、冷たい無機質な守護者のプログラムの目だった。
今は違った。歯車の目が柔らかくなっていた。光が暖色に変わっていた。白ではなく。金色でもなく。——琥珀色。ベルの修理品のステッキと同じ琥珀色。不完全な。しかし温かい色。
——安堵。
千年間守り続けてきた存在の最後の表情が——安堵だった。歯車が正しく回っている。歪みが消えた。もう、自分がいなくても大丈夫。
一枚目。最後の翼。
翼が——光の粒子になった。歯車の目が——最後に一度だけ瞬いて——消えた。
金色と白と琥珀色の光の粒子が——心臓部の空間に漂った。千年の歯車に触れて——全ての歯車が一瞬だけ金色に輝いた。心臓部の全ての歯車が。ヴェヒターの光を受けて。
そして——消えた。光が。粒子が。千年間この空間を照らし続けていた白い光が。
暗闇の中で——歯車だけが回っている。
「ヴェヒター——」
声が掠れた。涙が出た。メガネがないから涙が直接頬を伝った。
「……ありがとう。千年間——ありがとう」
返事はなかった。もういないから。
しかしベルの肩の上で——ギアの翅が光った。四枚。全部。ヴェヒターが消えた瞬間に——四枚目の翅が完全に戻った。
「ギア——翅が——」
「ヴェヒターの光が——少しだけ私に流れてきた。姉妹だから。同じ大時計から生まれた存在だから。——消える前に、私に光を渡してくれた」
ヴェヒターの最後の贈り物。姉妹への。
歯車が回っている。四十五度で。唸りなく。ヴェヒターの光もなく。ジャミングの闇もなく。
ベルの手が歯車から離れた。離しても——四十五度が保持されている。バイパスが完成している。
百年前の少女は手を離せなかった。一人だったから。
ベルは手を離せた。五人がいたから。全部があったから。——そしてヴェヒターが、最後に守ってくれたから。
立っていた。膝は震えている。しかし——立っている。光にならなかった。消えなかった。
泥だらけのまま——立っている。




