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第44話「千年の声」

 バイパスが機能している。七箇所の四十五度の歯車列が回っている。唸りなく。


 しかし——まだ完了ではなかった。


 バイパスの末端。大時計の心臓部との最終接続点。ここに歯車を噛み合わせれば——バイパスが完成する。


 しかしこの最終接続には問題があった。


 ギアが説明した。「最終接続の瞬間、旧回路の残存エネルギーが行き場を失う。七箇所のバイパスで大部分は吸収されるけど——心臓部の最終接続点だけは、千年分の余剰エネルギーが集中する」


 余剰エネルギーの排出先が必要。金属では処理できない量。


 「導体が必要。歯車機構の接続点と大地の間に、一時的に余剰エネルギーを通す導体。しかし千年分のピークに耐える断面積の金属は——この場にない」


 「人間の体なら——通る?」


 ベルが聞いた。ギアの翅が——止まった。


 「……通る。人間の体は導体。水分が多いから。接続点に触れながら足を大地につけていれば——余剰エネルギーは体を通って大地に逃げる」


 「痛い?」


 「わからない。千年分のピークが人体を通過する。前例がない。計算上は——一時的な過負荷の後、ダンパーが効いて減衰する。しかし——」


 「死ぬかもしれない?」


 ギアが黙った。黙ったことが答えだった。


 百年前の少女がどうしたか、ベルは知っていた。自分の体を導体にした。そして——光になった。


 「明日——最終接続をやる。心臓部に。一人で」


 三人が——凍った。


 フェーダーが口を開いた。声が枯れている。切り替えのときに歌い続けた喉がまだ回復していない。しかし——枯れた声で、はっきり言った。


 「やだ」


 小さな声。しかし——明確な拒絶。


 「やだ。ベルがいなくなったら——」


 「いなくならないよ。ダンパーの精度が——」


 「精度って何よ。ギアだって『わからない』って言ったじゃない。計算上は——って。計算上って何よ」


 カリンが手帳を胸に押し当てていた。目が赤い。しかし泣いていない。記録者として——泣く前に書こうとしている。手が震えていて、文字にならない。


 ルストが壁を殴ろうとして——止めた。拳を開いた。殴っても歯車は直らない。拳で壁を殴る代わりに——ハンマーの柄を握りしめた。頭のない柄。


 「……また、馬鹿なことを言う」


 「うん。馬鹿だよ。——でもやる」


 「お前が光になったら——俺のハンマーの頭は何のために歯車になった。俺の道具を犠牲にしたのは——お前が生きて大時計を直すためだ。光になって消えるためじゃない」


 「……ルスト」


 「死ぬなよ」


 声が——低かった。命令ではなく。祈り。


 「死なない」


 ベルは三人を見た。


 「明日の朝、ここに来て。最終接続の前に——話したいことがある」


          ◇


 その夜。家にいた。


 学校の帰りに、お父さんの工場に寄った。閉まりかけの工場。お父さんが片付けをしていた。


 「お父さん」


 「ん? どうした。今日は工房で課題やらないのか」


 「課題はもう出した。——お父さんの歯車、見せて」


 「歯車?」


 「お父さんが今日組んだ歯車。見たい」


 お父さんが不思議そうな顔をした。しかし作業台の上の歯車を見せてくれた。発注品。換気扇用の交換部品。直径五センチ。歯が二十四本。


 手に取った。重い。冷たい。しかし——精密。お父さんの手が作った歯車。三十年のキャリアの手。


 「きれい」


 「……急にどうした」


 「なんでもない。きれいだなって。お父さんの歯車」


 歯車を返した。工場を出た。帰り道、振り返った。工場の窓にお父さんの影が見えた。まだ作業している。歯車を組んでいる。毎日。三十年間。


 ——明日も、お父さんは歯車を組んでいるだろう。明後日も。ベルがいてもいなくても。


 いてほしい。見ていたい。お父さんの手を。もっと。ずっと。


 家に帰った。


 晩ご飯を食べた。お母さんの手料理。ハッシュドポテトとソーセージと、蒸気で温めたスープ。お父さんが工場から帰ってきて、三人で食卓を囲んだ。いつもの夜。テーブルの上の壁掛け時計がかちかち動いている。一分遅れの時計。


 「お母さん。お父さん」


 「ん?」


 「ごはん、おいしい」


 「……急にどうしたの。今日は工場でもそんなこと言ってたって、お父さんから聞いたよ」


 「なんでもない。——おいしいなって。毎日思ってるけど、言ったことなかったから」


 お母さんが笑った。お父さんも笑った。ベルも笑った。三人で。台所で。いつもの夜。


 しかし明日——光になるかもしれない。


 ベッドに横になった。天井を見た。歯車模様の壁紙。暗闇の中で歯車が回って見える。いつもそうだ。しかし今夜は——歯車が金色に見えた。


 ギアが枕元にいた。翅が三枚。ステッキの歯車エンブレムの上に座っている。小さな光がエンブレムを照らしている。


 「ギア」


 「何」


 「私が光になりかけたら——止めてね」


 「止められるかわからないわよ。前例がないって言ったでしょ」


 「止めて。——お母さんのご飯、また食べたいから。お父さんの歯車、また見たいから。ルストのハンマーの音、また聞きたいから。フェーダーの歌、また聞きたいから。カリンの手帳、また読みたいから」


 全部——また。明日の後にも。


 ギアの翅が——光った。三枚。微かに。しかし——確かに。


 「……止める。絶対に。——あんたの手がまだ必要だから。歯車を組む手が。この街に」


 目を閉じた。


 明日——千年分の歯車を、直す。

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