第42話「フェーダーの歌」
切り替えの直前——フェーダーのオルガンが壊れた。
七箇所同時同調の最終練習。全力で鍵盤を叩いていた。半分しか動かない鍵盤を——限界まで。七つの音を同時に出そうとして。
がきん。
鍵盤の裏で何かが折れた。蒸気パイプが外れた。鍵盤から指を離した——音が止まった。
もう一度押した。音が出ない。隣の鍵盤。出ない。その隣。出ない。
全く出なくなった。半分ではなくゼロ。
フェーダーの手が——鍵盤の上で止まった。
「……壊れた」
声が小さかった。震えていた。
「壊れた。完全に。——もう、音が出ない」
七箇所全部設置して。ルストがハンマーを犠牲にして歯車を作って。グロックがプログラムを更新して。ヴェヒターが承認して。全部揃って——切り替えの直前で。
自分の楽器が——壊れた。
フェーダーの目に涙が溜まった。しかし——溢れなかった。唇を噛んで。
「直すには——内部の歯車と蒸気パイプを全部組み直す必要がある。半日はかかる」
「半日。——しかし今日中に切り替えないと。明日には摩耗がさらに進んで接続歯車がまた合わなくなる」
ルストの歯車は三枚しかない。ハンマーの頭は全部使った。もう追加の歯車は作れない。今日中に切り替えなければ——全部やり直し。
間に合わない。
フェーダーが壊れたオルガンを膝の上に載せた。手袋を外した。素手で。鍵盤に触れた。沈黙の鍵盤。音のない楽器。
長い沈黙。
カリンが何か言おうとした。ベルが何か言おうとした。しかし——フェーダーが先に口を開いた。
「……声がある」
全員がフェーダーを見た。
「声がある。オルガンがなくても。声は——楽器。体が——楽器」
蒸気楽師の本質は音。オルガンは道具。音の源は——人間の声帯。体そのもの。
「人間の声帯で四十七ヘルツの低周波が出せるの?」
「普通は出せない。でも——倍音を使う。声の基本周波数は高くても、倍音に低周波成分が含まれる。歯車は倍音にも共鳴する。——蒸気楽師科で習った。先生は倍音を『不純物』と呼んだ。正確な音に含まれるべきではないノイズだと。でも——」
フェーダーの目が変わった。涙を呑み込んだ目。蒸気楽師の目。
「先生は間違っていた。倍音はノイズじゃない。——揺れ。人間の呼吸の揺れ。機械には出せない揺れ。歯車に最も深く届くのは——揺れのある音」
退学の理由。「正確さが全てだ」と言った先生と合わなかった理由。「揺れがないと歯車に届かない」という信念。
今——その信念が試される。
フェーダーが立ち上がった。壊れたオルガンを——床に置いた。丁寧に。ありがとう、と唇が動いた。声にはならなかった。
「やる。声で」
背筋を伸ばした。胸を張った。喉を開いた。
「——音痴じゃないから。ベルと違って」
「……今それ言う?」
泣きそうな顔で——笑った。
そして——歌い始めた。
声が地下空間に響いた。低い声。フェーダーの地声は高い。しかし——喉の奥から、腹の底から、背骨を震わせて、倍音を含んだ低い声を絞り出した。
歯車の振動数に合わせた声。四十七ヘルツの倍音。
声が——歯車に触れた。
壁面の歯車が——震えた。微かに。フェーダーの声に共鳴している。声の倍音が歯車の固有振動数と一致して——千年の歯車が応えている。
オルガンの音ではない。人間の声。揺れがある声。正確ではない声。しかし——千年の歯車に、最も深く届く声。
先生が間違っていた。正確さが全てではなかった。揺れこそが——歯車に届く。
フェーダーの目から——涙が流れた。歌いながら。声を止めずに。涙を拭わずに。
「……使える。声だけで七箇所同時同調ができる」
ベルが言った。
フェーダーの声が——武器になった。楽器が壊れても。道具がなくても。声がある限り——蒸気楽師は歌える。




