二つの世界の狭間で
週の真ん中、水曜日。
いつも通り仕事をしていると、上司に呼び出された。
正直、全く心当たりがない。ミスはしていないはずだし、遅刻もしていない。強いて言えば――
(最近ちょっと集中できてないくらいか……)
それくらいしか思い当たらないまま、席を立つ。
「失礼します」
上司のデスクの前に立つと、彼は少しだけ柔らかい表情でこちらを見た。
「なあ、最近少し上の空になってることないか?」
やっぱりそこか。
「仕事で大きなミスはしてないけどな。気になってさ。俺でよければ話聞くぞ?」
この人は本当に面倒見がいい。部署内でも人気がある理由がよく分かる。
……だからこそ、余計にやりにくい。
「いえ……その……」
言葉が詰まる。
異世界での生活とかそんな話、できるわけがない。
「話しにくいことか?」
上司は無理に踏み込んではこない。ただ、逃げ道を用意するように言葉を続ける。
「お前、前に言ってたよな。頼れる身内がもういないって」
「あ、はい」
自然と頷いていた。
「両親は幼い頃に亡くなって、祖父も大学卒業後くらいに……。親戚も、いるとは思うんですけど会ったことがなくて」
正確には、祖父は「この世界の人間じゃなかった」からいないんだけど――そこは言えない。
「そっか……」
上司は一瞬だけ考えるような顔をしたあと、軽く息を吐いた。
「じゃあ頼れるのは友達か。まあ、俺に話しにくいなら無理に聞かない。でも愚痴くらいならいつでも聞くぞ。仕事でもプライベートでもな」
……ほんと、いい人だよな。
「ありがとうございます。気持ちの整理をしたいので……そのうち聞いてもらってもいいですか?」
「ああ、もちろんだ。溜め込みすぎるなよ」
それだけ言って、話は終わった。
自席に戻りながら、小さく息を吐く。
(気づかれてたか……)
表面上はいつも通りにしていたつもりだったけど、やっぱり無理が出ていたらしい。
原因は分かっている。
奏太と琴音が「向こうの世界」を選んだこと。
そして――
自分はどうするのか、まだ決めきれていないこと。
仕事は問題なくこなせている。でも、意識のどこかは常に別の場所にある。
このままギリギリまで悩み続けていいのか。
それとも、どこかで区切りをつけるべきなのか。
答えは出ないまま、時間だけが過ぎていく。
そして――金曜日の夜。
俺はログハウスへと戻ってきた。
「ただいま」
扉を開けると、見慣れた光景が広がる。
「五日ぶり。変わったことはないか?」
「特にないよ」
奏太がソファに寝転びながら答える。
「俺も琴音も、やりたいことができて楽しいくらいだな。それに――」
少しだけ視線を上げる。
「おじいちゃんとおばあちゃんもいるし。話聞いてもらえるしな」
「ああ……」
それを聞いて、少しだけ胸の力が抜けた。
「そっか。楽しいなら、それが一番だな」
「なんか元気ないな。どうした?」
鋭いな。
まあ、こいつには隠しても無駄か。
「明確な答えが欲しいわけじゃないんだけどさ……独り言だと思って聞いてくれるか?」
「おう」
俺は、日本での出来事を話した。
上司に声をかけられたこと。
最近上の空になっていると言われたこと。
そして――
日本とこの世界、どちらを選ぶか迷っていること。
期限ギリギリまで悩み続けていいのか、自分でも分からないこと。
話し終えると、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。
「なるほどなぁ」
奏太がぽりぽりと頭をかく。
「でもさ、職場にそうやって気にかけてくれる人がいるのは良かったじゃん」
「まあな」
「正直、ブラック企業みたいなとこだったらさ、俺なら即『こっち来い』って言ってるわ」
「言い方」
思わず苦笑する。
でも、言いたいことは分かる。
「私たちも、結構悩んだよ?」
琴音が静かに口を開く。
「毎晩、遅くまで話し合ってたし」
「……そうだったのか」
「うん。だって日本ってすごく便利だもん。安全だし、普通に暮らしてたら命の危険なんてほぼないし」
確かに、それは間違いない。
「でもさ」
奏太が身体を起こす。
「それでも俺たちはこっちを選んだ」
少しだけ、遠くを見るような目をしていた。
「最初はただの興味だったんだよ。異世界とか、普通にワクワクするじゃん?」
「まあ、それは分かる」
「でさ、裕季の様子が変だったから家に行ったんだよな」
「あー……あの時か」
思い出す。
いきなり押しかけてきたんだよな、こいつら。
「土日になるといないし、ご近所さんも見かけてないって言うし。そりゃ気になるだろ」
「結果、バレたわけだ」
「いや、あれはバレるって」
奏太は苦笑する。
「で、異世界の話聞いて……実際に来てみたらさ」
少しだけ声のトーンが上がる。
「全部が新鮮だったんだよ」
「ああ……」
その感覚は、俺も最初に感じた。
「田舎から都会に出てきた人がキョロキョロする気持ち、あれ分かった気がしたわ」
「例えが微妙にリアルだな」
「実際そうだったしな」
くくっと笑う。
「それでさ、王都に行く途中だっただろ?」
「依頼の配達ついでにな」
「あの時、魔物に襲われてる馬車に遭遇してさ」
「……あったな」
「正直、俺どうすればいいか分からなくてさ。戦う経験なんてないし」
「まあ普通そうだろ」
「だから裕季に任せたんだけど――」
ちらっとこちらを見る。
「お前、普通に魔法で全部片付けたよな」
「まあ……」
「いや、あれ普通じゃないからな?」
「数ヶ月であそこまでなるのはどうかと思うわ」
琴音も頷く。
「自覚はある」
ちょっとだけな。
「でさ、そのあと戻ってきた馬車から出てきたのが――」
奏太がにやっと笑う。
「どう見てもお姫様だったわけだ」
「……」
「で、お前が固まって慌てて頭下げてるの見てさ」
肩を震わせながら言う。
「『あー、これ面倒なことになるやつだ』って思った」
「言い方」
思わずツッコむが、否定はできない。
実際、その通りだったしな。
「でもさ」
奏太は少しだけ真面目な顔に戻る。
「そういう“普通じゃないこと”が、当たり前に起こるのがこっちの世界なんだよな」
「……ああ」
「危険もある。でも、その分――」
言葉を選ぶように一拍置く。
「自分で選んで進んでるって実感がある」
静かな言葉だった。
「だから、俺たちはこっちを選んだ」
琴音も小さく頷く。
「どっちが正しいかじゃなくて、自分たちが納得できるかどうかだと思う」
その言葉は、思っていたよりも重く胸に残った。
「……そっか」
短くそう答える。
まだ、答えは出ない。
でも――
少なくとも、考える材料は少し増えた気がした。
「ありがとな」
そう言うと、奏太は軽く手を振った。
「気にすんな。どうせまた悩むんだろ?」
「否定できないな」
「じゃあその時また話せばいい」
あっけらかんとした言い方だった。
……ほんと、こいつはこういうところ変わらないな。
少しだけ肩の力が抜けた気がした。
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