静寂に潜む 〜 暗躍のうねりⅶ
V国ヘリの追跡を受けながらも、機内ではイルとマコトの会話が弾むころ、時を同じくして、館山の南海上沖、外湾の相模舟状海盆と呼ばれる水深3000m級の海溝の深度500m付近に数週間前から息をひそめるように滞在を続ける原子力潜水艦の姿があった。そして数日遡る。
シューッ……ピコーン……コポコポ……
「ホントにこんなところで張っていて、何か掴めるんですかね」
潜水艦の司令塔の直下、指揮系統・監視中枢を束ねる発令所で、ソナーコンソールを見つめるソナー長は、張り詰めた静寂な空気に抗わず圧し殺すような小さな声で艦長に問い掛けた。
「あー、そうだな。それはわからん。何も得られないかもしれない。1週間後には艦は入れ替わる。それまでの辛抱だな」
どうやら、任務の詳細は伏せられたまま、この極秘ミッションは開始されていたようだ。
それもそのはず。二週間ほど前、今は平時だが、有事のソレを遙かに凌駕する勢いで緊急抜擢・招集・突貫錬成、特殊装備を調え、約十日前に出航し、あり得ないほどの速度で潜行移動、二日前に現在配置に就いたばかりだった。それゆえに、乗組員の各々が満足に言葉を交わす暇さえなかったわけだ。
そんな荒技が為せたのも、U国内から選りすぐられたその道のエキスパートたちのスキルの高さゆえだろう。
「えー、まだ1週間もあるんですか? このヒソヒソとしか話せないこともストレスですが、この辺りは複合的なプレートで、複雑な海溝地形の上に、海流も速い。操舵手が悲鳴を上げてますよ」
今明かされた期間情報に揺り起こされる鬱憤が口を突くように溢れ出す。
それでも静寂はキチンと護られる。個々人の性格はまだ現れていないこともあるだろうが、歴戦の猛者たちが集うこの艦内に、迂闊な物音を立てるものなど、一人としていないのだ。
そして静寂を保持できてこそ、周囲の状況変化を正確に聴き分けることにも繋がる。もちろんひとりだけ静かにしても意味はない。
|One for Silence, 《一人は静寂のために、》|Silence for All《静寂は全員のために》.
明日の朝、微睡みながら、ベーコンエッグトーストを頬張り、少し甘くした熱々のコーヒーを啜る。そんな何気なくも贅沢なひとときを味わえるか否か。
そんな他愛ない日常がどんなに尊いことか。かつて多くの友を見送り、培った生死を分かつ経験則。彼らにとって、この場におけるソレが静寂を守ることなのだ。
明日の微睡みを迎えるために、彼らはどんな予兆も聞き漏らさない。
そうして早速、今、静寂の上に浮き彫りにされる何か……。
「おい、来るぞ、右上」
「何がだ?」
「さあな、ふふん」
突然小声で言葉を発したのは、艦長席後方に視界を封じ座席に厳重拘束された囚人だった。何かはわからず問い質す艦長に、囚人は微かに片側の口角を上げ、答えをはぐらかす。
艦長との会話にスルッと割り込んだそんなやり取りを訝しげに見据えるソナー長。その視線に気付く艦長。
「あ、ソナー長……そういえば言ってなかったな。この者は……」
そしてそれとほぼ同時に外から伝わる微かな音にソナー長の耳が反応する。
……サラサラサラ……
「ん? ちょい待ち……」
あまりにも微かな音だが、聞き逃さなかったソナー長は、視線を斜め上に向けつつ、不躾に艦長との会話を切る。艦長はそれを遮らないように返事のみ返す。
「お、おお」
「上方注意! ……艦長!」
即座に上方への注意を呼びかけ、艦長に目を合わせながら、身体と顔はソナーコンソールと、未来を先取りしているかの、高解像度パッシブ・ソナー映像に向かい、後追いの視線を艦長から映像に向け変える。
「上方と側面もだ、注意!」
「サー。上方、相対約220m、4時方向のプレート面の崖一帯で崩落。軽度 ……」
やや呆気にとられていた艦長だったが、耳に入る情報と現在の艦の周囲状況、プレート面との距離は10メートルかそこら、即ちゆとりは皆無に等しい。4、5メートル上なら急激に溝幅は開けていたことを思い出し、頬を叩いて行動を起こす。
「よし、わかった。ちと動くぞ。指示に的確に従ってくれよ。大きく傾くからバーに掴まれ! 準備はいいか?」
「アイ、サー」
艦長はすぐさま短い明確な指示を次々と発していく。復唱も短めだ。
「右舷バラスト、10%排水!」
「右舷10%ブロー!」
「超微速前進、3ノット、潜舵、浮上角10度!」
「微速3、浮上角10度!」
シューーッ……ッゴォォォ……バシャバシャ……
圧縮空気をタンクに吹き込み、右舷バラストから水の排出が始まる。
すると、僅かに遅れて右舷だけ浮き上がる挙動。艦体に左へ傾きの行き足が生まれる。この機を逃さず艦長は次の指示を発する。傾斜に伴い通路等の乗員は慌てて手すりに掴まる。調理室では人も鍋や器具もてんやわんやだ。予告なく行った緊急対処だから仕方ないことだった。
「ロール検知……よし今だ! 左舷バラスト、12%排水、急げ!」
「左舷12%ブロー!」
シューーッ……ッゴォォォ……
今度は左舷バラストから水の排出だ。
右舷の浮力と合わさることで艦体全体の浮力として左上方斜めにゆっくり浮き上がり始める。また、左舷の浮力がやや勝ることから今度は右向きのロールが生まれ、左向きの傾き成分は減少し、左右の傾きは水平へ復帰する挙動を示す。反対向きへの戻りの傾きに通路の乗員はホッと手すりへの力を緩める。
あと少しで水平となる機を狙って、次の指示だ。
「艦体、水平に戻せ。両舷バラスト、10%注水、トリム調整!」
「両舷10%ベント! トリム!」
ゴボゴボ……ザバ……ザバーーーーーーーッ……
水平となるよう微調整を図りつつ、今度は両舷バラストへ水の注入だ。
浮上する勢いは注水により徐々に収まっていき、水平を保ち浮上も停止する頃に最後の指示だ。
「よぉーし、収まったな。ベント閉じろ。前進停止。浮力と姿勢安定するようトリム」
「ベント閉じぃ! トリム!」
やや強引な操艦により、潜水艦は位置を変え、姿勢を変え、外観的な望む変化を成し遂げるが、艦内各所では大小さまざまな不均衡が生じている。それを整え、浮力と艦内の前後左右のバランスが均一となるように、バラストだけでなく、トリムタンクの水の移動により整える操作が必要となる。
この一連の流れにより、潜水艦は崩落するプレートの壁面から僅かに離れ、僅かに浮上し停止する、というロールと時間差を駆使した見事な操艦を成し遂げる艦長。
プレートの裂け目の下に行くほど先細りする狭い隙間空間に、U国屈指の技量を誇るベテラン艦長の操艦により、大型原子力潜水艦が潜むように滞在していたわけだが、流石にプレートにおける潜在経験はなかったため、今、初めて遭遇する困難なシチュエーションであった。
それでも潜在停止=運動エネルギーがゼロの状態から動かそうとすると、艦体は想像を超える複雑な3次元運動(横傾斜と縦傾斜)を引き起こす。そのため、行き足をつける微速前進とそれで生まれるプロペラ後流を当てた微妙な操舵のかけ合わせによる補正もそうだが、浮力の制御をベースに、艦体と周囲のそれぞれの状態変化、それに対応する人的な操作や、その結果が及ぼす遅れなど、意図しない未来予測を遂げないために、総合的に見据え、あくまで慣性の法則に基づいた的確なタイミングを読み切ってみせた艦長だった。
この迫る危機への許容された短い時間に可能と思える、為すべき対処を成してみせた艦長。あとは祈るしかない、そんな心持ちでクルーに指示する。
「来るぞ! クルーは衝撃に備えろ!」
……ドドドッ……カスッ……カスッ……ドドドッ……ドドドッ……
艦体右舷の数メートル外側を掠めるように崩落土砂が駆け落ちていく。その本体の衝撃は免れたようだが、そこから飛散する若干の砂粒が時折ぶつかり艦体を僅かに揺らす。
……ダンッ……ダダダッ……ダンッ……
砂粒でも高密度の乱泥流は時速数十キロメートルの猛スピードで落下する、その一部だ。その数秒間、艦内に響き渡る衝突音は、クルーにとっても気が気ではなかったようだ。
シーン……コポッ……
「どうやら収まったようだ。だが暫くは注意を怠るな! とはいえ、みんなよくやったな! お疲れさま」
「サー」




