第3話:Day 03 / 埃をかぶった部屋
タクシーが静かに停車したのは、都心から少し離れた郊外にある、年季の入ったアパートの敷地だった。
緑豊かな並木道に面したその小さな集合住宅は、どこか懐かしい生活の匂いを漂わせている。
ここが、事故に遭うまで自分が暮らしていた場所「桐生 怜」の帰るべき家だった。
退院して、家に帰ってきただけなのに疲れてしまった。
やはり、体力が衰えていることを実感した。
その日は、ご飯を食べて解散となり、俺は気絶するように就寝した。
そして、次の日。
「わあ、やっぱり少し空気がこもってるね。換気しよ、換気!」
アイとユイがやってきて、ユイが慣れた手つきで窓の鍵を開け、窓を開ける。
入院生活を終えて足を踏み入れた部屋は、埃と湿気の匂いがうっすらと鼻腔をくすぐった。
「私がリビングの掃除をするから、ユイはキッチンをお願い。怜は荷物を置いて、そこに座って大人しくしててね」
アイがテキパキと指示を出しながら、持ってきた掃除用具や買い出しの袋をダイニングテーブルの上に広げていく。
「いや、俺も手伝うよ。自分の部屋なんだしさ」
「だめ! 退院したばかりなんだから、無理は禁物よ。お医者さんだって安静にしなさいって言ってたでしょ?」
アイに少し呆れたような、しかし母性すら感じる優しい笑顔で見つめられ、怜は苦笑しながらソファに腰を下ろすしかなかった。
双子が手際よく部屋の片付けを進めてくれるのを眺めながら、怜は視線を自分の部屋の中へと巡らせた。
部屋の隅に置かれた頑丈なスチール製のデスクの上には、デュアルモニターが配置され、冷却ファンの覗く自作のデスクトップPCが鎮座している。
その周囲には、電子工作のパーツや、家庭用AIネットワークのハードウェア拡張モジュール、そして見慣れない分厚いセキュリティ暗号の専門書が山のように積み上げられていた。
どうやら、自分は病院に入院する前までは、エンジニアの仕事をしていたようだ。
社会のあらゆるインフラがAI管理システムに依存しきっているこの現代において、一見すれば、どこにでもいる高度な先端エンジニアの私室。
そう思えるほど、それはごく自然な風景だった。
だが、ふとデスクの上のメインディスプレイに目を留めたとき、怜の胸の奥に奇妙な引っかかりが生まれた。
(……このPC、なんだかやけに落ち着く)
自分がどのようなプロジェクトに関わり、普段どんなコードを書いていたのか。
肝心の記憶は霧のなかに閉ざされているというのに、キーボードの配置や配線の美しさ、そしてPCのスペックを見ただけで、不思議と「自分の身体の一部である」という強烈な既視感が湧き上がってくる。
タクシーの中で指先が勝手にセキュリティ設定を書き換えたあの異常な反射神経が、ここにある機械たちを強く求めているのを感じた。
気になってディスプレイの電源を入れ、マウスに手を伸ばした。画面が鮮やかに立ち上がり、デスクトップの背景が映し出される。
そこには、仕事用のフォルダや個人的なプロジェクトのアイコンが整然と並んでいた。
「あ、それ、触っても今の怜には訳が分からないかもよ?」
掃除の手を止めたアイが、ふと怜の背後を覗き込みながら優しく声をかけてくれた。
「デスクトップのいくつかの作業フォルダには、怜自身がかけたんだよね、すごく強力な暗号が。『仕事のデータだから、万が一の漏洩対策にガチガチに固めてあるんだ』って、事故に遭う直前も一生懸命いじってたっけ。今の怜じゃ、パスワードも思い出しっこないし、開けられないようになってるはずだよ」
「……そうなのか?」
「うん。だから、無理して思い出そうとしなくていいの。仕事なんて追々、ゆっくり思い出せばいいんだから。今はただ、無事に帰ってこられたことを喜ぼうよ」
アイはそう言って、まるですべてを包み込むような穏やかな笑みを浮かべた。
その瞳には濁りがなく、怜の体を心から気遣う純粋な優しさだけが宿っている。
「……だな。ありがとう、アイ」
怜はうなずき、そっとマウスから手を離した。
しかし、アイの背中がキッチンへと戻っていくのを見送りながら、怜の視線は再びディスプレイの隅で硬くロックされたままの作業フォルダへと引き寄せられていた。
自分自身が何重もの厳重な暗号で隠さなければならなかった「何か」。
現在の自分が決して開くことのできないそのデータの中には、何が記されているのか。
そのフォルダの存在は、怜の胸を静かに締め付けるのだった。
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