第4話:Day 04 / 喫茶店と静かな日常
アパートの部屋の掃除と片付けが翌日に一段落し、夕暮れ時の柔らかな光が窓から差し込む頃、怜は挨拶を兼ねて1階へと降りることにした。
建物の外側にある古びた階段を数段降りると、木製のドアから香ばしいコーヒー豆の豊かな香りがふわりと漂ってくる。
このアパートの1階で長く営業を続けている喫茶店「セト」。
退院したらまず顔を出そうと、入院中から決めていた場所だった。
カランコロンと心地よいベルの音を鳴らして扉を開けると、店内の温かな暖色系の照明が、怜の目を優しく迎えてくれた。
夕方の時間帯ということもあり、店内には客の姿はなく、静かで落ち着いた空気が満ちている。
カウンターの向こう側では、白髪が綺麗に整えられた初老の店主・瀬戸健吾が、一人で黙々と作業をしていた。
「おや、怜くんじゃないか。退院したって聞いたけど……もう大丈夫なのかい?」
瀬戸は愛用の布巾から手を離すと、穏やかな笑みを浮かべて声をかけてくれた。
「はい、おかげさまで。ご心配おかけしました、瀬戸さん。無事に退院して戻ってきました」
怜が頭を下げると、瀬戸は「それはよかった、本当によかったね」と目を細め、カウンターの特等席へと促した。
「せっかくだ、久しぶりに一杯淹れてあげよう。うちの看板ブレンドだ」
瀬戸はそう言って、カウンターの上にしつらえられたガラス製のサイフォン器具に向き直った。
下からアルコールランプの炎がフラスコの水を熱し、沸騰した湯が細い管を伝って上部ロートへと勢いよく吸い上げられていく。
コーヒー粉が投入され、芳醇な香りが店内に一気に広がった。
じっとその手際に見入っていた怜は、ふと、瀬戸の指先の動きにわずかな不自然さがあることに気づいた。
ガラスの器具や濾過器を支える指の動きが、ほんの一瞬だけこわばり、ぎこちなく揺らいだのだ。
ベテランのマスターとして長年この店を切り盛りしてきた瀬戸の手つきとしては、どこか不釣り合いな硬さだった。
視線に気づいたのか、瀬戸は苦笑いを浮かべながら、手元のカップにコーヒーを注ぎつつ言った。
「あぁ、これかい? ちょっと恥ずかしい話なんだがね、昔にちょっとした大怪我をしちまってね。その時の後遺症で、手の神経をやっちまったんだよ。おかげで、今でも指先の感覚がちょっと鈍くてねえ。時々こうして、ガラスを落としそうになって冷や汗をかくのさ」
そう言って、瀬戸はからからと穏やかに笑ってみせた。
その笑顔には何の違和感もなく、長年この街で静かに暮らしてきた男の落ち着きと、深みのある温かさが満ちていた。
「そうだったんですか……すいません、変に見入っちゃって」
「いやいや、気にするなよ。それより、温かいうちに飲みな」
差し出されたカップを受け取り、一口含むと、香ばしい苦みとまろやかな酸味が口いっぱいに広がり、入院生活の緊張やこれまでの不安を心地よく溶かしてくれた。
外の世界では、社会のインフラを牛耳るAIネットワークに対する不穏なざわめきや、突如として突きつけられた「100日後全人類消去」の不気味な宣告が影を落としているというのに、この「セト」のなかに流れる時間は、まるで何事もなかったかのように穏やかで、懐かしい日常の匂いに満ちている。
カウンター越しに交わされる他愛のない世間話に耳を傾けながら、怜は、この静かで平和な街の日常がいつまでも続いてほしいと、心から願うのだった。
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