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揺れる心、決断の時  作者: 久遠 睦


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第四章 選ばれること、選ぶこと

桜は一週間、健太に会わなかった。

仕事が忙しいと言えば、健太は「了解」と返してきた。

以前なら、その気楽さに安心した。

今は少し寂しかった。

十年一緒にいて、一週間会わなくても何も変わらない。信頼とも言えるし、関心が薄れているとも言える。

どちらなのか、自分でもわからなかった。

別れを切り出すまでに、桜は何度も「本当にこれでいいのか」と自分に問い直した。

十年を終わらせる理由として、価値観の違いは弱すぎるのではないか。

浮気をされたわけでもない。暴力を振るわれたわけでもない。嫌いになったわけでもない。

世の中にはもっと大変な関係がある。

そんな比較までして、自分の苦しさを小さくしようとした。

その一週間のうちのある晩、奈緒と残業が重なり、二人で駅まで歩いた。

「最近、顔変わったね」

奈緒が言った。

「またですか。高橋さんにも言われました」

「前よりしんどそう。でも前より自分で考えてる顔」

桜は笑った。

「褒めてます?」

「半分くらい」

駅前のベンチで、桜は思い切って話した。

十年付き合った恋人と別れるかもしれないこと。相手は悪い人ではないこと。だからこそ決めきれないこと。

奈緒は黙って聞いた。

「私、贅沢なんでしょうか」

「何が?」

「好きでいてくれて、優しい人なのに。それ以上求めるのって」

奈緒は首を傾げた。

「それ以上って、何を求めてるの?」

「一緒に将来を考えてほしい」

「それって贅沢?」

桜は答えられなかった。

奈緒は続けた。

「人って、相手が悪人じゃないと別れちゃいけないみたいに思うときあるよね。でも、相性が合わないだけでも十分じゃない?」

「十年でも?」

「十年だからって、十一年目を差し出す義務はないでしょう」

胸に刺さった。

「ただし」

奈緒が少し声を落とした。

「別れたあとに『やっぱり違った』って思う日も来るかもしれない。それでも、自分で決めたこととして引き受けられるか、じゃないかな」

桜はその夜、長い時間をかけて健太への手紙を書いた。

渡すためではない。

自分の気持ちを確かめるためだった。

『十年間、ありがとう。あなたといたから知った幸せがたくさんある。だから、嫌いになったわけではない。でも私は、未来を話せないことに疲れてしまった。結婚してほしいのではなく、一緒に考えてほしかった。待っているうちに、私は自分の希望を言うことまで怖くなった。あなたが悪いからではない。私も、嫌われたくなくて本音を隠してきた。だから、これからは自分の人生を自分で選びたい』

書き終えたとき、涙で文字が滲んでいた。

翌日、桜は手紙を封筒には入れず、手帳にはさんだ。

言うべきことは、自分の口で言うと決めた。

土曜日の朝、桜はノートを開いた。

左側に『健太といる未来』、右側に『健太と別れた未来』と書いた。

子どものような方法だと思ったが、頭の中だけで考えていると同じ場所をぐるぐる回る。

健太といる未来。

安心。思い出。気を遣わない。家族も知っている。別れの痛みがない。

その下に、別の言葉も並んだ。

結婚の約束がない。家事・育児の価値観が違う。将来の話を避ける。待ち続ける不安。

別れた未来。

孤独。後悔。三十二歳から新しい恋愛。周囲への説明。寂しさ。

その下には、自由。可能性。自分の希望を優先できる、と書いた。

どちらを選んでも怖い。

怖くない選択肢などない。

だったら、恐怖の少なさではなく、自分がどんな人生を生きたいかで選ぶしかない。

夕方、健太に連絡した。

『今日、話したい』

健太の部屋で向かい合った。

テレビはつけなかった。

桜は最初に言った。

「責めたいわけじゃないの」

健太は黙っていた。

「結婚したいって言ってるのも、式をしたいとか、名字を変えたいとか、そういうことだけじゃない。一緒に生活を作る覚悟があるかを知りたいの」

「覚悟って言われると重いよ」

「重いよ。人生だから」

自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

「私は、子どもがほしいと思ってる。できるかどうかはわからない。でも、望んではいる。仕事も続けたい。家事も育児も二人でやりたい。親のことだって、いつか考えないといけない」

健太は眉間に皺を寄せた。

「それ全部、今決めなきゃいけないの?」

「全部決める必要はない。でも、一緒に考える気があるかは知りたい」

沈黙が落ちた。

健太は長く息を吐いた。

「正直に言っていい?」

「うん」

「俺、考えたんだけど、やっぱり今の生活が好きなんだよ」

桜は目を閉じそうになった。

考えた末の答えが、あの喫茶店で聞いた言葉と同じだった。

「桜のことは好きだよ。別れたいなんて思ってない。でも結婚したら、住宅とか、子どもとか、親とか、責任が一気に増えるだろ。俺、自信ないんだよ」

「私だって自信なんてない」

「桜は強いじゃん」

その言葉に、胸が痛んだ。

強いから大丈夫。

仕事でも恋愛でも、何度その言葉に寄りかかられてきただろう。

「強く見えるだけだよ」

桜は静かに言った。

「私だって怖い。だから一緒に考えてほしかった」

健太は俯いた。

「ごめん」

その謝罪が、答えのように聞こえた。

「もし私が、このまま待つって言ったら?」

「嬉しい」

「じゃあ、いつまで?」

健太は答えなかった。

桜の中で、何かが静かに切れた。

怒りではなかった。

悲しみでもない。

長い間握っていたものから、ようやく手を離した感覚だった。

「私、別れようと思う」

健太が顔を上げた。

「……悠真って人?」

桜は驚いた。

「なんで知ってるの?」

「この前、通知見えた」

「違う。あの人がいるからじゃない」

「でも、タイミングおかしいだろ」

「そう思うよね」

桜は否定しなかった。

「私も、最初はそうかもしれないって思った。でも違った。悠真さんと会って、世の中には未来の話を普通にできる人もいるって知った。それで、今まで我慢してた自分に気づいたの」

健太は立ち上がった。

「十年だぞ」

「うん」

「十年一緒にいて、そんな簡単に終わるの?」

桜の喉が詰まった。

簡単なわけがない。

今すぐ抱きしめて、「やっぱりやめる」と言いたい自分もいた。

でも、それをしたらまた元に戻る。

「簡単じゃないよ」

涙が落ちた。

「だから、こんなに時間がかかったの」

健太も泣いた。

桜は初めて、彼が泣くところを見た。

「俺、桜がいなくなるなんて考えてなかった」

「私も、ずっといられると思ってた」

「じゃあ、もう一回考えようよ」

「何を?」

「結婚」

その言葉を、桜は何年も待っていた。

なのに、嬉しくなかった。

失いそうになって初めて出てきた言葉を、未来の約束として受け取ることができなかった。

「健太」

桜は泣きながら笑った。

「私は、結婚してくれる人を探してたんじゃないの。一緒に結婚を考えられる人がほしかったの」

健太は何も言えなかった。

別れ話は、夜遅くまで続いた。

思い出話をして笑い、また泣いた。

十年分の時間を一晩で整理できるはずもなかった。

帰り際、健太が言った。

「桜と付き合えてよかった」

桜は泣いた。

「私も」

それは嘘ではなかった。

駅まで歩く道で、何度も振り返りそうになった。

でも振り返らなかった。

そう思えるまでには、まだ時間が必要だった。

別れた翌朝、桜はいつも通り会社へ行った。

電車の中で泣きそうになり、駅のトイレで一度化粧を直した。

失恋したからといって仕事は止まらない。会議はあるし、メールは届く。部下は判断を求め、取引先は締切を待ってくれない。

それがありがたかった。

忙しさの中では、考えなくて済む。

けれど帰宅すると、部屋の静けさが一気に押し寄せた。

健太に『着いた』と連絡する必要がない。

週末の予定を考える必要もない。

冷蔵庫に、健太が好きだったビールが一本残っていた。

それを見ただけで泣いた。

別れると決めたのは自分なのに、喪失は容赦なくやってくる。

正しい決断をすれば、すぐに前向きになれると思っていた。

現実は違った。

正しいかもしれない決断ほど、痛いこともある。

真紀に電話すると、彼女は「今から行こうか」と言った。

「子どもいるでしょ」

「旦那いるから大丈夫」

「いいよ、ほんと」

「じゃあ電話切らない」

真紀は一時間近く、ほとんど何も言わずに話を聞いた。

桜は何度も同じことを言った。

「これでよかったのかな」

「うん」

「健太、泣いてた」

「うん」

「私、ひどいことしたのかな」

「それは今すぐ答え出さなくていいよ」

真紀の言葉に救われた。

答えを急がなくていい。

今まで桜は、何でも結論を出そうとしてきた。

仕事ではそれが必要だったからだ。

でも感情は、会議のように決着しない。

別れ話から十日ほど経った休日、健太の部屋に置いていた荷物を取りに行く日が来た。

クローゼットの端に置いたパジャマ。歯ブラシ。化粧水。読みかけの本。二人で旅行したときに買ったマグカップ。

「それ、持ってく?」

健太がマグカップを指した。

桜は少し迷った。

「置いてく」

「そっか」

健太は箱へ入れかけた手を止めた。

部屋は静かだった。

荷物をまとめる音だけがする。

「あのさ」

健太が言った。

「俺、桜が本当にいなくなるって、まだよくわかってない」

桜の手が止まった。

「私も」

「週末、どうするんだろうな」

「私も考えた」

二人で少し笑った。

その笑いが悲しかった。

「桜」

「うん」

「俺、今になって結婚しようって言ったら、戻る?」

胸が強く痛んだ。

ずっと欲しかった言葉に近い。

でも、桜は首を振った。

「たぶん、戻らない」

健太は目を伏せた。

「そっか」

「結婚って言ってほしかったんじゃないの。私が欲しかったのは、その先を一緒に考えることだったから」

「今からじゃ遅い?」

桜はすぐには答えなかった。

遅い、と言い切るのは残酷だった。

でも期待を持たせるほうがもっと残酷だ。

「私は、もう一回、自分で立ってみたい」

健太は長く息を吐いた。

「わかった」

玄関で靴を履くとき、桜は十年前、初めて健太の部屋に来た日のことを思い出した。

当時はもっと古いアパートだった。引っ越しても、二人の関係は続いた。

場所が変わっても続くと思っていた。

でも、人は変わる。

変わることは、裏切りではない。

「元気で」

健太が言った。

「健太も」

扉が閉まった。

廊下を数歩歩いたところで、桜はしゃがみ込んだ。

泣いた。

これでいいと決めたのに、身体は別の答えを出すように泣いた。

エレベーターに乗るまで十分以上かかった。

その夜、真紀の家に泊まった。夫は出張で不在だった。

子どもたちが寝たあと、二人でキッチンの床に座って缶チューハイを飲んだ。

「十年って、長いね」

桜が言うと、真紀は「長いよ」と答えた。

「でもさ」

真紀は空になった缶を見ながら言った。

「長かったから終われない、ってなったら、もっと長くなるだけだよ」

「わかってる」

「うん。わかっててもつらいよね」

桜はまた泣いた。

真紀は何も言わず、背中をさすった。

翌朝、子どもに顔を覗き込まれた。

「さくらちゃん、目まっか」

「泣いたから」

「なんで?」

桜は少し考えた。

「大事な人と、さよならしたから」

子どもは難しい顔をして、それからお気に入りのぬいぐるみを桜に渡した。

「これ、かしてあげる」

桜は笑いながら、また泣きそうになった。

別れたあとも、世界は普通に朝になる。

電車は走り、会社は始まり、スーパーには夕方になると人が増える。

自分だけが止まっているように感じても、時間は進んでいく。

そのことが残酷で、同時に救いでもあった。

別れたあと、桜は思っていた以上に周囲の反応に傷ついた。

親しい友人の多くは「よく決めたね」と言ったが、中には「もったいない」と言う人もいた。

「十年も付き合ったのに?」

「三十二でまた一からって大変じゃない?」

悪意のない言葉だった。

だからこそ、反論しづらかった。

桜自身が、何度も自分に投げかけてきた言葉でもある。

会社の飲み会で、結婚したばかりの男性社員が「女の人って結婚のタイミング気にしますよね」と笑ったとき、桜は胸がざらついた。

以前なら笑って流した。

その日は言った。

「人によると思う。男性でも家庭を持ちたい人はいるし、女性でも結婚しない人はいるし」

場が一瞬静かになった。

相手は「そうですよね」と笑った。

それだけだった。

桜は拍子抜けした。

別れから二週間後、悠真から連絡があった。

『最近、少し距離を置かれている気がします。もし僕が何かしていたら、すみません』

桜はしばらく画面を見つめた。

そして正直に返した。

『長く付き合っていた人と別れました。今は新しい関係を始められる状態ではありません』

返事はすぐには来なかった。

数十分後、短い文章が届いた。

『わかりました。無理に連絡しません。ただ、仕事仲間として困ったことがあればいつでも』

それだけだった。

桜は安心した。

もしここで悠真が『僕がいる』と言っていたら、たぶん距離を置いただろう。

今必要なのは、次の恋ではない。

一人で立つ時間だった。

休日、桜は部屋の模様替えをした。

健太と一緒に選んだクッションを洗い、写真を箱に入れた。捨てることはできなかった。

午後、近所のカフェへ一人で行った。

これまで休日はほとんど健太と過ごしていたため、一人で何をすればいいのかわからなかった。

本を開いても内容が入ってこない。

それでも、窓際の席でコーヒーを飲みながら、道行く人を眺めた。

一人は寂しい。

でも、一人は自由でもある。

その二つは矛盾しない。

別れて最初の一か月、桜は週末が来るたび落ち着かなかった。

十年間、土曜日はほとんど健太のために空けていた。予定表に何もない白い一日が、最初は怖かった。

一週目は部屋を片づけた。

二週目は真紀と会った。

三週目は、予定を入れなかった。

朝、目が覚めても行く場所がない。

桜はベッドの中でスマートフォンを見た。

健太へ連絡したい衝動があった。

『元気?』

たった二文字を送れば、十年間の習慣に戻れる気がした。

でも送らなかった。

代わりに、近所を歩いた。

商店街で花を一輪買い、部屋に飾った。

誰にも見せない花だった。

別れから一か月後、健太の母から突然メッセージが届いた。

『健太から聞きました。長い間、仲良くしてくれてありがとう。桜さんには一度きちんとお会いしたかったです』

桜は画面を見つめたまま動けなかった。

会いたかった。

その一文が、あまりにも遅かった。

涙が出た。

もし一年前に、健太が母親と会う機会を作ってくれていたら。

もし二年前に、結婚について真剣に話してくれていたら。

もし――。

考え始めるときりがない。

桜は何度も文章を書き直し、最後に短く返した。

『こちらこそ、ありがとうございました。健太さんと過ごした時間は私にとって大切なものでした』

送信したあと、泣いた。

別れには、相手一人だけでなく、その人とつながっていた未来まで失う痛みがある。

行ったことのない健太の実家。いつか会うと思っていた親戚。もしかしたら生まれていたかもしれない子ども。

その夜、桜は母の家へ行った。

母は何も聞かず、夕食を作ってくれた。

「昔、あなたが失恋したときも、ここで泣いてたわね」

「いつ?」

「高校二年」

「覚えてない」

「母親は覚えてるの」

桜は笑った。

「お母さん、私、また結婚できるかな」

口にしてから、自分がそんな不安を抱えていたことに気づいた。

母は味噌汁をよそいながら答えた。

「できるかどうかは知らない」

あまりにあっさりしていて、桜は目を丸くした。

「そこ、励ますところじゃない?」

「だって、わからないもの」

母は向かいに座った。

「でも、結婚できるかどうかより、また誰かを好きになれるかどうかを心配したほうがいいんじゃない?」

「同じじゃないの?」

「全然違うでしょ」

桜は黙った。

翌月、会社で新しいプロジェクトの責任者に指名された。

以前なら健太に真っ先に報告していた。

スマートフォンを手に取り、連絡先を開きかけて、やめた。

代わりに母へ電話した。

「すごいじゃない」

母は自分のことのように喜んだ。

「体だけは気をつけなさいよ」

「うん」

少し間があって、桜は言った。

「自分で決めて別れたのに、まだ寂しくなるの」

母は急かさなかった。

「そう」

「おかしくない?」

「どうして?」

「十年も付き合ったのに、って自分でも思うの」

「十年付き合ったから別れちゃいけないなら、人生って変ね。別れたから寂しくないはず、っていうのも同じくらい変よ」

桜は笑った。

母の言葉はいつも、思っているより現実的だった。

「なら、ちゃんと寂しがりなさい。無理に元気にならなくていい」

その夜、桜は久しぶりによく眠った。

健太と別れて二か月ほどしたころ、桜は偶然、二人でよく行った居酒屋の前を通った。

店の前に季節限定のメニューが出ていた。

以前なら、写真を撮って健太に送っていただろう。

『今度これ食べよう』

そんな何気ない約束を、二人は何百回もしてきた。

桜はその場で立ち止まった。

胸が痛んだ。

未来とは、こういう小さな約束の積み重ねだったのだと気づいた。

結婚だけが未来ではない。

来週ここへ行く。来月旅行する。来年も誕生日を祝う。

健太とは、近い未来ならいくらでも話せた。

でも五年後、十年後になると、急に言葉が消えた。

桜が欲しかったのは、遠い未来を完璧に決めることではなかった。

ただ、そこに自分がいると想像してほしかった。

居酒屋には入らず、桜はそのまま歩いた。

少し先に新しいカフェができていた。

一人で入った。

窓際の席でケーキを食べながら、思った。

過去の店に入らなくても、思い出は消えない。

新しい店に入ったからといって、過去を裏切るわけでもない。

三か月ほど経ったころ、健太から連絡が来た。

『元気?』

桜は一時間考えて、『元気だよ。健太は?』と返した。

『まあまあ。仕事は相変わらず』

それから少しやり取りをした。

健太は引っ越しを考えていると言った。今の部屋には桜との思い出が多すぎるらしい。

桜は胸が痛んだ。

でも、戻りたいとは思わなかった。

そのことに気づいたとき、自分の中で何かが一区切りついた。

その後、健太から長いメールが届いた。

『あのときは、結婚が怖いってことばかり考えてた。桜がどれだけ待ってたか、ちゃんと考えてなかった。今さらだけど、ごめん』

桜は何度も読んだ。

涙が出た。

でも、戻ろうとは思わなかった。

彼が初めて自分の気持ちを言葉にしてくれたことが嬉しかった。

同時に、これは復縁の合図ではなく、二人が別々に前へ進むための言葉だとも感じた。

桜は返事を書いた。

『私も、健太が怖がっていたことを理解しているつもりで、本当には聞いてなかったと思う。十年間ありがとう』

それ以上は書かなかった。

送信したあと、胸の奥にあった何かが静かにほどけた。

その過程を通って、桜はようやく悠真と向き合えるようになった。

春が近づくころ、桜は久しぶりに悠真へメッセージを送った。

『この前教えてもらった美術館、行ってきました。よかったです』

悠真からは、『よかった。僕もまた行きたいです』と返ってきた。

そこから、また少しずつ話すようになった。

春になると、桜の生活にも少しずつ新しい習慣ができた。

土曜日の午前はヨガに通い、その帰りに小さなパン屋へ寄る。月に一度は一人で映画を見る。真紀の子どもたちと公園へ行くことも増えた。

一人でいることに慣れてくると、以前より人と会うことも楽になった。

仕事でも変化があった。

若手社員に任せることを覚えた。

以前は自分でやったほうが早いと思っていたが、それでは相手は育たないし、自分も疲れる。

ある日、美咲が結婚式の招待状を持ってきた。

「桜さん、来てくれます?」

「もちろん」

以前なら、結婚式に出ることを少し憂鬱に感じたかもしれない。

今は素直に楽しみだった。

美咲の人生と自分の人生を比べなくなっていた。

結婚式当日、美咲は幸せそうだった。

新郎がスピーチで「彼女の仕事を尊敬しています」と言ったとき、桜は胸が熱くなった。

帰り道、桜は悠真にメッセージを送った。

『今日、後輩の結婚式でした。なんだかすごくいい式でした』

悠真から返ってきた。

『いいですね。桜さんがそう思えたなら、きっといい式だったんでしょうね』

『私が?』

『前より、人の幸せを自分と比べなくなった感じがします』

桜は驚いた。

そんな変化に、悠真が気づいていたことが嬉しかった。

同時に、少し怖くもなった。

この人の前では、自分が見えてしまう。

でも、以前のように、それを避けたいとは思わなかった。


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