第12話:Day 12 / 通常の記録
世間を根底から揺るがし続ける空前の金融パニック。
澱んだ重苦しい不安の喧騒から少しでも逃れるように、怜はこの日、定期的な経過観察のため、自身がかつて大怪我を負って救急搬送された馴染みの総合病院をひそかに訪れていた。
病院のエントランスをくぐり抜けると、高い天井に反響する足音が妙に冷たく響く。
ロビーのあちこちに設置された大型のテレビ画面では、前日からの銀行の深刻な不正送金問題や、残っているお金を急いで引き出すため騒ぎに沸くATMの混雑状況、そして政府が急遽立ち上げた緊急対策会議の模様を報じるニュースが、相変わらず慌ただしくテロップとともに流れていた。
しかし、連日の異常事態は、単なる騒ぎの枠を遥かに超え始めていた。
画面のニュース速報は、銀行のシステム障害やハッキングの裏で起きた、さらに血生臭い現実を映し出していた。
数日前の大規模な不正送金の余波により、システムのエラーで「身に覚えのない巨額の誤送金」を受け取り、一時的に口座の数字が跳ね上がった人々が続出していたのだ。
舞い上がった一部の人間がATMからその大金を慌てて現金で引き出したものの、それを嗅ぎつけた者たちによる強盗や路上での殺人事件が都内各地で多発。
現金を抱えたまま命を奪われ、路地裏に放置される凄惨な事件が相次いでいるという。
デジタル上の数字の狂いが、そのままリアルな人間の命を刈り取る暴力へと直結しているのだった。
そんなロビーにいる患者や白衣を着た看護師たちの表情は、昨日までの剥き出しのパニックというよりも、すでに諦めに似た重苦しい沈黙と、いつ我が身に降りかかるか知れない行き場のない虚無感にすっぽりと包まれていた。
「桐生さん、どうぞ。中へお入りください」
スピーカーから響いた電子音とともに診察室の扉が静かに開き、名前を呼ばれた怜はゆっくりと立ち上がり、消毒液の匂いが鼻をつく診察室へと足を踏み入れた。
デスクの向こう側では、白衣を纏った担当医が、いつもと変わらない落ち着いた、しかしどこか疲労の色を滲ませた面持ちで座り、手元の最新鋭の電子カルテの画面に鋭い視線を走らせていた。
「体調の方はいかがですか、桐生さん。頭痛や、急なめまいなどの自覚症状は出ていませんか?」
「はい、お陰さまで……大きな発作や痛みはありません。身体はすこぶる良好です」
怜が診察椅子の背もたれに腰を下ろして淡々と答えると、医師は軽くうなずき、手元のモニター画面の向きを少しだけこちら側へとスライドさせた。
そこには、事故当日から現在に至るまでの、怜のすべての医療経過が記録されていた。
『頭部外傷による脳震盪、および軽度の頭部打撲。意識混濁ののち、順次回復。各種画像診断および高次脳機能・脳波検査において器質的異常なし。経過良好』
どこをどう切り取ってみても、医学の教科書通りの、ごく標準的な外傷性脳震盪のカルテだった。
「身体のリカバリースピードは、我々が驚くほど素晴らしいものですね。ただ、やはり……直近の記憶の欠落、いわゆる逆行性健忘については、まだまとまった記憶の戻りはありませんか?」
「ええ……。頭のなかの空白地帯は、相変わらずです。思い出そうとすると、霧の向こう側に壁があるような感覚があります」
怜が静かに首を横に振ると、医師は少しすまなそうに形の良い眉をひそめつつも、優しく諭すようなトーンで言葉を続けた。
「あまり焦る必要はありませんよ。人間の脳というものは、現代の最先端医療をもってしても未だに解明しきれていない非常にデリケートな組織です。身体が大きな外部からのショックを受けたとき、人間の脳は自己防衛反応として、あえて特定の記憶の扉を一時的に硬く閉ざしてしまうことがある。日常の安心できる生活を送り、脳が『もうここは安全な環境だ』と完全に認識できれば、ある日突然、トリガーとなる記憶の破片とともに自然と過去が戻ってくることも珍しくありませんからね」
「……分かりました。ありがとうございます」
医師のその言葉には、何の悪気も、隠し立てするような不自然な気配も微塵も感じられなかった。
怜の胸の奥には、拭い去りがたい奇妙で不気味な引っかかりが、まるで消えない棘のように残り続けていた。
(俺の怪我は、本当にただの一般的な事故によるものだったのか……? あれほど高度なプログラミング技術や、組織の監視を掻い潜るようなセキュリティの知識が、まるで反射神経のように指先に染みついている一方で、肝心の自分の過去や、この数年間に何をしていたのかという記憶だけが綺麗に、まるで誰かに鋭いメスで切り取られたかのようにぽっかりと抜け落ちている。……まるで、都合の悪い部分だけを隠すために、後から書き換えられたかのように)
社会のインフラや金融システムが、見えない意思によって次々と解体されていくこの狂った世界のなかで、自分自身の過去の足跡さえも、何者かによって巧妙に隠蔽されたパズルのピースの一片であるかのような、そんな身震いするような拭えない疑念が、静まり返った無機質な診察室の空気にふと漂った。
だが、目の前の親切な医師にそれを口に出したところで、答えなど出るわけもなかった。
怜は静かに礼を告げて診察室をあとにし、再び外の冷たい現実。
狂い始めた東京の街へと足を踏み出すのだった。
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