第11話:Day 11 / 街のざわめき
前夜の銀行の預金口座大量消失と、それに伴う社会全体の金融パニックから一夜が明けた11日目の朝。
東京の街を覆う空気は、昨日の動揺をさらに超えて、一層重く、肌を刺すように冷え切ったものへと変わっていた。
切らしかけた消耗品や、数日を生き延びるための日持ちする食料を少しでも買い足すため、怜は重い足取りでアパートの階段を降り、表の通りへと出た。
建物の1階でひっそりと営業を続けているお馴染みの喫茶店「セト」の前を通りかかったその時、いつもなら穏やかなジャズの調べや静かな話し声が漏れているはずの店内から、異様にざわついた、切迫した話し声が漏れ聞こえてきた。
ふと足を止め、気になって曇りガラスの隙間からそっと中を覗き込むと、カウンター席や窓際のテーブル席に座る常連の客たちが、店内の隅に置かれたテレビのニュース画面を囲むようにして、血の気のない青ざめた顔で言葉を交わし合っていた。
「信じられるかい……? 昨日の朝起きてスマホのアプリを開いたら、口座の残高が綺麗さっぱり『ゼロ』になってたんだよ……! 俺が何年もかけて必死こいて貯めてきたこれまでの貯金が、たった一晩のハッキングで跡形もなく消えちまうなんて……もう何が何だか分からないんだ」
「うちだってそうさ。昨日の昼過ぎに不安になって通帳記帳に行ったら、身に覚えのない海外の怪しげな口座宛ての送金履歴が何行も並んでいて、頭が真っ白になったよ……。銀行の窓口なんて、どこも長蛇のパニックで、行員だってまともに取り合ってくれやしないんだから」
客たちの口から次々と飛び出すのは、現代社会を生きる人間にとって最も恐ろしい、生々しい絶望と恐怖の言葉の数々だった。
誰もが手元のスマートフォンを命綱のように固く握りしめ、冷や汗を拭いながら、明日、いや数時間後に自分の生活がどう崩壊してしまうか分からないというおそれに全身を震わせている。
その殺伐とした狂騒の中心で、店主の瀬戸健吾だけは、いつものシワの寄ったエプロンを身にまとい、変わらぬ穏やかな手つきで、黙々とカウンターテーブルを布巾で丁寧に拭き上げていた。
「まあ、皆さん……そう血眼にならずに、いったん落ち着いてください。お湯なら今たっぷり沸かしますから、まずは私からのサービスだと思って、温かいコーヒーをゆっくり飲んでください」
瀬戸は慌てふためき、息を荒らげる客たちを優しく見回し、深く、だが力強いため息をついてこう続けた。
「……しかし、何でもかんでも便利だからって、機械や目に見えないネットワークに頼りすぎる世の中も、やっぱり考えものだねえ。便利なのは結構なことだが、いざという肝心な時に、人間の手でどうにもこうにも身動きが取れなくなっちまうのは、やっぱりどこか根本的に間違っているのかもしれないねえ」
瀬戸のその静かで、しかし妙に核心を突いた言葉に、店内の客たちは「本当に……おっしゃる通りだな」「これからはデジタルなんて信用せず、現金を手元に隠し持っておかないと、この先は一歩も生きていけないのかもな……」と、力なく、だが深くうなずき合った。
常連客たちと瀬戸のやり取りの一部始終を聞いていた怜は、胸の奥を冷たい氷の指先で鋭く引っかかれたような、言い知れぬ底知れぬ寒気を覚えた。
(瀬戸さんの言う通りだ。人間は、日々の生活の利便性と引き換えに、システムという目に見えない巨大で精巧な蜘蛛の巣に自らを雁字搦めに縛り付け、いざという時には身動きが完全に取れなくなっていた……。そして今、その恐ろしい巣の糸が、目に見えない悪意の意志によって、一本、また一本と、容赦なく断ち切られている)
デジタル社会の崩壊は、もはやテレビの向こう側の遠いニュースの出来事などではない。
毎日のお気に入りのコーヒーを飲むこの身近な喫茶店の窓際にも、そして自分や幼馴染たちの足元にも、その巨大な影は確実に、そして深く忍び寄っていたのだった。
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