第7話 ターニングポイント
慈愛と光明による現世救済会にとって、相談会に続く最初の対外活動は、《受付はこちら》という案内板を運ぶところから始まった。
戸田さんが見つけた学生ボランティア企画へ設営協力を申し込んだ結果、先方から指定された仕事は、案内表示と椅子の設置、通路の養生である。団体の勧誘はなし。活動記録に人を写す場合は、本人と主催者へ確認する。その条件だけを入口で確かめると、五人はすぐに作業へと分かれた。
「自分から提案しておいてなんだけど、最初の対外活動が矢印一枚からで良かったのかな」
戸田さんは、案内板と配られた配置図を見比べている。
「会場へたどり着けなければ、皆さま自分の目的の企画に参加することもできません。必要な一枚です」
三木さんは椅子を運び出しており、千夏さんは人の顔が入らない角度から設営の様子を一枚だけ撮った。佐伯さんが主催者へ詳細な配置を確認している間に、私は通路の端へ養生テープを貼っていく。
壮大さには欠けるが、誰かが迷わず歩けるようにすることも、誰かを助ける仕事の一つである。
最後の案内板を持って階段側へ向き直ると、主催側の学生二人が折り畳んだ展示用機材を上階へ運んでいたが、下側を持つ学生の靴が段の縁で滑った。傾いた機材から手を離したのと同時に身体も倒れ、後頭部が踊り場へぶつかる鈍い音と、金属が階段を叩く激しい音が続けて響いた。
機材は階段脇へ斜めに引っかかり、学生はそのそばの踊り場で動かなくなっていた。頭から流れた血が床へ広がっている。近くにいた一人が悲鳴を上げ、駆け寄ってきた別の一人が肩を抱えて起こそうとした。
「動かさないでください。機材にも触れないで」
声を張ると、伸びかけた手が止まった。周囲の危険、呼びかけへの反応、呼吸、出血。見る順番を考えるより先に身体が動き、私は倒れた学生の傍らへ膝をついた。目は開いたが焦点が合わず、息は浅く速い。問いかけには、かろうじて声が返った。
「三木さん、119番です。転倒して頭を打ち、出血があります。電話は切らず、指示をこちらへ伝えてください。戸田さんは倒れかけの機材を安全な場所に遠ざけて、救急隊の通路を確保。千夏さんは主催者と施設担当者へ連絡を。佐伯さんは、この方へ声をかけ続けを」
四人は動揺を隠せていないが何とか動き出すと、立ち尽くしていた他の主催側の学生たちも後に続く。救急用品を取りに走る者、階段の上から人が下りてこないよう制する者、入口へ救急隊を迎えに向かう者に分かれていく。
「聞こえますか。お名前を言えますか」
佐伯さんの問いに、学生は一度目で答えられず、二度目に名字だけを漏らした。その声も、濡れた紙を擦るように弱い。
三木さんが通話先の指示を復唱する。私は手袋をはめ、運ばれてきた清潔なガーゼを傷へ当てる。指示された位置をずらさないように押さえる。すぐに白い布の中心が赤くなり、じわじわと縁へ届く。新しいガーゼを重ねても、下から上がってきた赤が指の間へにじむ。
血は髪に絡み、耳の後ろから首筋へ細い筋を作っていた。床に落ちたものは蛍光灯を鈍く映し、鉄に似た匂いが、埃と養生テープの匂いを押しのけていく。ガーゼ越しの温かさと重さが増すたび、学生の顔からは色が抜けていった。
「救急車、あとどれくらいですか」
「向かってる。あと十分はかかりそうだ」
佐伯さんがもう一度名前を呼ぶと、学生のまぶたがわずかに動いたが、返事はない。肩へ触れても、先ほどまであった身じろぎが消えている。呼吸はまだ続いているが、間隔は少しずつ遅くなり、胸の上下も小さくなっている。
この反応の遠のき方は、前世の野戦救護所で何度も見た、待てば戻らない変化だった。
「意識がなくなりました。呼吸はありますが、浅く弱くなっています」
三木さんがそのまま通話先へ伝える。佐伯さんの手が一瞬だけ止まったものの、すぐに学生の名を呼び直した。
人垣の向こうで、携帯電話を掲げる腕が見えた。一人ではない。戸田さんが撮影を控えるようにと声を上げるが、階段の上と廊下の奥に残ったレンズは、なおこちらを向いていた。
奇跡を使うべきか。
今ここで奇跡を使えば、きっと見られる。
奇跡は、一度だけ見せて終わりにはできないだろう。目撃した者はもう一度を求め、映像を見た者は真偽を確かめようとする。治してほしい人々が現れても、その全員を救う力は今の私にはない。なぜこの人を助けて、別の人は助けないのか。その問いに、奇跡が届かなかった人の数だけ答えなければならなくなる。
宗教団体の代表が治癒を行えば、医療と信仰も容易に結びつく。救われるためには信じなければならないと受け取る者や、病院より先に私を訪ねる者が出るかもしれない。家族も、ここにいる四人も、相談に来た人々も、私が引き起こした注目から無関係ではいられない。
だから、公開しなかった。だから、奇跡に頼らない形で、現世での神殿機能の再構築をするつもりだった。
掌の下のガーゼが、また血を吸って重くなる。
学生は呼びかけに応えない。本人の判断を待つ時間ももう残っていない。救助は近づいているが、到着まで身体が持ちこたえる保証はない。
奇跡を隠してきた理由は、誰かを守るためのものだった。そのために、いま救える命を守れないのでは本末転倒だ。
私は、階段の上で光る携帯電話のレンズから目を戻した。公開した後に起きることは、私が引き受ける。いま力を使わなければ、目の前の人に後はない。
「助けます」
返事はない。
血に濡れたガーゼへ掌を重ね、祈りを捧げる。
どうか、この方の命が、ここで途切れませんように。
白く、淡い光が指の間に生まれる。
光はガーゼの繊維を内側から透かし、赤く濡れた布と私の手を柔らかく照らす。眩しいはずなのに目を刺さず、熱も音もない。少し前まで重なっていた呼び声や足音さえ遠のき、その場だけが祈りの最中に置かれたように静まっていく。人垣の向こうで掲げられた縦長の画面にも、同じ白が小さく浮かんでいることだろう。
前世の大聖堂では、朝の光が高い窓を抜け、祈る人々の肩へ降りていた。けれど、いま照らされているのは磨かれた床でも祭壇でもない。大学の踊り場に広がった血と、汚れたガーゼと、倒れたままの一人の学生である。
前世では祈りへ応じた聖力が水のように身体を巡ったが、この世界ではその流れが遠く細い。乾いた土の奥から一滴ずつ汲み上げるように力を集め、掌の下へ注ぐたび、胸の内側が削られていく。
新しい赤が布の表面へ浮かぶ速さは、少しずつ落ちていく。首元で確かめていた脈の乱れが弱まり、浅く乱れていた呼吸が、細いながらも一定の間隔を取り戻していく。学生は目を覚まさない。ただ、消えかけていた身体の働きが、救急隊へ渡すための時間を取り戻していた。
これ以上聖力を重ねても、失われた血は戻らず、病院で必要となる診断や処置の代わりにもならない。呼吸と出血の悪化が止まったことを確かめ、私はそこで力を抜いた。
光が薄れるのと入れ替わるように、サイレンが外から聞こえてくる。
途端に視界の端が暗くなり、身体の奥へ鉛を流し込まれたような重さが来た。耳の奥で血の流れる音が大きくなり、腕が震え始める。佐伯さんが私の肩へ手を添えたが、それでも救急隊が階段を上がってくるまでは、ガーゼから手を離さなかった。
◇ ◇ ◇
到着した救急隊へ、三木さんが経過を引き継いだ。隊員たちは出血と呼吸を確認し、頸部を固定して学生を担架へ移す。
「出血量のわりに容体はよさそうです。呼吸も問題なし。急いで搬送します」
その言葉を残し、救急隊は担架を運び出した。学生は最後まで意識を取り戻さなかったが、胸は一定の間隔で上下していた。
救急車の扉が閉まる。赤い光が壁を流れ、サイレンが遠ざかっていくまで、誰も話さなかった。
緊張が切れると同時に膝から力が抜け、私は近くの壁へ手をついた。佐伯さんがすぐに腕を支え、千夏さんは椅子を引き寄せる。戸田さんと三木さんも戻ってきたが、二人とも先ほど光っていた私の手を見ていた。
しばらくして、三木さんが慎重に口を開く。
「今のは、奇跡ってことでいいのか」
「はい。治癒の奇跡です」
四人の視線が集まった。千夏さんは血の残る踊り場を見た。
「じゃあさ、光莉さんは本当に聖女だったんだ」
「はい。その点は、最初から事実として説明していました」
今度は、誰も異論を挟まなかった。
こうして本会は、発足後初めて、代表が本当に聖女であるという一点について、運営内部の認識を統一した。
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