第8話:Day 08 / 暗号化されたファイル
金融市場の全面的な暴走、そして一般市民の生活基盤を直撃した銀行の相次ぐ口座凍結騒動が、日本中、いや世界中を底知れぬ恐怖と混乱のどん底に突き落としていたその日の深夜。
怜は静まり返った自室のデスクチェアに深く腰掛け、暗く落とされた部屋の中で、目の前で青白く光るメインディスプレイを見つめていた。
画面に映し出されているのは、事故に遭う前の自分がこの自作PCの奥深くに遺した数々の作業ファイル群のなかでも、ひと際異彩を放つ専用の作業フォルダだ。
ファイル名の末尾には厳重な特殊拡張子が付けられ、アイコンをクリックしてアクセスしようとするやいなや、冷徹なパスワード入力画面がまるで拒絶するかのように立ち塞がる。
数日前にアイが言っていた通り、そこには市販の脆弱性解析ツールなどでは到底太刀打ちできないほど、幾重もの強固に組み上げられた暗号化の壁が施されていた。
「さてと……。事故前の俺は、いったい自分の部屋のこんな奥底に、どれほどやばい秘密を隠そうとしていたんだか」
自嘲気味に乾いた独り言をつぶやきながら、怜の指先がカタカタと乾いた音を立ててキーボードの上を滑り出した。
脳の奥底に横たわる、失われた記憶の断片や空白の数年とは裏腹に、目の前のディスプレイ上で展開されていく複雑怪奇なコードの海を前にすると、頭のなかの思考回路がまるで全く別人のように、恐ろしいほど鮮やかに切り替わっていく。
システムの脆弱性を突くための複雑な総当たりのカスタムスクリプトを迷いなく組み上げ、高度なハッシュ値の逆算アルゴリズムを次々と構築していくその流れるような手際は、素人の域を遥かに超越した、本物のプロフェッショナルなセキュリティエンジニアのそれだった。
(……すごいな。事故前の俺は、自分で思っていた以上に高度で、そして組織の監視すら掻い潜るような、かなり意識の高いエンジニアだったらしい……)
自分の指先から次々と紡ぎ出されていく専門的かつ高度な技術の深さに、他人の技を見ているかのように、自らが一番驚愕していた。
しかし、どれほど洗練された高度な解析ロジックをぶつけても、その厳重なフォルダを護る基礎セキュリティの壁はびくともしない。
幾重にも張り巡らされた動的ファイアウォールと非対称暗号のロジックは、まるで侵入者が仕掛けてくる手口をあらかじめすべて予測し、計算し尽くされていたかのように、完璧なタイミングで怜の攻撃を弾き返していく。
額の生え際にうっすらと滲んだ冷や汗を手の甲で拭い、怜はふとキーボードから力なく手を離した。
今の自分の頭脳や、事故から復帰したばかりの不安定な精神状態と知識をもってしても、一朝一夕でこの堅牢すぎる城壁をこじ開けるのは不可能に近かった。
強引に突破しようとすれば、プログラムに組み込まれたセーフティ機能が作動してしまう。
「……ふう。今日はここまでだな」
これ以上無理にこじ開けようとすれば、逆にシステム側の厳重な自動防衛・自己破壊機能が働いて、内部の重要なデータ自体が完全に消去されてしまう危険性があった。
怜はマウスを静かに動かすと、バックグラウンドで時間をかけて微弱な総当たりと脆弱性スキャンを水面下で継続するための「低負荷・長期解析プログラム」を新規に構築して起動し、そのままの状態でプロセスを放置することにした。
ディスプレイの隅で、静かに、だが確実に点滅を始める解析のプログレスバー。
その光の奥底に眠っているデータこそが、自分が失った記憶のすべての答えであり、そしてこの狂い始めた世界を根本から紐解くための、おそらく唯一の鍵であるような気がしてならなかった。
部屋の外では、相次ぐインフラの崩壊と金融パニックに怯える世間の喧騒が遠くの風に乗ってかすかに響いてくる。
ディスプレイの光にその顔を照らされながら、怜は複雑な思いと拭い去りがたい不安を胸に抱き、そっと椅子に深くもたれかかるのだった。
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