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第45話「行かないで」(後編)

 一人だった。


 通路を歩いている。狭い通路。壁面の歯車が回っている。大きな歯車。小さな歯車。噛み合いの軋みがここでは——悲鳴に近い。千年分の摩耗が最も激しい場所。心臓部への通路。


 ギアだけが肩にいた。翅を畳んでいる。光を出さないようにしている。ヴェヒターを刺激しないように。


 「怖い?」


 ギアが聞いた。


 「怖い」


 正直に言った。


 「やめてもいいのよ」


 「やめない」


 「……そう」


 ギアの声が——柔らかかった。初めて会った日の、はきはきした声ではなかった。もっと——静かな声。


 「ベル。一つだけ聞いていい?」


 「うん」


 「なぜ『行かないで』って言ったの。あなたが行くのに」


 足が——一瞬止まった。


 「……わかんない。口から出た」


 嘘ではなかった。あの瞬間、頭で考えて出した言葉ではなかった。胸の奥から出た。恐怖と愛情が混じった場所から。


 行きたくない。行かなければならない。二つが同時にあって——「行かないで」が出た。行くのは自分なのに。矛盾している。でも——本当の言葉だった。


 「行きたくないから『行かないで』って言った。でも行く。行きたくないのと行かなきゃいけないのは——別の話だから」


 ギアが翅を少しだけ広げた。微かな光。すぐ畳んだ。


 「……あんたは馬鹿よ」


 「ルストにも言われた」


 「ルストは正しいわ」


 通路の終わり。


 開けた空間に出た。


          ◇


 大時計の心臓部。


 巨大だった。


 天井が見えない。暗闇の中に歯車が回っている。壁面の歯車。床の歯車。天井の歯車。全方位から歯車の噛み合いの音が降ってくる。がちり。がちり。がちり。千年間一度も止まったことのないリズム。


 しかしリズムの奥に——別の音が混じっている。


 低い音。唸り。歯車の噛み合いが悪い箇所から漏れ出す振動音。お父さんの工房で聞いたことがある音。「この音がしたら歯車を止めろ。噛み合いが悪い証拠だ」。


 千年間——この音が鳴り続けていた。


 中央に——接続点があった。


 バイパスの最終端。ここに歯車を噛み合わせれば——千年分の七十度が四十五度に切り替わる。


 接続点の隣に、アース用の歯車が露出していた。大地に繋がる歯車。余剰エネルギーの排出口。ここに触れながらバイパスの歯車を同調させる。


 ベルはステッキを構えた。最後に——もう一つだけ、やることがある。


 「スチーム・リボン」


 蒸気がステッキから噴き出した。ギアの粉が混じった金色の蒸気。リボン状に伸びて——バイパスの最終歯車に巻きついた。接続の瞬間にズレないように。金色のリボンが歯車を正しい位置に固定している。接続の衝撃を吸収するクッションにもなる。


 巻きつけたリボンが金色に輝いている。暗い心臓部の中で——その光だけが温かい。


 ベルはステッキを置いた。床の上に。不完全なステッキ。もうここでは使わない。歯車の同調は——素手でやる。リボンが歯車を固定してくれている間に。


 手袋を外した。


 素手。十六歳の手。歯車を五歳から触ってきた手。お父さんに似た大きな手。泥と血と油で汚れた手。


 アース用の歯車に——左手で触れた。


 冷たい金属。千年前の鋳造。表面が滑らかになるまで回り続けた歯車の肌。


 右手をバイパスの最終歯車に伸ばした。


 噛み合わせる。本線の歯車と。四十五度の角度で。


 指先に——歯車の歯が触れた。噛み合いの感触。ここから歯を押し込めば——噛み合う。旧回路が遮断され、バイパスに切り替わる。


 切り替わった瞬間に——千年分のエネルギーが来る。


 左手はアース。右手は歯車。体が導体になる。


 怖い。


 手が震えている。右手が。バイパスの歯車に触れている右手が。


 ——お父さん。


 お父さんの声が聞こえた。記憶の中の声。


 「ベル。歯車を組むときに一番大事なことは何だ」


 五歳のときに聞いた。工房で。お父さんの膝の上で。小さな歯車を手に持って。


 「手を信じろ。歯車は手で組むものだ。道具は手の延長だ。最後に信じるのは——自分の手だ」


 自分の手。


 震えている。しかし——覚えている。四十五度の角度を。歯車の噛み合いの感触を。正しい噛み合いは抵抗がない。間違った噛み合いは引っかかる。手が——知っている。


 震えが——止まった。


 右手が。


 手が覚えているから。


 「……行くよ、ギア」


 「ええ」


 ギアが肩から飛び上がった。ベルの頭上でホバリングした。翅を全開にした。光を灯した——ヴェヒターを刺激するかもしれない。しかし構わなかった。ベルの手元を照らすために。


 金色の光がベルの手を照らした。右手。バイパスの歯車。左手。アースの歯車。


 「噛み合わせる」


 右手で——歯車を押した。


 かちり。


 噛み合った。


 旧回路が遮断された。バイパスに——全流量が切り替わった。


 その瞬間——。


 体が——燃えた。


 左手から。アースの歯車から。千年分の余剰エネルギーが——一気に流れ込んできた。


 痛い。


 全身が痛い。骨が震えている。歯が鳴っている。視界が白く飛んだ。音が消えた。歯車の噛み合いの音が——聞こえなくなった。白い静寂。


 手が——離れそうになった。右手が。バイパスの歯車から。痛みで。体が勝手に離れようとしている。


 離したら——バイパスが壊れる。


 「——離すな!」


 ギアの声。遠い。白い静寂の向こうから。


 「離したら全部やり直しよ! あんたが直した七箇所のバイパスが全部——!」


 離さなかった。


          ◇


 ——同じ瞬間。心臓部の外。螺旋階段の途中。


 ルストが壁に手をついていた。壁面の歯車が——揺れている。バイパスの切り替えの衝撃が伝わってきている。振動。歯車が軋む音。


 「バイパスが——揺れてる! 振動で歯車がズレる——!」


 カリンが叫んだ。手帳を見ている。バイパスの七箇所の設置データ。振動の許容値を超えかけている。


 ルストが走った。最も近いバイパスのポイントに。柄を——接続歯車に当てた。押さえた。頭のないハンマーの柄で。振動で歯車がズレないように。


 「フェーダー——! 振動を抑えて——!」


 フェーダーが歌った。声で。逆位相の振動を。バイパスの歯車の振動を打ち消す音を。喉が——まだ完全には回復していない。しかし歌った。


 カリンが残りのポイントを走り回った。設計図と照合しながら。「二番——〇・〇一ミリ動いてる! 許容範囲!」「五番——安定!」「七番——ルスト、七番も押さえて!」


 ルストが柄を持って走った。四番と七番の間を。行ったり来たり。振動が来るたびに歯車を押さえる。中で戦っているのはベル。外で支えているのは——三人。


 「持て——! ベルが終わるまで——持て——!」


 ルストの声が地下に響いた。ベルには聞こえていない。白い静寂の中にいるから。しかし——バイパスの歯車は安定していた。三人が支えているから。


          ◇


 ——心臓部の中。


 右手が——歯車を握りしめた。痛みの中で。白い静寂の中で。


 手が覚えている。歯車を離さない手。お父さんの手と同じ。組み始めたら最後まで離さない手。


 左手から入ったエネルギーが——体を通って——足の裏から大地に逃げていく。石の床を通って。大時計の基盤を通って。大地に。


 痛い。しかし——通っている。体が導体になっている。千年分のエネルギーが——体を通過していく。


 足元が——光り始めた。


 白い光。足元から膝に向かって這い上がっていく光。


 百年前の少女と同じ——。


 カリンの記録にあった。百年前にバイパスを試みた少女。彼女は——光になった。エネルギーのピークに耐えきれずに。体が導体の限界を超えて——光に変換された。消えた。


 光が——膝を超えた。


 腰に達しようとしている。


 消えるのか。光になるのか。百年前の少女と同じように。


 ——やだ。


 声が出た。心の中で。


 やだ。消えたくない。光になりたくない。帰りたい。お母さんのご飯が食べたい。お父さんの工房で歯車を組みたい。学校に行きたい。ルストと喧嘩したい。フェーダーの演奏を聴きたい。カリンの記録を読みたい。ギアに叱られたい。


 帰りたい。


 光が——腰で止まった。


 止まった。


 それ以上、上がらない。


 ダンパーが効いた。バイパスの歯車に組み込んだダンパーが、エネルギーのピークを吸収し始めた。ベルの手が——正しい角度で歯車を保持しているから。四十五度の噛み合いが——ダンパーの応答を最適化している。


 エネルギーが——減衰し始めた。


 光が引いていく。腰から。膝へ。足元へ。


 痛みが——変わった。鋭い痛みが鈍い痛みに。鈍い痛みが——脈動に。


 歯車の脈動。大時計の新しいリズム。四十五度の噛み合いが生む、千年間一度も鳴ったことのない——正しいリズム。


 唸りが——消えた。


 千年間鳴り続けていた唸りが。お父さんの工房の警告音と同じ唸りが。消えた。


 代わりに——穏やかな噛み合いの音だけが残った。がちり。がちり。がちり。正しいリズム。軋みのないリズム。


 ベルの手が——歯車から離れた。


 右手。バイパスの歯車。もう手で保持する必要がない。噛み合いが安定した。自立的に回り続けている。


 左手。アースの歯車から離した。指先が——赤い。やけどのような跡。しかし——動く。指が動く。


 立っていた。


 膝は震えている。体中が痛い。しかし——立っている。光にならなかった。消えなかった。


 ここにいる。


 ギアが——降りてきた。ベルの肩に。翅を畳んだ。光を消した。もう照らす必要はなかった。大時計の心臓部自体が——光っていた。バイパスの歯車が正しく回り、金属の表面が蒸気の光を反射して、金色に光っている。


 「……生きてるわね」


 「生きてる」


 「馬鹿」


 「……うん」


 ベルは踵を返した。


 通路に向かって歩き始めた。三人が待っている場所に。ルストが壁にもたれて、フェーダーがオルガンを抱えて、カリンが手帳に書きながら——待っている場所に。


 歩いた。痛む体で。震える膝で。


 通路を抜けた。


 踊り場が見えた。


 三人が——立ち上がった。一斉に。


 ルストの顔が——崩れた。笑ったのか泣いたのかわからない顔。「遅い」と言おうとして声にならなかった顔。


 フェーダーが走ってきた。ベルに抱きついた。小さな体が震えていた。何も言わなかった。ただ抱きついた。


 カリンが手帳に書いた。震える文字で。「帰還。ベル——帰還」。二文字。それだけ書いて——手帳を落とした。泣いていた。


 ベルは三人の中に立っていた。フェーダーに抱きつかれたまま。ルストが目を逸らしたまま。カリンが泣いたまま。


 行かないで——と言った。


 行った。


 帰ってきた。


 「……ただいま」


 声が掠れていた。


 ルストが鼻を鳴らした。「……おかえり。馬鹿」


 三回目の「馬鹿」だった。しかし今回は——一番柔らかかった。

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