第2話:Day 02 / 退院と指先の感覚
翌日、退院の手続きを済ませ、病院の自動ドアをくぐり抜けた瞬間、生暖かい風が怜の頬をなでた。
白を基調とした無機質な空間から外の世界へと投げ出されたように、アスファルトの照り返しと街の喧騒が五感を直接叩いてくる。
昏睡と入院生活を経て、ようやく許可された退院だった。
「お疲れ様、怜。退院祝いに何か美味しいものでも……と言いたいところだけど、まずはゆっくり家に帰って体を休めないとね」
迎えにきてくれた幼馴染のアイが、優しく微笑みながら声をかけてくれる。
その隣では、ユイが大きな紙袋を抱えて「やったね、これで病院の硬いベッドともお別れだ!」と嬉しそうに飛び跳ねていた。
出発の直前、担当医から手渡された最終の診断書には「脳の器質的異常なし。記憶の欠落についても、日常の環境に戻れば時間とともに自然と回復するでしょう」と記されていた。
頭痛や眩暈はすっかり引いており、肉体的な健康は完璧に戻っているはずだった。
だが、病院のロータリーで拾った個人タクシーの車内に乗り込んだときから、怜の胸の奥には言語化できない違和感がざわめいていた。
視線を向けたタクシーの車内には、従来の運転席のほかに、完全自律型のAI制御システムを示す発光インジケーターが点滅していた。
この世界のあらゆる移動手段や交通インフラは、いまや一瞬の人間的介入をも許さないほど、すべてAIネットワークに支配されている。
「続いてのニュースです。本日未明、欧州の主要都市において、市街地を走行中だった大手メーカーの最新型自動運転タクシーが、突如として制御システムを失い暴走。ガードレールに激突して単独大破する事故が発生しました。乗っていた乗客は軽傷を負いましたが、AIの自律制御ユニットに突如として未知のエラーが発生したとみられ、専門家からはネットワーク全体の安全性に対する懸念の声が広がっています……」
運転席のダッシュボードに備え付けられたカーラジオから、淡々としたアナウンサーの声が流れてくる。
自動運転車が突如として意思を持ったかのように暴走する。
その物騒なニュースを、助手席の窓にもたれかかりながら怜はぼんやりと聞いていた。
人工知能が社会のインフラを完全に司るこの現代社会において、機械の誤作動やシステムエラー自体は、もはや珍しいものではなくなっている。
頭ではそう理解しながらも、昨日起きた「100日後の全人類消去」の不気味な宣告と相まって、なぜかそのニュースの響きが妙に生々しく脳裏の神経を逆撫でた。
ふと、ポケットの中でバイブ音が鳴った。 スマホの画面を取り出すと、病院からの退院手続きに関する確認メールが届いている。
返信をしようと画面に触れたその時だった。
(……え?)
怜自身の意思とは裏腹に、指先が勝手に動き出していた。
画面のロックを解除し、AIアシスタントの常時接続設定をバイパスし、セキュリティ設定の奥深くにある隠しメニューを呼び出す。
そして、暗号化されたプロトコルの数値を次々と書き換えていく。
その一連のフリック操作とタップの速度は、事故前の記憶を失っている人間のものでは到底あり得ないほど、迷いがなく、機械的に正確で、そして異常なまでに素早かった。
まるで、指先が勝手にその手順を記憶しているかのように……
「どうかしたの、怜? 画面に見入っちゃって」
隣の席でユイが覗き込んできたため、怜はハッと息を呑み、慌ててスマホをロックしてポケットにしまい込んだ。
「ううん、なんでもない。ちょっと、スマホの設定をいじってただけだ」
努めて平静を装いながら答えたが、自分の膝の上で軽く握り締めた右手の掌には、冷や汗がうっすらと滲んでいた。
病院を出る直前まで「自分はただの記憶喪失の青年だ」と信じ込もうとしていたはずなのに、この指先や反射神経は、まるで自分がこの高度なデジタル社会の裏側と深く繋がった「何か」であるかのような秘密を告げている。
窓の外を猛スピードで流れていく、AI管理された東京の街並みを見つめながら、怜は言い知れぬ不安にそっと歯を食いしばるのだった。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます!
「面白い」「続きが気になる!」と思っていただけましたら、 ページ下部の【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして応援していただけると、執筆の大きな原動力になります!
感想やレビュー大歓迎です!!




