36 慈しみの手
空が夕暮れの衣を着終わろうとする頃。
私の足は止まっていた。
「……フィリア様?」
ロスティがこちらを見て黙り、周囲へと目を向ける。その視線を追わなくても分かる。今、近くには一本の少し大きな木がある。
彼女もその存在に気付いたのだろう。数度の躊躇いを見せた後、私を支えるロスティの手に力が入る。
「少しだけ、休みましょう」
そう言われ、私と彼女は並んで木の根元に座った。
カイルは少し離れた場所で立ち、何も言わずにこちらを見ていた。
「良い香りですね、フィリア様」
花は半分が蕾のままで、もう半分が開いている。そこから月の香りがふわりとしていた。
匂いは記憶を思い起こさせると言う。かつてロスティ様から聞いたその言葉通りに私の中でこの木の下での思い出が浮かび上がる。
「……これはね、月光花って名前の花。月の光を浴びて咲くのよ」
「ああ、だから、優しく光っているのですね」
なるほど、と、ロスティが月光花の淡い光へ目を細める。
「……あなたが昔私に教えてくれた事よ。覚えて、いない?」
「ごめんなさい。覚えていません」
「そう、よね」
肺から空気が抜ける。ロスティが何も覚えていない事なんて分かっている筈だ。
「この庭園はね、私とロスティ様が初めて出会った場所なの」
大庭園の思い出に私は包まれていた。だから、何度もしてしまった問いをまたロスティへ投げてしまう。
「進級試験の後ね、私が持ってきたお茶菓子をあなたは美味しそうに食べてくれたの」
「鎮魂祭の夜よ。空にね、魔法の炎で大きな花を描くの。それをこの木の下から二人で見たの」
「他にもね、アルベルト様への贈り物の相談をしたいって、あなたが言って、二人で考えながらここを歩いたの」
意味が無い。答えは分かっている。でも、口は思い出を語ってしまう。
黙って、けれど、真っ直ぐに紅玉の瞳を向けて、ロスティは私の話を聞く。
「……覚えて、ない?」
「はい。覚えていません」
返答に迷いは無い。ああ、そうか、と私は目を伏せる。
力なく地面に落ちた手は夕暮れの光で赤く染まっていた。
「ごめんなさい」
月光花の花弁が一つ落ちる。私の口から出た言葉にロスティが息を呑んだ。
「……何で、謝るのですか?」
問いが来た方向へ地面から視線を移す。
そこには同じ瞳の輝きを持った違う人の顔があった。
「あなたに、ロスティ様を重ねてばかりだから」
紅玉の瞳が小さく見開かれる。その口はしばらく閉じられ、ロスティの手が私の頬へ触れた。
「構いません、フィリア様」
手から彼女の感情が伝わる。そこには怒りも悲しみも無い。ただ、私を慈しむ心だけがあった。
喜ぶべきなのだろう。それが無理ならせめて悔しがるべきなのだろう。
でも、私の心は上手く動かなかった。
「……立ちましょう。フィリア様。追憶石はすぐ近くにあります」
ロスティが立ち上がり、私に手を伸ばす。緩慢に反射的にその手を私は掴んでいた。
少し歩いた後、ロスティが足を止めた。
「ここです」
そこは大庭園の一番奥、簡素なベンチとテーブルが置かれた場所だ。
「……ここで良く、お茶会をしていたの」
だから何だ? それを言って何になる? 言わなくても良い言葉がただ口から洩れた。
「光は、っと、ここか」
足元、ベンチの近くに白い追憶石からの光が伸びていた。ロスティがベンチの下をのぞき込み、「あ!」と声を出した。
「ありました。金色の追憶石です」
布越しに持ち上げ、ロスティがテーブルの上にそれを置く。
夕暮れの光を反射する金色の宝石だった。
「フィリア様、記憶の再生をさせてください」
「いいよ」
どうでもいい。私にはもう追憶石を再生する目的が無い。だけれど、ロスティには意志があって、それが私の理由に成っていた。
「手をお借りします」
ロスティが両手で私の左手を持った。包み込む様な暖かさだけはロスティ様と同じだ。
息を整える事も無く、緩慢に、私は金の追憶石に触れた。
そして、追憶石が記憶を再生する。
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