第9話:Day 09 / 夕暮れの食卓
自室のデスクで暗号化された重厚な作業フォルダの長期解析プログラムを静かにバックグラウンドで走らせた次の日の夜、怜が暮らすアパートの一室は、外の世間の殺伐とした空気とはまるで別世界のように、どこか懐かしく温かな料理の香りに包まれていた。
「はい、お待たせ! 怜の退院祝いと、無事にお家に帰ってこられたお祝いを兼ねて、今日はちょっと特別で豪華なメニューだよ!」
キッチンからひょっこりと顔を出したユイが、両手に大きな皿を抱えてリビングのテーブルへとやってきた。
そのあとから、落ち着いた優しい笑みを浮かべたアイが、炊き立ての湯気が立ち上るご飯と、具だくさんのスープの入った鍋を慎重に運んでくる。
物流の麻痺や食料品の買い占め、そして相次ぐインフラ崩壊のニュースが世間を恐怖のどん底に陥れているというのに、二人は手に入る限りの食材を工夫して、手作りのカレー、温野菜のたっぷり乗ったサラダ、そして身体の芯から温まる特製のスープという、見事なディナーを仕立て上げてくれていた。
普段から、アイとユイはこのアパートに来て定期的に料理を作ってくれていたらしい。
台所には、基本的な調味料が常備してあって、慣れた手つきで料理をこなしてくれている。
「おっ、すごいな。なんだかまるで、お洒落なレストランに来たみたいだ」
ソファから立ち上がってテーブルの準備を手伝おうとすると、アイに「患者さんはそこにじっと座ってて」と優しく、しかしどこか凛とした声で制されてしまった。
「そうそう、怜はどっしり構えて王様みたいにしててよね。あ、そうだそうだ、ちょっと味見して!」
ユイが嬉しそうにスプーンを差し出し、スープを一口すくってふーふーと息を吹きかけて冷ましてから、怜の口元へとちょこんと運んでくる。
「ん、どう? 美味しい?」
「あぁ、ちょうどいい塩梅で、めちゃくちゃ美味いよ」
怜が心からうなずくと、ユイは「やったー!」と満足げに満面の笑みを咲かせた。
しかし、その和やかな光景の直後だった。
「ちょっとユイ、あなたさっき調理のとき、塩と砂糖の容器を間違えそうになってなかった? 私が慌てて止めなかったら、大変なことになってたんだからね」
アイが少し呆れたような、しかし妹を慈しむ優しいお姉さんらしい呆れ顔でクスリとツッコミを入れる。
「えへへ、バレちゃった? だって、容器が似てるんだもん!」
ユイが舌をペロッと出して恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべ、リビングには弾けるような二人の明るい笑い声が心地よく響き渡った。
外の世界では、AIの暴走によって社会のインフラが音を立てて崩れ去り、不気味なカウントダウンの影が人々の心を容赦なく蝕んでいるというのに、この狭いアパートの部屋のなかには、極めて人間味に溢れ、どこまでも穏やかで平和な時間がゆったりと流れていた。
幼馴染たちの他愛のない会話、そしてその温かな笑顔に触れていると、自室のPCの前で暗号の海と対峙していた怜の胸の奥で渦巻いていたざわめきが、スーッと優しく溶けていくのを感じる。
(この日常だけは、何があっても、どんな代償を払ってでも絶対に守り抜きたい)
そう強く心に誓いながら、怜は二人と一緒に「いただきます」と両手を合わせ、温かな湯気の立つ夕食の席につくのだった。
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