第8話 奇跡が起きてもいつも通りのようです
事故の翌日も、大学は何事もなかったように動いていた。
昨日のように視界が暗くなることはないものの、身体の奥にはまだ鈍い重さが残っている。それでも、講義の時間も人の流れも、私が奇跡を使う前と何一つ変わっていなかった。
講義へ急ぐ学生が廊下を行き交い、中庭では空いたベンチを探す人がいる。私たちが打ち合わせのために借りた教室の前にも人だかりはなく、相変わらずいつもの五人だけだった。
変わったのは、千夏さんが机の中央へ置いた携帯電話の中である。
「学内の知り合いから送られてきた。昨日の動画、もう出回ってるぽいね」
画面には、階段の踊り場へ膝をつく私と、指の間からあふれる白い光が映っていた。撮影した者の呼吸で映像が細かく揺れ、周囲の声も重なっている。昨日、私が人垣の向こうに見たレンズの一つだろう。
「負傷された方は、どこまで映っていますか」
千夏さんは元の投稿と、そこから作られた短い映像を切り替えた。
「広がってる方は、光が出てからの部分が中心。倒れている人の顔はほとんど入ってない。でも、元の方には横顔と血が映ってる。周りが名前を呼んでる声も、少し残ってるかもしれない」
私は音量を下げ、映像を止めながら一つずつ確認した。顔の一部、血の広がった床、衣服、周囲の呼び声。単独では特定につながらないものでも、複数を組み合わせれば、知人には分かる可能性がある。
戸田さんは、すぐに昨日の主催者へ連絡を入れた。投稿者へ、該当箇所の削除か、少なくとも顔と音声を分からなくする編集を頼めないか確認するためである。すでに転載された映像まで回収できるわけではないが、何もしないよりはましだろう。
「負傷された方が映っていない切り抜きも含めて、引用も再投稿も我々の公式アカウントではしないでください」
「それは最初から、そのつもり」
千夏さんは公式アカウントの画面を開いたまま頷き、事故映像へつながる投稿を閉じた。戸田さんの端末には、主催者から投稿者へ連絡する旨の返答が届いていた。できるところまで対応を頼み、私たちはようやく、広く共有されている短い映像の反応を確認した。
そこでは負傷者より、白い光の方が圧倒的に問題になっていた。
映像を本物だとする者のすぐ下に、《AI生成だろ》という反応があり、その下では《CG乙》と断定した者、さらに別の誰かが根拠の分からない反論を返している。さらに《本物ならもう一度やれ》と求める者が現れ、それに対して《不謹慎すぎないか》という、真偽とは別の心配まで加わっていた。
誰も昨日までの私たちの活動を知らない。映像の中で起きたことを確かめるというより、各自が本物、偽物、演出の札を一枚ずつ置いて遊んでいるように見えた。
安心してよい状況ではない。それでも、負傷された方の素性や容体が面白半分に推測されるより、関心が白い光の真偽へ偏っている方がまだよい。いま見世物になっているのは私の方だった。
「負傷された方の情報に関心が集まっていない点には、少し安心しました。ただ、再実演はしないと示す必要があります」
「その前に、こっちも見て」
千夏さんが指で示したのは、《これ、慈愛と光明による現世救済会の人では》という短い書き込みだった。誰かが会の名を知っていたらしい。長い団体名を手がかりに検索した者たちは、すでに私たちの公式アカウントへたどり着いていた。
奇跡の映像から来た人々を待っていたのは、空き教室で行う相談会の案内、途中退出自由の説明、入信しなくても相談できるという注意書きである。昨夜までほとんど動かなかった過去の投稿にまで反応が付き、《本当に聖女を名乗っている人だった》《設定が細かい》《大学のサークルなのか宗教なのか分からない》と、活動案内そのものが追加資料のように読まれていた。
三木さんは、教室の黒板を四つに区切った。閲覧、フォロー、問い合わせ、来訪。それぞれの下へ、増えた、増えた、少数、ゼロと書き分ける。
「まとめて反響って呼ぶと成功したように見えるけど、増えたのは前の二つだな。相談できるか、見学できるかって質問もなくはないが」
確認するまでもなく、廊下は普段どおりだった。扉の外で足を止める者はなく、教室の中にいるのは運営五名、相談継続希望者はこれまでどおり増えていないし、正式信徒はゼロ名のままである。
ネット上だけを見れば、昨日とは別の団体になったように思える。しかし、携帯電話から顔を上げれば、私たちの前にあるのは借りた教室の机と、誰も座っていない椅子だった。
「このまま何も出さないと、検索して来た人にとっては、第三者の切り抜きが会の説明になる」
奇跡を宣伝へ使うのではなく、すでに関心を持った人へ私たちの方針を示すための発信は必要である。
「賛成です。公式見解を固定し、プロフィールから、相談案内と問い合わせ先へすぐ移れるようにしましょう。動画を見た方が次に何を確認すればよいか、導線も統一すべきです。可能であれば、教義についても知ってもらいたいものです」
千夏さんは、私の提案をそのままメモへ移した。
「そこまで決まってるなら、話が早い」
「SNSマーケティングも、少しは学んでいるのです」
「これって全部、広報担当の仕事であってる?」
作業はすぐに始まった。三木さんが公式見解に必要な項目を並べ、佐伯さんは、負傷者の情報を広めないよう求める文面が責める口調になっていないかを確かめる。戸田さんは携帯電話を固定するため、教科書と筆箱と小さな卓上台を組み合わせ、窓から入る光が顔の片側だけを明るくしないようブラインドを調整した。
私は、三木さんが並べた項目を、事実関係と安全事項の順に短い原稿へまとめた。事故映像を利用しないこと、奇跡が医療の代わりではないこと、団体の主活動と相談条件――残念ながらショート動画に収める以上、神学や具体的な教義へ話を広げる余地はない。千夏さんが意味の重なる箇所を削り、佐伯さんが言葉の温度を整え、三木さんが項目の抜けを確認した。
「これで一分前後。原稿を全部覚えなくていいから、意味の切れ目で撮るよ」
「承知しました。それでは参りましょうか」
信徒数、ゼロ名。
公式アカウントのリプライ・引用・再投稿、多数
我々の声明をださなければならない。
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