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第45話「行かないで」(前編)

 大時計の心臓部まで——あと三十歩。


 バイパスの歯車は全て設置し終えた。四十五度の噛み合い。七箇所の迂回路。新しい軸。フェーダーの同調。カリンの設計図通りに、一つずつ。


 しかし——最後の一箇所が残っていた。


 バイパスの末端。大時計の心臓部との接続点。ここに歯車を噛み合わせれば、バイパスが完成する。千年分の七十度が四十五度に切り替わる。ジャミングの発生源が断たれる。


 しかし——問題があった。


 ギアが言った。


 「接続の瞬間、旧回路と新回路の切り替えが起きる。その一瞬——千年分の余剰エネルギーが行き場を失う。バイパスのダンパーだけでは吸収しきれない。余剰エネルギーの排出先が——必要」


 排出先。


 大時計の歯車機構は全て金属と石でできている。余剰エネルギーは歯車を通って拡散し、最終的に——大地に逃げる。しかし切り替えの一瞬に発生する過大なエネルギーは、歯車だけでは処理できない。


 「導体が必要。歯車機構の接続点と大地の間に、一時的に余剰エネルギーを通す導体。金属でもいい。しかし千年分のエネルギーのピークに耐えるだけの断面積を持つ導体は——この場にない」


 「人間の体なら——通る?」


 ベルが聞いた。


 ギアの翅が——止まった。


 「……通る。人間の体は導体。水分が多いから。接続点に触れながら、足を大地につけていれば——余剰エネルギーは体を通って大地に逃げる」


 「痛い?」


 「わからない。千年分のエネルギーのピークが人体を通過する。前例がない。計算上は——一時的な過負荷の後、ダンパーが効いて減衰する。しかし——」


 「死ぬかもしれない?」


 ギアが——黙った。


 黙ったことが答えだった。


 ルストが立ち上がった。


 「俺が行く」


 短い声。鍛冶師の声。ハンマーの柄を握りしめている。頭のない柄。頭はバイパスの軸になった。道具を差し出し続けた男が——今度は自分の体を差し出そうとしている。


 「俺の方が体が大きい。導体としての断面積が——」


 「ルスト」


 ベルが遮った。


 「断面積の問題じゃない。接続点に触れている間、バイパスの歯車を手動で同調させる必要がある。切り替えの瞬間に歯車がズレたら——バイパスが壊れる。歯車を同調させながら体でエネルギーを通す。両方を同時にできるのは——」


 「お前しかいない、か」


 「……うん」


 歯車を手で組める。ステッキの歯車と同じ構造。指先で角度を調整できる。四十五度の感覚を体が覚えている。お父さんに教わった手。


 その手で歯車を同調させながら——同じ体でエネルギーを通す。


 ルストには歯車の同調ができない。鍛冶師だから。金属を叩く手であって、歯車を組む手ではない。


 フェーダーには体力がない。オルガンを弾くための細い指と、蒸気楽師の華奢な体では——千年分のエネルギーのピークに耐えられない。


 カリンには——どちらの技能もない。記録者だから。


 ベルにしかできない。


 「——やだ」


 フェーダーの声だった。


 小さな声。蒸気楽師の少女が、壊れかけのオルガンを抱えて、首を振っていた。


 「やだ。ベルがいなくなったら——」


 「いなくならないよ。計算上は——」


 「計算上って何よ。ギアだって『わからない』って言ったじゃない」


 カリンが手帳を胸に押し当てていた。涙が溢れている。しかし声は出していない。記録者として——泣きながらも何かを書こうとしている。手が震えていて、文字にならない。


 ルストが——壁を殴った。三度目。拳が赤い。


 「ふざけんな。ここまで来て——お前が死ぬなんて——」


 「死なないって。たぶん」


 「たぶんって何だ!」


 ルストの声が——裏返った。初めてだった。鍛冶師の少年が声を裏返らせるのは。


 「ルスト」


 ベルがルストの顔を見た。正面から。メガネのない目で——変身中だから。しかし変身の力は消えかけている。装甲が半透明になっている。もうすぐ解ける。


 「行かないで」


 ベルが言った。


 ルストの目が——見開かれた。


 「行かないで。お願い。一緒に——」


 声が——震えていた。ベルの声が。


 行かないで。


 この言葉は——ルストに向けたものではなかった。フェーダーにでもカリンにでもなかった。


 自分に向けた言葉だった。


 行きたくない。心臓部に一人で入りたくない。千年分のエネルギーを体に通したくない。痛いかもしれない。死ぬかもしれない。怖い。怖い。


 行かないで——と、自分の足に向かって言いたかった。ここから動かないで。この場所で、三人のそばにいさせて。


 しかし——。


 足が。


 動いた。


 自分の意志ではなかった。もっと深い場所から——手が覚えている。歯車を組む手が、壊れたものを直す手が、千年前の設計者が「誰かが組み直してくれたら」と書いた願いを読んだ手が——。


 行かなければならないことを、手が知っていた。


 「……行くね」


 ベルの声が——静かになった。


 震えが止まったわけではない。声も体も震えている。しかし——足が動いた。心臓部に向かって。


 ステッキを握り直した。装甲が消えかけている。変身の力が弱っている。一割五分の修理品のステッキ。


 ——もう一度。


 メガネを外した。もう一度。最初から。


 ステッキを天に掲げた。歯車エンブレムが回転を始めた。蒸気が噴き出した。ギアの粉が降り注いだ。


 足元にギアシールが展開した。金色の歯車。琥珀色ではなく——金色。ベルの覚悟が光の色を変えた。感情が力に変わる。技術と感情の融合。蒸気歯車の魔法。


 装甲が——甦った。消えかけた装甲が金色の光に包まれて復元した。歯車翼が全開した。歯車リボンが風に揺れた。装甲スカートの歯車レースが金色に輝いた。


 「ロードアウト——アイアン・ブート!」


 そして——名乗った。いつもの名乗りではなく。


 「蒸気と歯車でこの街を守る——」


 声が地下空間に響いた。千年の歯車に。バイパスの歯車に。壁面のヴェヒターの光に。


 「——魔法少女アイアン・ベル!」


 光が爆発した。金色。一割五分のステッキから——百パーセントの光が。ベルの感情が——ステッキの限界を超えた。壊れかけた道具が、持ち主の覚悟に応えて、一瞬だけ本来の力を取り戻した。


 「待て——」


 ルストの手が伸びた。ベルの腕を掴もうとした。


 ベルが——振り返った。


 笑った。


 泣きそうな顔で。メガネのない目で。消えかけた装甲で。折れて直して折れて直したステッキを握って。


 「大丈夫。直すだけだから。壊れたものを——直すだけ」


 ルストの手が——止まった。


 掴めなかった。掴もうとした手が——開いた。


 ベルの背中が——心臓部への通路に消えていく。


 フェーダーが泣いていた。声を殺して。オルガンの鍵盤に涙が落ちていた。


 カリンが手帳に書いていた。震える文字で。「ベル、単独で心臓部へ——」


 ルストが——壁にもたれた。拳を開いた。掴めなかった手のひらを見下ろした。


 「……馬鹿だ。あいつは——馬鹿だ」


 しかし——追わなかった。


 ベルが「行かないで」と言ったから。ここにいてくれと。一緒にいてくれと。


 行かないで——と言った本人が、行った。


 矛盾していた。しかし三人には——わかった。


 ベルは三人にここにいてほしかった。自分が戻ってくる場所として。直し終えて、心臓部から出てきたとき——三人がここで待っていてくれること。それが「一緒に」の意味だった。


 ルストがハンマーの柄を握り直した。


 「……待つぞ。ここで」


 フェーダーが涙を拭いた。オルガンの鍵盤に手を戻した。


 「……同調、いつでもできるようにしておく。ベルが呼んだら——届くように」


 カリンが手帳を開き直した。新しいページ。


 「記録する。ベルが戻ってくるまで。全部」


 三人が——待ち始めた。


 心臓部の通路の向こうに消えたベルを。


 泣きそうな笑顔で「大丈夫」と言った、泥だらけの魔法少女を。

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